すると、突然自分の足に軽く触れたものがある、ゾーッとしたので見ると、一疋の白い蝶だ、最早四辺は薄暗いので、よくも解らぬけれど、足下の辺を、ただばたばたと羽撃をしながら格別飛びそうにもしない、白い蝶! 自分は幼い時分の寐物語に聞いた、蝶は人の霊魂であるというようなことが、深く頭脳にあったので、何だか急に神経が刺戟されて、心臓の鼓動も高ぶった、自分は何だか気味の悪るいので、裾のあたりを持って、それを払うけれど、中々逃げそうにもしない、仕方なしに、足でパッと思切り蹴って、ずんずん歩き出したが二三間行くとまた来る、平時なら自分は「何こんなもの」と打殺したであろうが、如何した事か、その時ばかりは、そんな気が少しも出ない、何というてよいか、益々薄気味が悪るいので、此度は手で強く払って歩き出してみた、が矢張蝶は前になり後になりして始終私の身辺に附いて来る、走ってみたらと思ったので、私は半町ばかり一生懸命に走ってみた、蝶もさすがに追ってこられなかったものか、最早何処にも見えないので、やれ安心と、ほっと一息付きながら歩き出した途端、ひやりと頸筋に触れたものがある、また来たかとゾーッとしながら、夢中に手で払ってみると、果せるかな、その蝶だ、もう私も堪え兼ねたので、三町ばかり、向う見ずに馳け出して、やっとのことで、赤羽橋まで来て、初めて人心地がついた、清正公の此処の角を曲ると、もう三田の夜店の灯が、きらきら賑かに見えたのだ、この時には蝶も、あたりに見えなかった、が丁度その間四五町ばかりというものは、実に、一種何物かに襲われたかのような感がして、身体が、こう何処となく痳痺したようで、とても言葉に言い現わせない心持であった、しかし、それからは先ず無事に家へ帰ったものの、今日まで、こんな恐ろしい目に出会った事は未だにない、今でも独りで居て偶々憶出すと、思わず戦慄するのである。
――岡田三郎助「白い蝶」