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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

可能性の抑圧について

2025-03-20 23:02:17 | 文学


一枚の白い紙を掬い上げるように
向うの鏡の中に
美しい女は現われては来ない
漂流する飛行機の上で
故障した無電機から
かすかな鋸の音を聞いているような
不安な影が


――上林猷夫「機械と女」


もはや、松本零士の四畳半の世界であるようだが、いまだって、このような美女と機械の組み合わせは、大きく観れば非常に非常に多く追及されている。それはそれで面白いのであろうが、わたくしは、そういうことをやりたがる人間とは何かという問いしか頭に浮かべることができない。

どちらかといえば、わたくしには、フェミニストが問題にしていたような修辞的介入の有効性みたいなものが引っかかり続けているのだ。

昨日も、「ものすごい猫好きは、ケネディにも猫を感じるらしい。ネが入っているのとケとかデとかイが猫が寝転んでいる姿に似ているらしいのだ。世の中ほとんどが猫では。」などと妄想し独りごちでいたわけであるが、果たしてこういう修辞に意味はあるのか?またわたくしは、ドジャースで試合前にマグロの解体をやったという記事をみつけて、「コロッセオで猛獣殺すかわりにマグロの解体かよとも思うが、こういうのがないから授業とかが眠くなるんだろうな、わしも授業前にマグロの解体ショーでもしようかな。むかしPerfumeもどさ回りでマグロの解体ショーやったって言ってたし。」とか妄想した。わたくしにとって、こういう行為さえ、修辞的介入ではあるのだ。しかし、こういうのは果たして、世界の修羅場をくぐった人間たちの怖ろしい権力に勝てるのか?東浩紀が言うように、むろん勝てるはずがない。勝つことは政治的な問題である。そういう局面になると、文学も「修辞的介入」とか言っている場合ではなく、ラスコーリニコフの次元にうつってゆくしかない。

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

最近は、「春すぎて」が一番うるっときてしまう私は、実に平和ボケしている。

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

そもそもあまり勤勉でなかったむかし、鴨がひとりで眠そうにしているのかと思っていたぐらいなのだ。

我々の文化風土は、生と死の次元にすぐ政治的な問題が移ってしまう。いままで数々の屍体を葬ってきたからではなかろうか。死をもたらした大きな人為的事件には生を生み出す何かがあり、私の世代なんかは自分が連合赤軍事件の山岳ベースで生まれたのかもとか妄想するやつもいたであろう(私が実際そうだった)。このまえ、桐野夏生が似たような発想で小説書いていた。オウム事件に関してもそういう人いるにちがいない。むろん、こういう妄想に政治的な力はない。桐野の小説に、連合赤軍の行為にフェミニズム的な希望への反転をみる文学的願望があったとしても、あれでは、内戦事件をある意味弔ったことにしかなっていないではないか?

よって、我々は現実に無力な教師たちを笑えない。子どものとき、学校世界で仲間はずれと友だちになったことのないやつが「寄り添いたいです」とか言って教員になっても、そのさきどうなるかは明瞭だ。しかし、放置された武士たちの死体を埋めて弔うことしかできなかった農民たちの行為と、その無責任さは何処が違うのだ。多様性を実際に擁護したことのないやつが一番多様性が素晴らしいとか言うのは、自分を擁護し、仲間はずれをつくるためだ。かくして、仲良く出来そうな(コミュ力ありそうな)やつばかりを身の回りに配置し、結果、群れ上手な奴だけしかいないディストピアのなかに生きる。創造性は無論ないが、時々やってくるマレビトや怒りのあまり磔になるやつを利用して少し学ぶ。そもそも大学はいる年齢のときに自分の将来を宣言できる人間に可能性なんかあるわけないが、そもそも可能性を抑圧するとこに我々の生き方があったのだ。この様態は、まるである種のブリコラージュ、文学のつくりなのである。

先ほど、森祐香里氏の野間宏論を手掛かりに野間宏のいくつかを読み直したが、確かに彼は可能性を見出そうともがいていたことは確かだと思った。

罵倒を超えて

2025-03-19 23:48:39 | 文学


「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。


――太宰治「グッド・バイ」


だれかもう研究しているんだと思うが、文芸作品における罵詈雑言、下品な批判の歴史というもの、いかにもマッチョなうんこみたいな歴史になりそうで暇ならやってみたいものだ。指嗾とか魔術とか言っていかにも神秘的なオーラを出しているような煙幕を張っているが、その実、「お前は大馬鹿野郎だ」と言われている気がするし、今度は自分も言ってみたいと思わせるのが小林秀雄であった。人は、そうやって生み出された批評家たちに、小林の模倣、つまり自意識をも読み取るであろう。デビューから老人の繰り言みたいな感じだった小林を除けば、若手というものは大概――そういえば、最近の若手の批評家も、コンスタティブ?なわかりやすい?AIみたいな文章を書くので批判されている。そして本人たちも小林秀雄やその末裔たちの自意識過剰を相対化するみたいな意識があるのかも知れないが、むかしから小林秀雄ばっかりいたわけじゃなくて、たいがいはわかりやすいかしこまった批評なのである。

糞も小便も、人生には実在する事実である。これをもって実在するからおれは糞を愛す、と称して糞をつかむ奴はあるまい。

――杉山平助「批評の批評の批評」


杉山平助は、小林秀雄がブラームスなら、ロットやマーラーみたいな感情表現で、批評が批評に対する批評でありながら感情が乱れない。上の罵倒は昭和9年で、まだ杉山の罵倒のリズムには乱れない自由があった。対して、自由がない罵倒がある。花田が「赤ずきん」でからかった類いである。上の自由はやはりうんこを物質として扱っているからであった。この前、男が産むのはうんこだけ、というコールが話題になっていた。むろんこれは「男=糞」を仄めかしているのが肝であったが、だからこそ、男の糞という実在物から離れてしまった。だいたい、生まれたての子どものほうも、正直なところほぼうんこ製造器とも言うべきものであって、子どももうんこも、遠くから観れば似たようなものなのである。フェミニズムの本懐は、男の偽善や責任観念や国家や生産や「人間」のもろもろの善などが男っぽく造られていることを重要視してそれを崩壊させることであった。すると、みずからの権利運動も一部掘り崩すことになり、戦略的にはわりと単純な善悪観念に頼らざるを得ない。その際に、運動がどのような表現を使ってしまうべきなのかが、大きな問題として立ちはだかる。結局、花田清輝や村上春樹なんかも突き当たったところなのである。善意があるからといって、それが簡単に表現できると思ってもらってはこまる。「文学」を学ぶべし。デリダなんかもそういう「文学」に頼っていると言われて批判されたことがあった気がする。フェミニストのある者にとっては、文学にとどまっていてはそれこそ構築主義的な循環に陥ることを座視することに他ならなかったであろう。しかし、理屈はそうでも、現実の運動は文学を超克できるほどレベルが常に高いのであろうか?我々は自分たちをもっと馬鹿だとはじめからみなしていなければならないとおもうのだ。

