例えば柄谷行人氏にとって、初期の『意味という病』から「病という意味」(『日本近代文学の起源』)への転換はおそらく大きいものなのだが、それを大げさに「転向」だと言い立てる論者(そんなのがいるのか知らんけど)は何か間違っている。この二週間ぐらい、私自身がそういう感じだったので反省しているのである。
以前、デビュー当時の柄谷氏が父親の病気のことを書いていた文章を読んで、この人はだいぶ「病」んでるな、近代文学の人だなあ、と感じた。私もそうだが、「病」とか「告白」とか「児童」とかに対して何か客観視して振る舞わなくてはならなくなったときに、むしろ私自身の陥っている文学的〈病〉が急に表面化するような気がするのである。『日本近代文学の起源』という本が面白いのは、風景や内面や構成力、ジャンルの消滅を論じた部分そのものにはなく、上記の三つ(病、告白、児童)をそこに並列させたことにある。このセンスはとても面白い、と私は思う。
江藤淳や吉本隆明には、柄谷ほど病んでいなかったせいかそれができなかった。花田清輝は病みすぎていて出来なかった。小林秀雄は、ちょっと私には不気味すぎて……。こいつが実は一番健康な気がするんだが……。