
大将、「賜ひ侍りなむと、わいても、涼・仲忠が今宵の禄にあるべき女子や、誰もありがたく侍らむ」。「いはゆるあてこそ、それこそは、よき今宵の禄なれ。涼にはあてこそ、仲忠には、そこに一の内親王ものせらるらむ、それを賜ふ」と仰せらる。涼・仲忠、崩れ落ちて、舞踏す。
あまりにも人の世を離れたものが出現すると、何かおかしくなるのは世の常かもしれない。天人が舞い降りるレベルの琴の演奏にたいして、帝が与えたのは、結婚相手、あて宮と女一宮であった。涼には前者が、仲忠には後者が与えられるわけであるが、この選択の意味をめぐっては、我々は人間なので、――あれはリゲルとベテルギウスよかったよかった、という訳にはいかない。仲忠に対する涼という対の存在性が物語の中でも大きくなってしまう。のちに凉に対する宣旨が廃棄されるのはその後始末である。考えてみると、我々は、対の存在性を嫌うところもある。むろん、帝が絡んでいるからである。
ただのイメージであるが、日本の文化における擬人法はたいがいいい子ぶっている。擬人法というのは怖ろしいもので、人間と比喩されるものを対の存在に引き上げてしまうからのような気がする。我々は、根本的に「山月記」の虎を恐れている。しかし中島敦だって、李徴を虎にしてしまっただけで、虎が人となり我々を殺す物語を書いたわけではない。
以前、指導教官にきつく私に言ってたのだが、――「地獄の黙示録」みたいなのがいちばん現実とは違うんだと。文学なんかやってるとよく間違うことなんで気をつけたいと思っている。「地獄の黙示録」はアメリカにとって、対となる、見たくない現実を、示唆ししかも押さえ込むものであった。その抑圧の力は結構大きいものである。それは、有名なワーグナーの曲をかけながらベトナム人たちを虐殺する場面に現れていて、アメリカの兵士たちにすら自覚されている抑圧を、聴衆が音楽の快感によって忘れるというトリッキーなつくりなのである。
ただ、その欺瞞は表面にあらわれている。アメリカはまだ余裕があったのだ。負けたとは本当は思えないほどに国土が無事だったからである。しかし、人間が拠って立つ国土が脅かされかけた日本では、もっと対への意識は隠された形であたかも自然推移のように行われてている。自国よりも敵国の失敗とやらを盛んに報道するようになるのは、その国つまり後の宗主国への高い関心に繋がっているわけだった。日本の面従腹背というのは普通考えられているよりも巧妙であり、面従腹背の意識すらない状態で行われるのである。だから、対への意識はアメリカに対してはなかなか生じていない。中国に対しての方が、長年自らが属国だった割には、漢心だみたいな相対化で済みかねなかったのは、天から何かが降ってきたかどうかによる。
空想であるが、――もしかしたら、天人とは中国であり、それを呼び起こした琴に対し、帝が対の存在として頑張らなくてはならなくなったのかも知れない。帝は、竹取物語で、天に自分の意志すら天に蹂躙されている。好きな下層階級のおなごを、天からの使者たちに強奪されているからだ。天と通じる琴の名手たちに女性関係の支配的権力をふるうこと、これくらいやってのけなくてはいけない帝という存在はつねに人間業をなくした存在である。