男的近代文学もルソーのはじめから糞忌々しい表現によって人を惹きつけてきた。ルソーの「告白」はほんと自分もルソーなみにおかしな奴ですということを告白したくなる性質があっておそろしい。この前読んだヴァンス副大統領の自伝にそれはない。いや、人によってはあるのかもしれんが。。。ルソーに影響を受けたでもあろう藤村の「夜明け前」もすごいんだが、彼は「春」や「新生」みたいなものであれしたからなのか、まじめくさりすぎている。発狂しているおやじを傍らにルソーの「新エロイーズ」みたいな話が進んで行くべきで、後輩たちが糞真面目になりすぎたのもこの小説の影響がある。発狂も出来ずに単に糞真面目になった後発世代の親父たちは、「超克」とか言い始めた。どこをいつの時点でどう超えるのだ?ルソーの子ども時代の忌々しい性体験の時点か?藤村の「初恋」の時点であろうか?

過去と現実

2025-03-18 23:51:21 | 文学


 王さまはふたりを裁判所につれてこさせました。そこで、ふたりに罪がいいわたされました。
 むすめのほうは森のなかにつれていかれ、おそろしいけもののために八つざきにされてしまいました。
 魔法使いの女のほうは、火のなかへねかされて、みるもむざんに焼け死んでしまいました。そして、この女がもえて灰になったとき、あの子ジカはもとの人間のすがたにもどりました。
 妹とにいさんとは、それからこの世をさる日まで、しあわせにいっしょにくらしました。


――グリム「にいさんと妹」(矢崎源九郎訳)


いしだあゆみ氏が亡くなった。おとなになったら、いしだあゆみや寅さんの妹さんみたいなひとと会えると思っていた当時の子どもは多いんだと思うが、いざ大人になってみると、会うのは映画のそれよりも甲斐性がない女寅さんみたいなやつばかりで、自分もそうだからやってられん。思うに、我々にとっての母の世代の歌手(女優)たちは、どことなく端唄や長唄をうなりそうな雰囲気を持っていた。まだ彼岸の人という感じである。我々が小市民をやっている限り、いっこうに彼らに会わないのは当然のことだ。

ネット上にある木曽の宿場の素晴らしい写真を数々を見るに、――わしの小さい頃はこんなじゃなかったナア木曽は過去に向かって成長しているナと思わざるを得ないが、AIで加工する以前に実物が過去に向かって加工=成長すれば問題がないことが証明されたといへよう。わたしの小さい頃は、木曽の中山道はまだ舗装されてないところがたくさんあったし、うちの婆さんは昼間も和装、親たちは和装で寝てたし、赤ん坊の私も和装の写真が残っている。そういう風景はいまは消滅したのであろう、代わりに建物だけ江戸風になっている。この矛盾は、たいしたことがないと思われるかも知れないが、そうではないと思う。我々は簡単に環境に合わせて進化するからだ。ヨーロッパなんかが伝統を守っている(というか、ギリシャローマの幻影につきまとわれている)のは、建物を壊さないからであろう。我々だって、文化に於いて簡単に江戸以前に戻っている。源氏物語や平家をつかって、我々の心性をかんがえる文化人は、フロイトがやたらギリシャを召喚しているのとかわらない。あり得ないことだが、もっと西洋は自らを破壊し自殺すべきだったのである。

我が国の場合、破壊されたあとの「戦後」はどのようなものだったのであろう?三島由紀夫は石原慎太郎の「太陽の季節」の青年たちは葉山あたりには珍しくない人種なんだと言っていた(「石原慎太郎」)が、たしかにそう見えるやつはいまでも結構多い気がする。青春は客観的には明瞭で堅固なところがある。そこに不安とか葛藤だとかを無理やり読み込もうとして失敗するのは文士とか学校の先生だったのに、いま社会全体がその失敗を合理化しようとして迷走している。石原の描く青年なんかはリアリズムにすぎなかったのだが、これを新たな病理ととった人が多すぎた。その病理を直すと、想像上の伝統的な道徳的日本人がまた仮構されるだけであった。

石原の小説がむしろ反になりきれない「肉体文学」の一種であったこともあまり重視されなかった。三島由紀夫が言うように、坂口安吾や田中英光、太宰治などは自分の頑強な肉体への敵意があったと思う。精神が肉体に負けるような感覚があったのだ。案外、清原氏なんかも、肉体はすごいけどもうすこし頭がよかったらとか言われて(自分でも言ってた)、肉体改造したりウったりしたのはそれと関係あるようなきがしてならない。石原の場合はその逆ではなかったが、そこそこ精神を研ぎ澄ましているつもりだったのかもしれない。それを「政治」で実現しようと思った。彼はその意味で「中道」なのであろう。

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣では露にぬれつつ

どの程度の「露にぬれつつ」なのかがなんとなく分かるわれわれを石原は信頼しすぎてそれが保守だと思っていた。もっと我々はバカで肉体もそれほど強くない。露に濡れれば風邪をひく。

人間と構造をめぐるエトセトラ

2025-03-17 23:16:22 | 文学


中納言殿に来て、おとどに「かうかうなむ宣へる」とて、この包める物を北の方に奉れば、「あやしう、覚えなう」とて引きあけて見るに、おのが箱なり。落窪の君に取らせしにこそあめれと見るに、いかなることならむと思ひ、肝心も騒ぐに、まして底に書けりける物を見るに、むげに落窪の君の手なれば、目も口も、はだかりぬ。この年ごろは、いみじき恥をのみ見せつるは、くやつのするなりけりと思ふに、ねたう、いみじきこと、二つなしとは世の常なり。一殿の内、ゆすり満ちて、ののしる。
 おとど、家取られて、いみじき仇敵と思ひし心ち、わが子のしたるなりけりと思ふに、罪なく、さきざきの恥も思ひ消えて、「子どもの中に、さいはひありけるものを、何しにおろかに思ひけむ。かの家は、この人の母の家にて、ことわりなりけり」と、言ひいます。


