落ちとまりてかたはなるべき人の御文ども、破れば惜し、と思されけるにや、すこしづつ残したまへりけるを、もののついでに御覧じつけて、破らせたまひなどするに
紫の上がなくなって抜け殻状態の源氏であるが、後に残っては都合の悪そうな人から貰った手紙を破り捨てている彼である。一体、どのような女人と交渉を持って居ったのか……(棒読み)。このあと、一つにまとめてあった紫の上からの手紙も燃してしまう彼なのであるが、昔からこの場面がよく分からない。私だったら、未練がましく紫の上の手紙だけ肌身離さず死んでからも一緒に墓に入る。
本文を全く無視して想像すると、たぶん紫の上との関係はある種特殊ではあったものの、他の女人との関係だってそう違っておらず、ちょっと危ない人との関係と紫の上の関係を本当に区別することは出来ない。残ってはまずいものから破っていた源氏であるが、考えてみたら多数の女人たちの関係はみんなそれなりのことで、俺の恋愛人生は全体として何の意味もなかったわな……と思ってしまったのではなかろうか。
いと、かからぬほどのことにてだに、過ぎにし人の跡と見るはあはれなるを、ましていとどかきくらし、それとも見分かれぬまで、降りおつる御涙の水茎に流れ添ふを、人もあまり心弱しと見たてまつるべきが、かたはらいたうはしたなければ、押しやりたまひて、
死出の山越えにし人を慕ふとて跡を見つつもなほ惑ふかな
とはいっても、大学生だったか予備校生だったか忘れたがこの場面でちょっぴり涙が出たわたくしであることだ。
しかしながら、なお翻ってわたくしのことを考えてみると、どうも女人たちとの手紙を焼いたり破ったりする神経は腑に落ちない。何か本当にまずいことが書いてあったのではないか。源氏は、柏木の一件で自分の人生を「報い」にやられたと思っている人間なのであり、こういう人間は過去の清算をどこかでやるのではないかと思う。戦時下の書類を焼いた役人だって、「報い」をある意味で感じていたに相違なく、もうそんな感じで傷ついているのだから、今後、もっと恐ろしい事実が明らかになっては耐えきれない、と思うのではないか。わたくしは、心理的重圧が三つぐらい層なると、もう生きている気がしなくなる人間をたくさん見てきたが、――そんなときにはいかなる欺瞞的心理も起こりうる。
芥川龍之介は「鼻」(『侏儒の言葉』)で、恋愛の自己欺瞞、ひいては自己欺瞞一般(「看板のあることを欲する心」)について語ったが、もっと無に帰そうとする自己欺瞞というものもあるように思う。