それは「加上」――加上の原則といふものを發見したのであります。加上の原則といふものは、元何か一つ初めがある、さうしてそれから次に出た人がその上の事を考へる。又その次に出た者がその上の事を考へる。段々前の説が詰らないとして、後の説、自分の考へたことを良いとするために、段々上に、上の方へ上の方へと考へて行く。それで詰らなかつた最初の説が元にあつて、それから段々そのえらい話は後から發展して行つたのであると、斯ういふことを考へた。それは「出定後語」の「教起前後」の章に書いてある。佛教の中の小乘教も大乘教も、――その大乘教の中にいろいろな宗派がある、その宗派の起る前後といふものは、この加上の原則によつて起つて來たといふことを考へました。
――内藤湖南「大坂の町人学者富永仲基」
富永仲基を、『文藝文化』の栗山理一は、ランケだヘーゲルだ、いやキリストだと持ち上げている。おそらく戦時中のアカデミズムへの批判が町人学者への再評価なんかも促したところがあるのかもしれない。わたくしは、戦時中によくあった芭蕉の讃美なんかはロマンティックでいやだが、まだ、日本浪曼派と国文学界の周囲には、なんとか生き延びて学問だけをやろうみたいな覚悟がそこかしこにあったに違いない。
かんがえてみると、今年の朝ドラもそうかもしれない。アカデミズムへの批判なんか自明の理にすぎない。もう少しで物語もおわるのにほとんど見てないのでなんともいえないが、どうみても主人公の細君(浜辺美波氏)が美人過ぎて、この細君はほんとにこれからすぐ死ぬのか、と思われる。つい、細君よ植物おたくの夫よりも生きよみたいな気分にさせてしまうのである。
浜辺氏は、膵臓喰いたいみたいな妙な作品の出身であるから、どこかしら扱いがマニア向けであり、やたら仮面ライダーとかゴジラに出演する。ゴジラには今度出るようだ。とはいへ、浜辺美波氏がゴジラの膵臓を給食に出すみたいな学園ものなら見てやってもいい。ちょっとわたくしもさすがに人生50年、ゴジラに飽きてきたのである。
罪が目の前にありそうなのが青春であるとすると、罪が背中に貼り付いているのが中年以降である。ゴジラ映画なんかは、他人(米国)がやらかした罪が目の前にあったので、よろこんでしまったという感じで、やはり青春映画だ。背中にゴジラが貼り付いているような中年以降は、ゴジラが簡単にやっつけられないことを分かっている。
ゴジラの出現はいつも群衆が一緒だ。群衆心理にたいするあれとして、周りに影響されてついやってしまうみたいなイメージがあるけれども、個人で頑張るとき以上に個人的な力が溢れかえるものだ。大声援を受けたピッチャーみたいなもんだと思った方がいいかもしれない。ゴジラも一緒なのである。ゴジラも、群衆によって逃げながら応援されているとみたほうがよいであろう。我々の自意識=ゴジラは、しばしば勝手に群衆を代表することさえある。そういえば、学者でも、他人の論文に、私でも分からなかったと詰ってくる人というのは結構いるけれども、大概学者になろうとする若者はそういうのを無視しても大丈夫なのだ。たいがい「分かりやすくしろ」派は自分が代表者面してあらわれるにきまっているのである。なぜかといえば、本当はゴジラは罪でありながら罪を消去するものでもあり、しかも大きく明瞭だ。自己欺瞞も消去した物体にたいして我々は自信を持ちかねないのである。
日本浪曼派や文藝文化グループもどこかしら、夢を対象に投影する。つまり、ゴジラをつくりたがっている。プロ野球選手とか映画俳優が夢というのは、成功すれば喝采をあびるのでそれを夢と言っても良い気がするのだが、教師とか政治家とか研究者が夢とかいうのはなにかおかしい。それは義務とも違うが、やるしかないみたいな意識でめざすものであって、――夢とか言ってるやつはたぶん向いてないのではないか。ほんとはプロ野球も俳優も一緒かなと思う。