ついに衛門督の北の方が落窪の姫であったと判明、――継母の北の方が「ねたう、いみじきこと、二つなしとは世の常なり。一殿の内、ゆすり満ちて、ののしる。」と、この世が壊れんばかり、「屋敷」が震動するほど怒り狂っているのにたいし、父親の方は、「家」が取られた怨みは「自分の子だからしょうがない」としぼんでいる。この家屋に対する対比はおもしろく、北の方はとにかく家を動かし空間を動かすのが好きなのだ。わたしたちが育てた草木は取り戻せ、みたいなことをこの後で言うのも、なにかこう、草木の変化への嗜好がある気がする。後妻としてはとにかく変化を認める生きかたをしているのかも知れない。あちらは天皇の血を引く盤石な姫である。その姫がまた盤石に、自分の住まいを奪って、そうなろうとしているのである。――しかしこういう暴れん坊の動き自体にも「人間」としての意味がある。日本の政治家なんかも、この北の方に似ている。平安朝の政治家たちだって、大して違っていたとは思えない。中納言がおとなしいオヤジだからそうは見えないだけで、男で北の方みたいな奴が多かったはずだ。そういう「人間」が「窪」とか「家」とかの構造を転覆しようとあがいている。

日本の地方の政治家のやりたい放題を仄聞するに、われわれはやくざをわざわざ自分たちの代表にして悪事を公認していると言わざるを得ない。まずは、それは選挙で選んでいるという意味での公認ではあるのだが、世に常識というものはあるから、あからさまな悪事をやればさすがに世間が許さない。だから、法に従う公務員の仕事上の手続きによって無理やり行為が公認させられている。その手続きにはかなり嘘が混じっているけれども手続きが取られた後だとかなり見えにくい。公務員だってサスガにこれはどうなんだろうと思うこともあるにきまっているが、躊躇っていると、どこからか脅迫があったりするのである。映画のはなしではない。

こういう脅迫は、別に構造やら重層的決定やらスキーマやらの難しいものではなく、単なるジャイアン問題である。小さい頃から、ジャイアンの言うことをきかされていると公務員たちがはじめから諦めてしまっているにすぎない。ジャイアンの言うことをきかされるというのにはいまは幅がある。直接に罵詈雑言で下僕みたいに扱われるみたいなことから、先生がジャイアンの気持ちを丁寧に聞いたり(ほんとにそれだけ出来るのかは分からんが――)して、結句、被害者の失望をよそにジャイアンには罰が下されないみたいなところまでを含んでいる。かくして、ジャイアンに抵抗できないというのはむかしよりも当然のことになってしまった。最後の砦は先生だったと思う。で、ここが重要なのだが、先生は大概は公務員である。公務員(国家)が強い者に屈服しているのを子どもに見せるのはきわめてよくない。――しかも、その悪事が、それにしても見過ごされすぎてしまうのは、たいがい目的に町おこしとか**振興とかが掲げられていて、みんなで生きるために悪事も少々必要かとか多くの人が諦めているからでもあるが、その町おこし・振興策とやらが効果があったかなかったかなんてほとんど証明されたことはないし、もともとできるわけがない。学者の論文数でそのひとの学者としての本質をはかるような非本質的なやりかた、――たとえばの人が集まった数でとかで計測するぐらいしか出来ない。

それにしても、数を数えるのなんかは、構造的な把握の中では一番幼稚であるにせよ、――我々はやたら問題を科学的に把握しようとして、構造や社会の側から人間社会を見過ぎている。ジャイアンは「人間」であり、構造の一部ではない。そのつもりでいかないと人間は見出せないし動かないのはなかろうか。

坂口安吾が書いていた(「反スタイル論」)が、荒正人は、女中とか家族にヒロポンを打たせて家庭(家事)の効率を上げるみたいなことをしてた、と。ほんとかどうか知らないけど、荒正人ってほんとそういうとこあるわけである。無頼派よりもよほどこういうタイプの正義の味方みたいなやつのほうが悪人なのである。ただ、安吾にしても荒にしても、ヒロポンを打って人間を変化させようとあがいているだけで卑怯ではない。野間宏を読んでいて思うのだが、ほんと当時の「肉体文学」の意義をわたくしは舐めてたと思う。「肉体は濡れて」みたいなのを貶した共産党と私は瓜二つであった。大江健三郎なんかが、「遅れてきた青年」でひどい閨房=檻房の描写から入ったとしてもなんか貫禄があるのは、戦後文学の「肉体」の残響でもあったからかもしれない。しかも、野間の接吻の描写の方が朗読してみるとかなり笑える。これを無駄な害悪とみた左翼はまことにセンスが狂っていると言わざるを得ない。しかし野間の方も、そこにとどまらずすぐに普遍性とか言い始める癖がある。が、まだ癖らしいからよいではないか。

清水高志氏がXで、柄谷行人は禁煙とか言ってないでヒロポンでも打ったらもっといいのがかけたかもと言っておられたが、確かにそれはいえる。柄谷氏の「私」はその「空性」みたいなのに拘り過ぎている。氏の評論はもう一つの「人間失格」なのである。「トランスクリティーク」ではなく、「トランスクリニック」になったとしても、病みの道を進むべきであった。「探究Ⅲ」を書き始めていたあたりで打っていたらまじめに「霊界との交換様式」みたいなの書いていたかも知れまない。おそらく、中年の危機で、ある種の「常識」に帰っていたところがある。その影響で、彼の読者も、常識人化した。例えば、柄谷のコミュニケーションの定義――「命がけの飛躍」とやや対照的な観察、「教える者こそが学ぶ者の奴隷である」的な言い方は、発表された当時はぎりぎりアイロニカルな意味合いを伴って面白く感じる可能性もあった。現場の教師なんかにとってはその逆説は常識で、しかも「明言したら現場のコモンセンスを崩壊させる危険な自明の理」だったからだ。しかしすぐにそうではなくなって原理がそうなんだからそうすべきみたいな覚醒を柄谷を読んで起こすような連中が出てきた。柄谷を読んでポストコロニアリズムやり始める奴はまだ羞恥心があった方で、あからさまに、カノンを殊更発掘して世の中を単純化して支配するボスザルになるための方法を、結果的に読んでいるやつもいたくらいだ。本人はそう思っていないだろうが、実際かなりいる。――柄谷の弟子筋と言ってもよい王寺賢太氏がXで、柄谷の論理は今の「スチューデント・コンシュメリズム(学生様はお客様です)に席巻される現在の大学の論理そのもの」だ、と言うのは当然なのである。柄谷はアイロニカルに言っただけで、教育に対するそのコミュニケーションに還元してしまう認識それ自体は、「明言してもよい」認識になりつつあったに過ぎなかったということだ。東浩紀氏なんかがまだよかったのは、彼が「オタク」という決して明瞭にならない病みとともにある道を選んだからである。

