★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ゼロの反転

2022-01-18 23:38:46 | 文学


宿にある桜の花は咲きにけり千歳の春も常かくし見む

我々にとって毎年飽きずに咲いている桜はいったい何であろうか。それは千歳の保証のようなものである。桜が咲かなくなったときにはこの世は0になるという恐怖があるのだ。我々は、ときどきそういう0を経験してきたからである。地震津波犯罪人生の過ち、なんでもいいが0になるときがある。実朝の人生も突然0になってしまったが、珍しいことではなく、たぶんこれは桜の開花に近い日常である。

「笑ってはいけない。だって君、そうじゃないか。祖先を祭るために生きていなければならないとか、人類の文化を完成させなければならないとか、そんなたいへんな倫理的な義務としてしか僕たちは今まで教えられていないのだ。なんの科学的な説明も与えられていないのだ。そんなら僕たちマイナスの人間は皆、死んだほうがいいのだ。死ぬとゼロだよ」
「馬鹿! 何を言っていやがる。どだい、君、虫が好すぎるぞ。それは成る程、君も僕もぜんぜん生産にあずかっていない人間だ。それだからとて、決してマイナスの生活はしていないと思うのだ。君はいったい、無産階級の解放を望んでいるのか。無産階級の大勝利を信じているのか。程度の差はあるけれども、僕たちはブルジョアジイに寄生している。それは確かだ。だがそれはブルジョアジイを支持しているのとはぜんぜん意味が違うのだ。一のプロレタリアアトへの貢献と、九のブルジョアジイへの貢献と君は言ったが、何を指してブルジョアジイへの貢献と言うのだろう。わざわざ資本家の懐を肥してやる点では、僕たちだってプロレタリアアトだって同じことなんだ。資本主義的経済社会に住んでいることが裏切りなら、闘士にはどんな仙人が成るのだ。そんな言葉こそウルトラというものだ。小児病というものだ。一のプロレタリアアトへの貢献、それで沢山。その一が尊いのだ。その一だけの為に僕たちは頑張って生きていなければならないのだ。そうしてそれが立派にプラスの生活だ。死ぬなんて馬鹿だ。死ぬなんて馬鹿だ」


――太宰治「葉」


ここには、ゼロがこの世の破滅ではなく、個人の死を意味している。この自意識なら、世の中の破滅なんか、何のことはないわけだ。太宰にとっては大震災も世界大戦も大したことではなかったのではなかろうか。


最新の画像もっと見る