★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

未来への投網、過去への投網

2022-01-19 23:38:46 | 文学


ちはやぶる伊豆の御山の玉椿 八百万代も色はかはらじ

ここには無限の未来に対する信頼が神を理由にしてあるみたいであるが、その実現在までの過去をそのまま未来に折り返して伸ばしているだけであるように思われる。玉椿が色が変わらないあつかいを和歌でされてきたのでよけいそう思えるのであろうが、実際の椿がぽとりといきなり落ちることのイメージがよぎらないわけはなく、ほんとは未来はかなり不安定なものとして意識されているのかもしれない。

天皇の歴史とは果たして、未来に延びようとしていたものであろうか。千代に八千代にというのがその実未来への恐怖であるのはありうることである。同時にほんとは過去もろくでもない世界が広がっていたことは誰でも知っており、案外、天皇制は「いまここ」に相性がいい。日本の保守主義とは、保守ではなく現在の維持なのである。

小島玄之の『クーデターの必然性と可能性』というのを初めてめくってみたが、よく分からないけれども、ある時期日本の右も左も問題にしていたのは必然性と可能性であった。つまりこれは根本的に上のような天皇制への時間的抵抗である。三島と東大全共闘の対立が、この時間的抵抗を過去に向けるのか未来に向けるのかという対立を作り出していたのはよく知られている。

私は、過去の神話が未来への神話に転回し化ける瞬間があり、――ある種危険な考えであるが、それは許される場合があると思っている。ただし、その転回的神話は人間の知性の行為としてあるときだけであるように思われる。知性が欠けている場合は、「無為」たる現在の合理化にしかならない。

では、日本の受験生たちが直面する「知」の世界はどうなのであろう。確かに、彼らがそれ自体の楽しさにとり憑かれることはあるだろうが、たいがいそんなここの余裕はなく、競争の手段となりはてている。確かに、彼らが行っているのは、就職とか出世とかの、未来へのセフティネットなのである。未来の時点では時間が止まる無為が目標なのであるが、確かに未来を見ていることは確かなのである。しかしそれは一種の無である。当たり前である、まだ何もやっていない誰とも会ってない空間への投網なのである。そこに賭けるのが例えば受験優等生たちであるが、必然として失敗したときに孤独になってしまう。孤独にならないためには過去にセフティネットを投げるしかないのである。例の東大前での君もそういうかんじに私には思われた。もちろんススメはせんけれども、ワシは東大に入るでーと言いながら中学の同級生とバイクで東大に乗り付けるとかのほうが、ワイワイとおもしろそうなのにそうはしないわけである。

未来への網に対してはやくから絶望した子ども達は逆に過去を利用する知恵をつけて生き延びて行くのである。優等生たちは、しばしばそれがわからない。よく言われることであるが、右も左もエリートたちが孤立するのは、知的な孤立ではなく、網を投げる方向の違い、しかもそれが失敗したところからくる単なる必然である。

しかし、かかる事情をふまえた上で、未来にも過去にもセフティネット張らずに踏ん張る生き方があると思う。正直なところ、学者はそうじゃないと、かならず誰かの利益に奉仕することになるんじゃないだろうか。

以前どこかで書いたが、江藤淳の持っていたある要素が、彼を模倣した柄谷行人を通して生き延びた部分は案外大きかったのである。ある論者が滅びないためには他の人が必要だというのは、マルクスとエンゲルスみたいなものだけではない。共闘よりも、引き継ぎの方が未来を形成するのだ。非常に皮肉なことに、ネトウヨと今風のリベラル?との関係は、江藤淳と柄谷行人との関係に全く似ていないとはいえない。


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