秘書は金剛インコである

2025-03-14 23:47:58 | 文学


戌の時ばかり渡りたまふ。車十して、儀式めでたし。おりて見たまへば、げに寝殿は皆しつらひたり。屏風、几帳立て、みな畳敷きたり。見たまふに、げにいかに思ふらむと、いとほしけれど、北の方ねたしと思ひ知れとなりけり。女君は、おとどの思すらむことを、おしはかりたまふに、物の興もなく、いとほしきことを思ほす。男君は、「運びたらむ物、失ふな。たしかに返さむ」と宣ふ。

復讐はさまざまなかたちをとるので、にっくき中納言と北の方が歎けばそれでよいような気がするのであろうが、だいたいこういうときには、文字通り「目にものを見せる」かたちになる。立派なモノ達の登場である。かんがえてみれば、落窪に姫さまを落とし込んだ時点でそれはかなり「目にものを見せる」やり方であって、加害者がかなり馬鹿であるというのは前提なのである。現代でも、物理的な厭がらせは馬鹿のやることと知れている。実際のいじめはもっと巧妙なものだ。

わたくしは、高校の時の古典の先生に、大事なのは「見えないものを見る力だ」と教わったが、この教師は惜しいことを言ったと思う。これでは、見えていない事態にたいして「目にもの見せる」やりかた、現代では「見える化」みたいなことが強力だということになりかねない。むしろ「見えないものを見えないままに見る力だ」と言わねばならない。

今日入ってきたニュースだと、「男が生めるのうんこだけ」というコールがあるフェミニスト?の集団によって発せられたらしいのであるが、まさに生産を「見えるもの」に限っている点で論外だ。そもそも私の場合、おしっこも生めるし、数年前のことであるが、尿管結石というものも生んだことがある。生めよ増やせよが論外なのは勿論であるが、うんこも子どもと同様、見えすぎるものに過ぎない。ただし、子どもの場合、その本体はほとんど見えないものである。最近、大学の体たらくをいつか小説に書いて欲しいとわたくしに言ってくる人がいるのであるが、冗談ではない。しかし、確かに、見えないものを見えないままに見る=描けるのは、文学ぐらいしかないのである。それは比喩を超越したやり方であるからだ。

見えないものの例のひとつは、たとえば、例の融即の法則みたいなものがそうかもしれない。見える化を至上命題とする正義の味方は、秘書がやりましたというのを汚い言い訳と見做す。しかし、それは見えすぎる真実にすぎない。彼らのいう秘書とは「金剛インコ」であって、秘書がやりましたというのは融即的にアタイがやりましたと言っているのである。これにたいして石破首相の場合は、素直に自分がやりましたと言っているので却って危険である。こういう人は、過去の私、もう一人の私とかいうて分裂して行くタイプである。高市氏なんかになると、今日の『大阪スポーツ』の一面に書いてあったが、「地球外生命体認めた」んだそうである。たぶん「金剛インコ」どころではなく、「地球外生命体」にまで融即の法則が及ぶ人もいるのだ。

そういえば、今年度の授業で扱った「推し活」現象であるが、これは「推す」相手に贈与することで攻め込む代わりにみずからがいちはやく「金剛インコ」になる競争である。モースの「贈与論」でいえば、ポトラッチ――首長たちが自分が破滅するまで贈与をしてみずからの権威を高めるようとする競争的贈与である。「推し活」は、推しがやりましたの代わりに私が贈りました、と言っているのであった。

死を抑圧しない大学

2025-03-13 23:43:04 | 文学


衛門の督の殿には、渡りたまはむとて、女房に装束一具づつして賜へば、ほどなく今めかしう、うれしと思ひけり。中納言殿には、物をだに運び返しに人やりたまへど、「さらに入れだに入れず」など言へば、北の方、手を打ち、ねたがる。「いかばかりの仇敵にて衛門の督あれば、わが肝心も惑はすらむ」と、まどふ。越前の守「今はかひなし。『物だに運び返さむ』と申せば、『早うそれは取られよ』とは、なだらかに宣はど、人々さらに入れねば。いさかふべきことにしあらぬば」。たけきこととは、集まりて、のろふ。

呪いが土地に憑く、とはこういう情況をいうのであろうか。それは冗談としても、地券を持っている持ってないでこれほどのことが起こるのは当然であるようであるのに、中納言家はあまりに迂闊である。むかしから、その土地の持ち主は誰かみたいな問題で人が殺されたりしているわけであるが、現代だって似たようなものである。それが暴力で解決しないように、厳しい税金と煩雑な手続きが課されているのが現代であるが、人間がこういうことにずっとたえられるのかどうかは、分からないと思う。

ずっとトレンドになっているコミュニケーション能力とやらは、相手に柔らかくも厳しくも攻め込むような能力であって、仲良い友だちをつくる能力とも優しさとも観察能力とも違う。近いのは、証拠を挙げて相手を説得する能力であろう。証拠(エビデンス)とは、必要な場合の武器に過ぎない。これは、物事を死に行く生=生活に即して「つくる」「常識」(戸坂潤)とは無縁の武器であって、――とたえば、アイデアを出せという奴はだいたいアイデアだしたことないし、出しても自分でやらずに逃げ、そして成功したら自分がやったと言い張る。これはその成功した物事が証拠だからだ。かんがえてみると、イザナギはそういうやつだったかもしれない。イザナミがおそらく神を生み出した疲労で死んだから、それを棄ててイザナミが生み出した様々な神を統べる生の立場を勝手に僭称する。この統制というのが、土地を奪う行為と極めて近似的であるのは言うまでもない。「国家」というものがそうである。

だいたい「生」の立場、「生産」の立場というのは「死」の隠蔽というきわめて欺瞞的な立場なのである。我々はこのことを生きのびるためにだかなんだかわからんが、簡単に忘れる。噂では、ある教★学部の新入生のガイタンスで「君たちは大学に入ったのではない。教員養成の専門学校に入ったのである」と言われ仰天した、という話を聞いた。まあそういうやばいところに教員志望のやつが果たしていくのかなと思うが、結構行くのだからよのなか佳く出来ている。大学とは死を抑圧しない場所であるべきだ。その死は、イザナミのような神を生み出すような事態であって、教員養成の専門学校とは生を統制するだけの生産の場所である。

