★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あれ 松虫が鳴いている ちんちろちんちろ ちんちろりん

2022-01-24 23:26:39 | 文学


小笹原おく露寒み秋されば 松虫の音になかぬ夜ぞなき

この歌は詞書に「頼めたる人の許に」とあって、ええかげんな男が通ってこないのでひたすら松(待つ)女の立場にたった歌であるようである。しかし、詞書きを知らなければ、「小笹原おく露寒み」のなかで秋松虫が鳴いていることを歌った風景描写的な歌であるようにみえる。思うに、これはこれで本当に松虫の歌であり、恋は、松虫なしではいられないのだ。ひいては、恋は歌なしではありえない。松虫から待つ女へなにかが移り、恋の歌から人間へ何かが移り、またその松虫の声を聞く人間が恋の歌を詠み、恋をする。こういう循環が感情を――つまり人間社会をかたちづくるのである。

言うまでもないが、昨今の、コミュニケーション能力とか、ハラスメントの主体とかいう、能力や加害力が主体に内在しそこに悪や罪が宿るかのような論理は、丸山眞男のいわゆる「抑圧の移譲」すらふまえぬ瑕疵というより、――上の松虫と待つ行為を、待つ行為のみを主体として考えるような閉じた態度を示している。

本当は閉じているどころではなく、暴力的権力だけを隠すための仕組みに過ぎない。「ハラスメントは連鎖する」(安冨歩)の観点は、暴力的な親の存在を告発することにあって、勇気のある試みだった。しかし安冨氏はもちろん、親だけでなく政治的権力すらも告発する段階にすぐに移っていったが、必然である。ハラスメントは誰かが連鎖を止める努力をするべきで、場合によっては被害者がその「移譲」の情況を自覚することで我慢する局面だって必要だが、連鎖は大きな原因を排除すれば消滅する場合もあるからである。

その場合、過激な言動も必要だというのが、西洋の文化の一部で自覚されてきたことであり、日本の場合、ハラスメント対策が息を潜めてトラブルを避ける方向で進み、「いい人」たちの頷きあいに移行しがちであるのは相変わらずである。ある種の人間は頭がいいので、こういう情況のなかでうまいこと権力的に振る舞うことが可能である。なにしろ、物事に激しく反応する人間がいないんだから、むしろ、その可能性を広げているのが、昨今のあれなのである。

小さいコミュニティで過剰に民主主義的な手続きに拘り、構成員にこまかく諮るやり方をする人間が、案外大きな権力には従順なのは一見矛盾にみえるけれども、矛盾ではない。生きることの自由は、それが野放図に創造される事態を示しているのに、彼らにとってはそれは単に権力の裁量や合意に適合すべき行為の問題なのである。つまり自分の創造性、ひいては生きることそのものに価値を置いていないので、生はせいぜい個人の利益としか認識されない。それと関係なくなったらすごく人情に欠けるし迷惑を考えないし、場合によっては自分を護るために積極的にいじめも厭わない。かれらにとっては権力はその裁量内の行使だから、それには文句をつけることはない。適当に自分がそれらに傷つけられなければいいと思っている。――というわけで、組織の中での過剰コンプラ+なんとかマターが好きな人間は、大して意識せず、いじめが大好きだし幇間的なのである。

白樺は自分たちの小さな力でつくった小さな畑である。自分たちはここに互いの許せる範囲で自分勝手なものを植えたいと思っている。

――『白樺』創刊の辞


今日は、授業でこの宣言がもつ重大な意味を偉そうに語ってしまったが、本当はわたくしなんかは語る資格はないのだ。組織の中で自分勝手なことをしようとするとハラスメントになってしまうのを知ってるくせに、という理由である。


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