日本には、昔から、鉄条網を破壊しようとして間違って死んだ爆弾三勇士とか、死んでもラッパを離しませんでした人とか、戦闘そのものと関係ないと一見思われる場面での犬死、作戦失敗――をかえって美談と感じてしまう愚かな風土がある。
最近主張されている「兵站のみの協力」であるが、日本での戦争美談は、かえってこういうドンパチ以外のシーンでおこるのであって、今の政府は極めて正直な人たちだと言ってよい。かつての特攻隊もたぶんたいした戦果を上げない、無意味なものだからこそ、立案されたのではないかと疑われる。――特攻は、「永遠の0」みたいな映画の「ために」行われたのではなかろうか。
だいたい、戦争に勝ちたいのなら、なんとしてでもスパイをアメリカに潜り込ませ、首都を急襲するとかなんかやり方があるだろうが……、太平洋でこちょこちょやってないで。冗談だけど。……というわたくしを見てもわかるように、我々の戦争プランナーとしての能力にはかなり疑問があるのだ。
要するに、戦争を日常の延長の関係性としての総体として捉える能力がなければならぬのに、非戦闘地域だ、非常時だ、などと戦争を何かと切り離しているようでは、……我々はハレとケの関係を調達する能力は抜群であるが、どうも空間的な能力にかなり問題があるのではなかろうか。
というわけで、核兵器も兵器だしかし兵器でないとか大臣がシュルレアリスム的に言い張るのは当然である。そんな危険な爆弾ではさすがに爆弾三勇士のお話は出来ないからだ。戦争は勝ち負けを生むのではない、美談や絶望を生むのでもないのだ。生まれるのは、フロイト以来、芸術家や思想家によって腐るほど指摘されているように、「狂気と錯乱」である。
……と書いていたら、昔の教え子から「会社が突然、もう残業代は出しませんキリッ、と言ってきました」というメールが来た。