コミュニケーション能力?であいつは出来るあいつは出来ない、みたいなことを陰口を言いあい、果ては学生を評論している集団は、群れとして醜悪という以上に、自分たちのコミュニケーション能力?が「人間の全体性」の長所だと思い込んでいるというのが最悪である。だから、一部突出した異形な能力や落ちこぼれを差別するのである。これは結果的には、偏差値エリートが全能感におぼれるのと同じ結果に陥っている。似たもの同士だからいがみ合っているに過ぎない。

純粋姫様の周辺

2025-03-11 23:40:16 | 文学
 かかる物思ひに添へて、三条いとめでたく造り立てて、「六月に渡りなむ。ここにて、かくいみじき目を見るは、ここの悪しきかと、こころみむ」とて、御むすめども引き具していそぎたまふ。衛門聞きて、男君の臥したまへるほどに申す、「三条殿は、いとめでたく造り立てて、皆ひきゐて渡りたまふべかなり。故上の『ここ失はで住みたまへ。故大宮の、いとをかしうて住みたまひし所なれば、いとあはれになむおぼゆる』と、返す返す聞えおきたまひしものを、かく目に見す見す領じたまふよ。いかで領ぜさせ果てじ」と言へば、男君「券はありや」と宣へば、「いとたしかにてさぶらふ」。「さては、いとよく言ひつべかなり。渡らむ日を、たしかに案内してよ」と宣へば、女君「また、いかなることを、し出だしたまはむ。衛門こそけしからずなりにたれ。ただ言ひはやすやうに、いみじき御心を、言ふ」と怨みたまへば、衛門「何かけしからず侍らむ。道理なきことにも侍らばこそあらめ」と言へば、男君「物な申しそ。ここには心もおはせず、御なめあしき人は、『いとあはれなり』と宣へば」、「わが身さいなまるる。よし」とて笑ひたまへば、衛門心得て、「いかがは申すべき」とて立ちぬ。

道理なきことには正義の鉄拳をと息巻く人に対して、姫様は誰にでもお気の毒だと思ってしまうみたいである。今でも、殲滅せよみたいな正義派と寄り添い派の両方がいる。しかしこの二つは別に対立しているわけではなく、後者が前者のように振る舞ったり前者が後者のようなことを言い始めるのが屡々である。そのためにであろうか、大して細々描かれていない姫様が純粋な存在として想定されていなければならず、これは我々の文化で人間を超えたお姫様が屡々顕れるのと同様である。この純粋姫様の周りに憎しみや笑いが決定的な亀裂を生じさせずに生起する。姫様は天皇の血を引くものであった。



藤井清治の『光り輝く神の御支配』(昭19)である。まさに、この時代からやたら「見える化」をやりたがっていた証拠のひとつであろう。各自に与えられたる神性は努力によって真に顕現するらしいのであるが、ハイデガーと違って死の影がなく、この図の2頁後には、教育とは「育成」ではなく「化育」であり、その者を喜ばしめつつ行われなければならない――みたいな、現代の絶対的自己肯定感みたいなことまで言うている。だいたいこの「神」に関しては、彼の「世界平和樹立理念の提唱」(昭16)でも、宇宙とはアマテラスの身体だみたいなことを言うているところからして、「天皇陛下萬歳」みたいな崇拝とはストレートに繋がらない。しかし、同時に天皇が現存在として措定されないとこの論法はありえないようにみえる。そんな困難に感づいたある読者が、デジタルライブラリーの元になったこの本の表紙に、この議論は観念的で云々と疑念を殴り書きしていた。昭和12年の「全人類之指導原理大日本教 : 大日本国の真態・日本人と其本領」にも終わりのほうには、宇宙と人間の肉体と心の関係が図示されている。宇宙には、神界、霊界、幽界、現界があって、これが最初のほうから順に土台になってピラミッドのように重なりその最後に現界(肉体)が乗っている。そしてこのピラミッド全体が「こころ」である。つまり宇宙は心である。――というわけであるが、この図に、現にいる天皇とか幽霊とか不肖の人民とかがどこに位置づけられるのかわからないと同時に、心が肉体に従属した主観であるみたいな通念を転倒する勢いが、どことなく気合いありげにはみえる。これは復讐劇としての図式でもあったわけだ。

思うに、継子いじめや復讐劇も具体的にみえるが、それがそれだけでおわらない側面をあまり深く考えすぎると、上のような図式=空想に陥るのである。このような帰趨を我々は笑えない。官庁の世界のポンチ絵なんか、これと大差ないからだ。そういえば、与えられた個性が不可侵である(神性)という前提の元、「みんなちがってみんないい」が道徳化するとこんな感じになっているではないか。みんなの違いを全部記述してから言ってくれ、というやつである。逆に、キョンシー映画は「霊幻道士」という名前ついてたが、いま見るともはや人道映画にみえる。なぜかといえば、その「霊」とか「幻」がちゃんとぴょんぴょんとでてきて、人間の欲望と闘っているからである。宇宙とか霊界が出てこないのは重要である(すくなくとも一作目はそうだった記憶がある)。キョンシーと人間たちの暴力とは、人間の欲望の表れにすぎないところに笑いがある。これにくらべて、落窪の暴力と笑いは、慈悲と支配による平和に導かれる。これは人間の感情ではなく、何かそうしなければならない情動のせいである。むかし、ユーモア論というのがポストモダニズムのなかでも流行ったことがあったが、そのなかでフロイト的なヒューモアが、自己の解体みたいなものとセットのものとして持ち上げられたこともあった。要するに人間の行為の成長と関係づけられている(下手すると最近はこういうものでさえ、コミュニケーション能力らしい――)わけだが、もともとGalgenhumorは、実際の死刑台で放ってなんぼなのだ。みんなで仲良く放つものではない。ユーモラスな人間たちが、どのような情動に突き動かされているのかは、観察してみないと分からないのは当然だ。

そういえば、ニュー・マテリアリズムのカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』みたいな本は下手をすると、藤井清治みたいになるところがあるんじゃないだろうか。問題=物質(マター)とか、「こころのますがた」と何処が違うのだ。

欲望について

2025-03-10 23:16:42 | 文学


 人は肉慾、慾情の露骨な暴露を厭ふ。然しながら、それが真実人によつて愛せられるものであるなら、厭ふべき理由はない。
 我々は先づ遊ぶといふことが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないといふことを身を以て考へてみる必要がある。私自身に就て云へば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。然し、他の何物かゞ人生の目的であるといふことを断言する何等の確信をもつてゐない。もとより遊ぶといふことは退屈のシノニムであり、遊びによつて人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」といふことが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないといふだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充すものではなく、多くは裏切るものであり、マノン侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかつた。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだらう。その意味に於ては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。


