★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

月の兎後日談

2010-09-23 21:49:29 | 文学


 いまし三人の 友だちは 
 いづれ劣ると なけれども
 兎はことに やさしとて
 骸をかかへて ひさがたの
 月の宮にぞ 葬りける
 
 今の世までも 語りつぎ
 月の兎と いうことは これがもとにて ありけると
 聞く吾さへも 白袴の
 衣の袖は とほりて濡れぬ

有名な良寛の『月の兎』である。今昔では「三獣行菩薩通兎焼身語」という題になっている例の話を長歌にしたのである。飢えた老人のために、猿と狐は食糧を集めてこれたけど、兎は何も出来なかったので、火の中に投身して自ら食糧となった。老人は実は帝釈天で、兎だけ月に飾ってあげたという。

今なら、兎に嫉妬した猿と狐が、「上から目線はやめろ」とか「かわいい子をひいきした」とかいって帝釈天を訴えるところだ。そのうち、帝釈天が公文書偽造をしてたとか、兎と渋谷でデートしてたとかいう事実が、週刊誌をにぎわし、若い社会学者とかが「兎がかわいいというのは老人の常識に過ぎないんじゃないですか~。」とか自慢げに言い出し、統計を取ったりして「猿や狐も好きな人がたくさんいました」と喜んだりする。

夢の総量はエスカレーターを逆走する

2010-09-23 00:56:28 | 旅行や帰省

おとつい、つい嬉しさで緩んでエスカレーターで降りようとして上りの方に突入したんだよね、二回も↑

東京にいくと、国会図書館に通った日々を想い出す。東京はなんとなく集中力が高まった気がするところなので、自己点検が難しく……と考えるほど私は田舎者なのである。以前、東京出身の評論家が〈郊外論〉と称する箱庭論を展開していたが、裏山にキノコを取りに入ったロマンを論じているようなものだ。私にはあまり関係がない。

東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑踏に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘へいでゐた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻らうと思つた。無言の影に言葉を与へ、無数の傷に血を与へやうと思つた。虚偽の泪を流す暇はもう私には与へられない。全てが切実に切迫してゐた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳へ帰らなければならない。と。

これは、新潟から東京を幻視した坂口安吾(「ふるさとに寄する讃歌――夢の総量は空気であつた――」)だが、彼でさえ、東京に帰ったところで、言葉をあたえる以前に、粉砕され喘がなければならなかったことに変わりはあるまい。ロマンどころではない。夢見る総量が多いだけ、我に返るのも遅くなる可能性もあるだろう。結局、読まれるべき一行、振り返るしかない一画面をつくりだすのは場所がつくりだす空気ではなく、自分である。