香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず、あやしきまで、うち振る舞ひたまへるあたり、遠く隔たるほどの追風に、まことに 百歩の外も薫りぬべき心地しける。
薫はすごくよい薫りがする人であった。遠くに薫っているだけではない。この世ならぬ匂いなのである。嗅いだとたんにこの世を忘れる匂いとはどのようなものであろう。
わたくしとしては、お腹が空いているときのカレーライスなどがその薫りではなかろうか――と思う。
――それはともかく、この匂いというのは多分に観念的なものであるので、父親が源氏であるということになっているのが大きいのであろう。いまや源氏はこの世のものではないわけで、しかのみならず、源氏の慎重な生き様の結果としての薫である。と言う訳で、
げに、さるべくて、いとこの世の人とはつくり出でざりける、 仮に宿れるかとも見ゆること添ひたまへり。
仏が宿っているともおもわれるのであった。
そういえば、キューブリックの大作『バリー・リンドン』の主人公は、アイルランドの貧しい階級の生まれで、愛する従姉を貴族にとられた恨みで決闘して故郷を追われ、軍隊を渡りあるき、ヨーロッパで賭博師をやっているうちに、ある老いた貴族の妻を拐かして、後釜となる。しかし、自分は貴族ではないし、先夫の子どもを殴打したこともあって評判は地に落ち、自分の子どもは馬から転落、妻は自殺未遂。結局、殴った子どもと決闘し足を打ちぬかれて故郷に帰る。
こんな波瀾万丈な人生なのに、まったくドラマチックではなく、平板な緊張感が張り詰めている映画である。ある意味、この平板な緊張感は貴族社会の輝かしさとして匂う「腐臭」といってもよい。映画史上一番の美しさだとか、蓮實重彦氏になると三十七回笑ったとか言っている。私は、五回ぐらい笑ったので、修行が足りないのであろうが、――思うに、モーツアルトとかベートーベンが破壊しようとしたのは、こういう腐臭なのであろう。
薫や匂の宮が源氏の後釜として活躍するにあたり、彼等が匂いの権化であったのは、本当はそれが匂いではなく、上のような「腐臭」であったのではないかと疑われる。