――坂口安吾「欲望について」


そういえば、このエッセイについてよく考えていなかったと言うこともあるけれども、――わたくしにとって、長年、実感がわかないにもほどがある問題でもあったが、なんかみんなが重要だと言うから欲望の問題について考えることにした。これによって、とにかく根本的なやる気がないということはどういうことなのか考えることになるであろう。

例えばわたくしは、ルイ・エモンの「白き処女地」が大好きであって、ここに描かれている欲望とは何だろうと時々空想する。これは映画化もされたが、文月今日子のマンガが結構よかった記憶がある。「大草原の小さな家」をいい話として受け取って育ってきてしまった私だからであろうか。カナダの仏蘭西人移民が恋をしながら森に沈潜していくはなしを、なにか自動的によい話として受け取っているのであろうか。森や農村の恋、ツルゲーネフの「あひゞき」や藤村の「初恋」をまじめに受け取りすぎているのであろうか。

情動・心・動物

2025-03-09 23:55:14 | 文学


よろしき人ならばこそ、もしやと言ひはべたらめ、ただ今の一の者、太政大臣も、この君にあへば、音もせぬ君ぞや。御妹、限りなく時めきたまふを持たまへり。わが御覚えばかりと思すらむ人、うちあふべくもあらず」など言ひて往ぬれば、かひなし。おりなむと思ひて、六人まで乗りたりければ、いと狭くて、身じろきもせず、苦しきこと、落窪の部屋に籠りたまへりしにも、まさるべし。[…]「北の方、このたびの御婿取りの恥ぢがましきことと、腹立ちたまふ。宿世にやおはしけむ、いつしかとやうに孕みたまへれば、心ちよげに見えたまふかし。北の方も思ひまつはれてなむ、いみじう誉めたまふめるものを。鼻こそ中にをかしげにてあるとこそ、言はるめれ」と宣へば、少納言「嘲弄し聞えさせたまへるなり。御鼻なむ、中にすぐれて見苦しうおはする。鼻うち仰ぎ、いららぎて、穴の大きなることは、左右に対建て、寝殿も造りつべく」など言へば、「いといみじきことかな。げに、いかにいみじうおぼえたまふらむ」など語らひたまふほどに、中将の君、内裏より、いといたう酔ひて、まかでたまへり。

車の中に閉じ込められた北の方たちは落窪の姫よりも苦しかったに違いないとか言ってみたり、鼻の穴に寝殿を建てられるとか言わせてみたりと、現代に生きていれば「箱男」でも書いたのではないかとも思われる「落窪物語」の作者である。うんこネタが有名な「落窪物語」であるが、そういえば、幼児は矢鱈段ボール箱とかに入りたがるものである。わたくしもそんなだった記憶があるが、やはり個体差がある。かまくらに頭をツッコみたがる同級生も全員ではなかった。――それはともかく、この物語の精神は幼児退行とでもいうものであったに違いない。

今日は情動論のトークセッションをオンラインで勉強しに行った。よく言われるように、情動が前個体的なものだとすると、いずれは個体になるのかもしれない。その前に上のように落ち窪んだり牛車に押し込められたり、鼻の穴に建物を建てたりするのであろうか?それとも我々は個体となってからその個体を広げて解体して行くのであろうか?ここに強い感情が伴うことは確かであるが、それが我々にとって欲動なのか情動なのかわからない。学生にパッションを要求する教師が多いし、そのためには自分がパッションを持っていないと感染しないとか言われることもあるが、この現象は情動の範疇なのであろうか?思うに、赤ん坊の泣き声を我々は蝉の鳴き声と一緒にすることができない。たぶん、情動の理論の底にはそんな感覚が横たわっている。

豹一はぱっと赧くなったきりで、物を言おうとすると体が震えた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、若い年で女を知りつくしている凄みをたたえた睫毛の長い眼で、じっと見据えていた。
 その夜、その女といっしょに千日前の寿司捨で寿司を食べ、五十銭で行けと交渉した自動車で女のアパートへ行った。商人コートの男に口説かれていたというただそれだけの理由で、「疳つりの半」へ復讐めいて、その女をものにした。自分から誘惑しておいて、お前はばかな女だと言ってきかせて、女をさげすみ、そして自分をもさげすんだ。女は友子といい、美貌だったが、心にも残らなかった。


織田作之助は表情を行為で解体し「心」ここにあらずの主人公たちをあたかも動物の感覚にまで還元しようとする如くであり、最後の場面の雨は蛙に降っているようなものかもしれない。しかし読者たちはここになんか「心」を感じる。同じイケメソの話でも、谷崎の「美男」と織田作之助の「雨」ではかなり違う。わたくしは後者がすきである。どうも、蛙のそれのように残った「心」に心を感じる昭和文学に惹かれている性もあるが、谷崎の主人公たちはもっとまともかたちで「人間」的に気が狂っているからである。

私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。


――折口信夫「新しい国語教育の方角」


思うに、折口は、教師にも児童生徒にも人間を感じていないのである。宗教に似た心によってなされる教育者の個性とは、蛙のような鋭さを持ったものだ。蛙が落ち窪んだところにいるのは自然に冬眠するからにである。これをポストヒューマンみたいに感じるのは我々が人間にまだ未練を持ちすぎて居るどころか、蛙を差別しているからに他ならない。

人間の組織の内部監査とかいわれるたびに、わたくしは、「アナコンダ」における、アナコンダの食道内部からの視点で飲まれた人間の頭がカメラに向かってくるB級映画最高の場面を思い出す。我々はいつもこのような奇妙なことをやっている。アナコンダの腹に入っていないのにどうしてアナコンダの食道が撮れるのであろう?

