見えなかったり見えたり……。別のものが見えたり、こんなことが繰り返されるのが我々の日常である。
思うに、文学研究者というのは、──特に最近は、作家たちを自然物のようにみなしている。自然科学の影響かもしれない。理系と人文学との違いは対象を自然とみなすか人間とみるかが大きいだけに、我々はアイデンティティを失いつつあるのかもしれない。
もっとも、評論家を論ずるときには、自然物ではなく人間であるか、偶像としてみている。このとき、今度は文学を生じさせた「自然」にふれていない嫌な感じが伴う。
しかし、以上のような感想はすべて錯覚ではないか。
果たして、我々の相手は論ずるに値する自然、あるいは現象なのであろうか。柳田國男の文章を読んでいると、彼がそんな逡巡を回避するために、必死だったような気がしてならない。そしてそれは、文芸評論家なども必ず通らなければならない苦しみではないか。
学者は、学問領域という自明性のためについそのことを忘れがちになるのではなかろうか。