不圖――不圖幸子は分つた氣がした。それもすつかり分つた氣がした。「レーニンだ!」と思つた。これ等のことが皆レーニンから來てゐることだ、それに氣付いた。色々な本の澤山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられてゐる寫眞のレーニンの顏が、アリ/\と幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた學校の吉田といふ小使さんと、そつくりの顏だつた。そして、それに――組合の人達がくる度に、父と一緒に色々な歌をうたつた。幸子は然し、子供の歌に對する敏感さから、大人達の誰よりも早く「×旗の歌」や「メーデイの歌」を覺えてしまつた。幸子は學校でも家でも「からたちの唄」や「カナリヤの歌」なぞと一緒に、その歌を意味も分らずに、何處ででも歌つた。それで、何度も幸子は組合の人から頭を撫てもらつた。――父は決して惡い人でないし、惡いこともする筈がない。幸子には、だからそれは矢張り「レーニン」と「×旗の歌」のせいだとしか思へない氣がした。――さうだ、確かにそれしかない。
――小林多喜二「一九二八年三月一五日」
若い頃、本に線をひっぱったり悪口を書きながら勉強したが、困ったのはレーニンの「哲学ノート」で、すでにレーニンによってヘーゲルとかの引用に「はっはっ!!」とか「弱い!」とか「??」とか書き込んであるのである。すでにツッコまれているものに弱いという学徒に典型的な症状を示しつつレーニンをあまり一生懸命読まなかった。
つまり私はその頃、興味を数珠つなぎに繋げているだけの調べ屋であったと思う。興味の対象がすでに社会的「議論」の所産であることを潜在的に嫌っていた。
そういえば院生の演習でふれた和泉式部の歌っていうのは難しかった。もっと一生懸命勉強すれば良かったよ、ぜんぜんわからなかった記憶がある。文学部というのは案外、学生の細かい興味の壁に抵抗されながらやっとのことで運営されているものだ。そういうことを知らない連中が学際とか多様性とか言ってさわいでいる。教師が自分の興味を突破しているだけでなく本気で本質を語る社会的な態度をつくりあげないとどうしようもない。大学院時代は、自分の窓をこさえることだけでなく、本質に対する態度を醸成することでないといけない。そうでないと、学者は容易にキャラクターとして病人扱いされるし、自ら病人であることを誇示してみずからを守ることにもなりかねない。