「私は勉強する学生よりも、学生運動をする学生の方が好きです」なんていってたのは、どこの誰だい? 大河内一男前総長だよ。それならそれで、愛する学生運動家の吊し上げを最後まで食らって死ねばいいじゃないか。それこそが男としての一貫性だ。言行一致だ。

――三島由紀夫「東大を動物園にしろ」


三島も蛙になりたかったくちである。最近、研究者のアスリート化がめちゃくちゃ進んでいるなというのが、日々の印象である。アスリート化は肉体組織の目的化=人間化である。安部公房がオタク化を予言したとすれば、三島由紀夫はアスリート化を予言的に実践して、しかも死んでみせた。かくして、アスリート化した研究者は健康になって永遠に三島に負け続ける。清原氏なんかは野球選手の三島由紀夫みたいなものだ。しかも現代医学で生きのびて、あとどうなるかを実践している模様である。三島を超えるのは清原氏を措いて他はなし。

反「復讐のリアリズム」

2025-03-07 23:48:49 | 文学


よしと誉めし装束も、すぢかひ、あやしげにし出づれば、いとどかこつけて腹を立ちて、しかけたる衣どもも着で、「こは何わざしたるぞ。いとよく縫ひし人は、いづち往にしぞ」と腹立てば、三の君「男につきて往にしぞ」といらへたまへば、「なにの男につくべきぞ。ただにぞ出でにけむ。ここには、よろしき者ありなむや」と宣へば、三の君「されば、ことなることなき人もなかるべきにこそあめれ、御心を見れば」と言へば、「さ侍り。面白の駒侍るめり。かうめでたき人も参りけりと心にくく思ふ」など、まれまれ来ては、ねたましかけて往ぬれば、いみじうねたみ嘆けど、かひなし。北の方、落窪のなきを、ねたう、いみじう、いかで、くやつのために、まはししきくせんと、惑ひたまふ。われは、さいはひあり、よき婿取る、と言ひしかひなく、面起しに思ひし君は、ただあくがれにあくがる。よきわざとて、いそぎしたるは、世の笑はれぐさなれば、病ひ人になりぬべく嘆く。

思うに、落窪のお姫様にたいする北の方のいじめは、読者にとって常軌を逸したものであったかあやしいのではなかろうか。姫が助けられて馬面の「面白の駒」が四の君と結婚したりするのは確かに復讐劇の筋なんだが、姫がやってたきちんとした縫い物も供給されなくなって歎いて病になりそうになっている北の方をみて、読者はどこか敗者となりつつある彼らにシンパシーを抱きかねない。

どうも、我々の「判官贔屓」というのは、勝者と敗者がひっくりかえることによって導かれていて、単に負け犬がかわいそうとおもうのとは違う。やったことはともかく負けた状態になればかわいそうに思うという、――自分が負けているからなのか、自分のほうにモノが近づいてくると親近感を覚えているのかも知れない。それは一種のメランコリーではないかと思う。だから、読者は現実には「勝」とうとがんばる。そして北の方みたいなことも平気でやっているのである。

これに比べれると、女優としては完全に勝ってしまったにもかかわらず、人生において日本一空虚だと思っていた高峰秀子様の決断は、安易なメランコリーとは無縁であった。貧乏な助監督だか撮影助手だか(ただしけっこうイケメンではある)と結婚した彼女がプロレタリアートの味方であるのは確かである。対して、最近、資本家の「嫁」になってしまう美人女優とかが多すぎる。そういえば、日本人の大リーガーの「嫁」はどうであろうか。それは、大リーガーを英雄ととるか植民地から連行されている闘牛士みたいなものととるかによる。

教育学者の鳥山敏子さんてもう亡くなってたことにさっき気付いた。例えば、吉本隆明なんかは、こういうタイプのひとを普遍的な真理に寄りかかっているとみなして批判しそうである。吉本は、判官贔屓のふりをした強者の支配に敏感だった。しかし、吉本隆明信者のなかに、いろいろ長い間「大衆の原像」みたいなもんを見つめ続けた結果、ものすごい大衆蔑視みたいなところにたどり着いている人が居るのは非常に興味深い。結局、吉本の大衆とは、虐待されている落窪の姫様であって、救われた後にいなくなったようにみえた虐げられた人々をさがし、更には落窪の邸宅に隠している狡賢いやつらをどこかに想定していきり立つしかなくなる。いわゆる陰謀論と吉本的リアリズムは表裏一体であって、現実がみえていない者達を見えなくてもどこかに想定するしかない。そして理念を言いがちな人々をその見えない範疇に代入する。

ほとんどがヤクザの支配みたいな状態でも、ときたま過去に示されていたdecencyが勝手に復活することがある。確かにそれが目に入らないほど心が壊れている人たちがたくさんいるにしても。落窪的なシーソーゲームはそういう復活劇をリアリズムのなかに覆ってしまうところがあると思う。

imagination

2025-03-06 18:27:10 | 文学


商人が栄えるのはただ若者の乱費のためだし、百姓が栄えるのはただ麦が高いためだし、建築家が栄えるのは家が倒れるため、裁判官が栄えるのは世に喧嘩訴訟がたえないためである。聖職者の名誉とお仕事だって、我々の死と不徳から生ずるのだ。「医者は健康がきらいで、その友人が健康であることさえよろこばない。軍人は平和がきらいで、自分の町の平和をさえよろこばない」と古代ギリシアの喜劇作者は言ったが、その他何でもそんなわけである。いや、なお悪いことには、皆さんがそれぞれ心の底をさぐってごらんになるとわかるが、我々の内心の願いは、大部分、他人に損をさせながら生れ且つ育っているのである。
 そう考えているうち、ふとわたしは、自然がこの点においても、その一般的方針にそむいていないことに気がついた。まったく博物学者は、物の出生・成長・繁殖はそれぞれ他の物の変化腐敗であると説いているのである。

まことに物その形と性質とを変えるとき、
前にありしものの死のあらざることなし。(ルクレティウス)


――モンテーニュ「随想録」関根秀雄訳


トランプは商人だが、物をあっちからこっちに動かすときに生じる利益をくすねるようなやつではなく、悪徳とか死とか憎しみとかを消費する聖職者とか教師とかに近い。上のモンテーニュの「一方の得が一方の損になる」という感じである。これは一般には――というか本人にとっては道徳とか倫理とか正義とか呼ばれ得ると考えられるが、モンテーニュが思うように「それが自然じゃないか」という直感に裏打ちされているため、非常にやっかいなことなる。自らの正義を我々は唯単に盲信しているのではない。

これに対して、非自然的なものを構築するという意味で、官僚組織とモダニズム芸術は案外相性がよい。ソ連なんかをみればよい。だから、官僚をつくるための試験を、自然的なものを追求する科学者や医者の卵に受けさせているのはあまりよくないんじゃないか。対して、思うに、文士の場合は案外いいと思うのだ。文士に必要なのは想像力ではあるが、ジャンプ台がいつも必要であって、彼らは、非人間的なものを消費するのである。

最近、世界に冠たる映画「新幹線大爆破」をリメイクするらしいが、ほんと藤岡弘の運転手役の代わりとか居るのか?とおもっていたら、必殺能年玲奈だそうである。がんばって頂きたい。がっ、このリメイクを「シン」なんとかといって溜飲を下げているアーチストたちをみていると、彼らにとっての非人間的なものが作品以外の現実であることがよくわかる。もうはっきり申しあげたほうがよいが、この場合、その現実とは「リニア新幹線大爆破」にほかならぬ。逃避ではなく、現実がタブー化しているから「新幹線大爆破」と言っているにすぎないのである。その保守性を、能年玲奈で埋めている。かんがえてみたら、もとの「新幹線大爆破」の新幹線より、現実の新幹線の顔が次第に不細工になっていくのはなんですかルッキズムへの抵抗ですかああそうですか。

