
「これなむ、仲忠が見給へぬ琴に侍るなり、仕うまつらせむ」と奏し給ふ。賜はりて、何心なく掻き鳴らすに、天地揺すりて響く。帝よりはじめ奉りて、大きに驚き給ふ。伸忠、今は限り、この琴、まさに仕うまつり静まりなむや、ねたくくちをしきに、同じくは、天地驚くばかり仕うまつらむと思ひぬ。 涼弥行が琴、南風に劣らぬあり、このすさの琴を、院の帝に参らす。帝、同じ声に調べて賜ふ。
仲忠、かの七人の一つてふ山の師の手、涼は、弥行が琴を、少しねたう仕うまつるに、雲の上より響き、地の下より響み、風雲動きて、月・星騒ぐ。礫のやうなる氷降り、雷鳴り閃く。雪、衾のごと凝りて降るすなはち消えぬ。仲忠、 七人の人の調べたる大曲、残さず弾く。涼、弥行が大曲の音の出づる限り仕うまつる。□□天人、下りて舞ふ。仲忠、琴に合はせて弾く。
朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なる乙女しばしとめなむ
返りて、いま一返り舞ひて、上りぬ。
大学生の頃みたとおもうんだが、――「マーズ・アタック」という映画の最後、エイリアンを駆逐した地球にトム・ジョーンズの it's not unusual がながれ、鳥がそれにあわせて首を振っている場面があった。実際、音楽の最高の状態は、世界と合一することであって、映画の総合芸術性が音楽のもともともっていたのかもしれないアニミズム的な世界を呼び寄せている。ワーグナーとかマーラーの段階でもうすでに世界との合一は試みられていた。前者はインド的なものへの接近で、後者は交響曲とキリスト教、ファウスト的なものの同時接近によって。シェーンベルクの「グレの歌」の最後なんか、もう少しで実際の鳥を演奏会場に放ちたい欲望にかられる。案外、そこからジョン・ケージの世界へは遠くなかった。
上のような琴の音が世界を震動させるだけでなく、天人まで呼び寄せてしまう事態は、もう少しでわれわれに、感覚の上では回帰してくると思う。
Stars - Esenvalds (World Premiere Performance) - Salt Lake Vocal Artists
いまの音楽好きの若者達は、こういう世界を聴いて育っている。「気球に乗ってどこまでも」を歌って喜んでいた時代とは確かに違うのかもしれない。
昭和の子どもたちが夢中になっていたSFアニメはまだ革命主体みたいなものが理想視されていた。ブランキの「天体による永遠」には、機動戦士ガンダムのナレーションにでてきてもおかしくないせりふがある。しかし、――確かに、われわれは宇宙空間に現実空間の焦点のさきにあるものをみていたのだ。そういえば、むかし、藤村と独歩の違いについて、焦点のむこうに山をみてるか空をみてるかみたいな違いを感じていたんだが、ほんと平地に行くと山国の出身者はどこをみたらいいのかわからなくなるのである。かわりに人の顔がやたら見える。これがある種の近代文学の世界であり、柳田國男が、藤村は都会での苦闘を「禅」のようにおこなっていた、みたいに指摘するのはわかる。近代文学は風景への視線から近くの顔への恐怖を契機に折れ曲がった一種の禅的内省の世界なのである。透谷や独歩みたいに宇宙をみたりするやつは折れ曲がる前の過渡的現象であった。しかし、ここでの合一に近づいた経験を忘れられず、ときどき内省からなにかSFまがいの巨大性にしがみつこうとする表現者が、大してプロセスを経ずにでてくる。それはもともと視線の折れ曲がりに過ぎないのだからとくにプロセスを必要としない。
わたしは予備校は名古屋に行ったのだが、名古屋の方言はとてもなじめなかった。なんだか恐怖をかんじたものである。それは大阪弁に近い香川の方言に囲まれているよりもつよかった。若かったからもあるが、わたくしの臆断によれば、尾張藩に支配されていたトラウマ、蛇ににらまれた蛙みたいなものだと思っている。つまらない妄想であるが、こういうのも我々の内省の世界である。ここにはなかなか天人が降りてくる余地はなかった。その内省そのものには歌がなかったからである。
田舎で発掘されたわたくしの小学校時代のプリント類のかなりの部分は、合唱の楽譜である。そこに天人がいたのかはわからないが、わたくしの内省の世界とうまくバランスをとっていたと思う。小学校の担任の牛丸先生は、我々の卒業に際して「心に歌を」とどこかに書いていた。むろん、山本有三の「くちびるに歌を持て。心に太陽を持て」をもじったものであるが、先生の方が正しいと思う。しかし、中学以降の器楽への熱中によってなにか即物的な音楽としてわたくしの内面から遠ざかったとはいえないであろうか。
テレビで成人式みてたら、星人の方が「親に恩返ししたいですキャハハ」みたいに言ってたので、即座に夫婦で「親孝行だろ、お前は鶴かよ」と突っ込んでいた我々は青春を失って久しい。成人じゃつまらないからせめて星人でいいことにしたい。