食事がすむと、妙にぼんやりしてしまった。「暫く此処に居てもいいだろう、」と彼は云った。「はあどうぞ、」と給仕は慌てたように答えながら、片方の眉尻を下げ口を少し歪めて、変な顔をした。彼は可笑しくなった。笑を押えて眼を円くしながら、彼はも一脚の椅子の上に足を投げ出した。見ると、向うの卓子の上の大きな硝子鉢に、金魚が四五匹はいっていた。馬鹿に大きな鰭と尾とを動かして悠長に泳いでいた。彼は立ち上って覗きに行った。上から覗き込むと、小さな嫌な金魚だった。横から硝子越しに見ると、大きな立派なものになった。彼は感心した、自分も金魚を飼って見たくなった。急いで給仕を呼んで勘定を済した。
――豊島与志雄「金魚」
「真夏の夜の夢 高松2024」というイベントが高松港あたりでやっていたので夫婦そろっていってきた。
SOLOーDUOというすごく巧いグループが演奏していた。音楽はいまでも着実に進化しているようであって、西洋音楽を稚拙に模倣する日本人、みたいな観念はもう安易に使えなくなっている。ただ、そういう観念を呼び寄せるケースと場所が作られてしまう場合があるだけである。クラシック音楽だって、FMの「現代の音楽」なんかを聴いてると、停滞感はない。現代音楽は行き詰まっているという観念が社会にあるだけだ。――もっとも、その観念は案外、業界の内部にいる者こそが持っている場合がある。文学がその良い例で、内部にいるといつも停滞感がすごい。で、読者が勝手にすばらしさを受け取って進化の担い手になる。
うまいギターの音はこちらに伝わり方が早く、高音なのに低音に聞こえたりする。こういうことだって文学においても起こらないとは限らない。
空に魚のタコをあげているのはフランスのパフォーマーであった。なんとなくフランスみたいだと思ったら実際そうであった。西洋建築のなかで飛んでいたら似合うかも知れない。日本ではどこかしら、屋台の金魚みたいなもののイメージが強すぎる。