高度成長の香り高い時代は「新幹線大爆破」でもよかったかもしれないが、もはや時代は貧乏な感じなので「新幹線代爆破」といわれてなにもすっきりしないそんなかんじである。爆発的なものはすでに想像力ではない。数ある爆発が起こるマンガでもすべてそうなっている。

在来の審美学なんか、その原子爆弾の微小なる破片によつてもぶち碎かれてゐる筈だ。最初の原爆体験者の日本に於ては、西洋にもまさつた異色ある新文学が起るべき筈だ。

――正宗白鳥『読書雑記』


正宗白鳥はいつも、おおくの人の想像力というものが、その「審美学」にすら達しないかたちで、爆発と自意識の間をふわふわ動いており、たいがい愛玩物を見つけて落ち着いているからくりを軽視している。昨日も書いたが、この愛玩物志向がわりと物に誠実なかたちをとると、変形とか変身への期待というかたちをとる。想像力についてモンテーニュは語る。

それから、寝る時には何ともなかったのに夜中に頭に角がはえたなどいう話は別に事新しくもないけれども、イタリア王キップスの事跡はやはり特筆するに足りるものである。彼は昼間熱心に闘牛を見物し、夜はよもすがら頭の上に角をいただいた夢を見たせいで、とうとう想像の力によってほんとうに額の真中に角をはやしたというのである。強い悲しみはクロイソスの息子に、自然が彼に拒んだ声を与えた。またアンティオコスは、その心にストラトニケの美しさをあまりに深く刻みこんだために熱を出した。プリニウスは、ルキウス・コッシティウスがその結婚の日に女から男に変じたのを、見たと言っている。ポンタノ及びその他の人々も、近世においてイタリアにおこった同様の変身を物語っている。それから、彼およびその母の切なる祈願によって、

イフィスは男となりて娘なりし日の誓いを果したり。(オウィディウス)


こういう真実は、次第にメディアの「映像」のなかに押し込められた。モンテーニュが言っているのは、実際に角が見える事態ではなく、実際に起きるという「カフカ」的な意味であった。現代の口承文芸的なものも、むしろネットのおしゃべりの中に実現したが、その実際におきる「カフカ」的な変身(はっきり申し上げると「差別」である)から逃避している。悪い意味で愛玩物的である。学校においてもSDGs関係の活動が愛玩物的になりがちであり、それらは差別の問題をスルーするための活動になってしまいがちである。SDGsの各問題がつながっているから問題だろうに。

そもそも問題を理解せずに実践するとろくな事にならないということは、実践してから分かることではなく、まずは言葉上で認識すべきである。実際に「起こる」ことは言葉上で起こるからだ。それが分かるために「勉強」しているのに、なんのために「勉強」をやっているかわからないじゃないか。そういえば、よく生徒や学生がその活動に於いて、半端な認識で市民に説教してもっと「意識高い系」に怒られるみたいなことがあるが、そうするともっと意識が低い人に啓蒙すればよいみたいに改心し、みずからもっと低い認識に墜ちてゆく――のは、むかしから飽きるほど繰り返されてきている事態でそういう事はまず体を動かす前に認識すべきなのである。だいたいその「意識高い系」は、問題が愛玩物のように単独で存在しているかのような錯覚に陥って居ることが多く、怒られる側もそうなのだ。そういう「系」の人間は、だいたい他人事をやめよとか自分事みたいな鈎語で他人を自分の問題に引っ張り込もうとするけれども、そこまでみんなバカじゃないのである。モンテーニュのいう想像の力で、現実が言葉のように見えているからだ。一見ジャーゴンにみえるけれどもそうでない場合があるのだ。

事務的な文書ばかりみてると、文学作品に対して、自由な解釈を許していて素晴らしいと言ってしまう人の気持ちも全くわからないではない。事務的なものは、それを作った側の運用上の自由がわりとあるが、与えられた側にあまり自由はない。あたかもコンプライアンスを無視する自由のようなパワーが必要なのである。それは想像力である。モンテーニュは、それを性の世界の妄想みたいなものから導き出そうとしている。コンプラの世界がそれを抑圧するのは当然のことだ。

歴史の終わりと言葉の絶滅

2025-03-05 13:16:31 | 文学


同級生に憎まれながらやがて四年生の冬、京都高等学校の入学試験を受けて、苦もなく合格した。憎まれていただけの自尊心の満足はあった。けれども、高等学校へはいって将来どうしようという目的もなかった。寄宿舎へはいった晩、先輩に連れられて、円山公園へ行った。手拭を腰に下げ、高い歯の下駄をはき、寮歌をうたいながら、浮かぬ顔をしていた。秀才の寄り集りだという怖れで眼をキョロキョロさせ、競争意識をとがらしていたが、間もなくどいつもこいつも低脳だとわかった。中学校と変らぬどころか、安っぽい感激の売出しだ。高等学校へはいっただけでもう何か偉い人間だと思いこんでいるらしいのがばかばかしかった。官立第三高等学校第六十期生などと名刺に印刷している奴を見て、あほらしいより情けなかった。
 入学して一月も経たぬうちに理由もなく応援団の者に撲られた。記念祭の日、赤い褌をしめて裸体で踊っている寄宿生の群れを見て、軽蔑のあまり涙が落ちた。どいつもこいつも無邪気さを装って観衆の拍手を必要としているのだ。けれども、そう思う豹一にももともとそれが必要だったのだ。記念祭の夜応援団の者に撲られたことを機縁として、五月二日、五月三日、五月四日と記念祭あけの三日間、同じ円山公園の桜の木の下で、次々と違った女生徒を接吻してやった。それで心が慰まった。高校生に憧れて簡単にものにされる女たちを内心さげすんでいたが、しかし最後の三日目もやはり自信のなさで体が震えていた。唄ってくれと言われて、紅燃ゆる丘の花と校歌をうたったのだが、ふと母親のことを頭に泛べると涙がこぼれた。学資の工面に追われていた母親のことが今はじめて胸をちくちく刺した。その泪だった。そんな豹一を見て、女は、センチメンタルなのね。肩に手を掛けた。豹一はうっとりともしなかった。間もなく退学届を出した。そして大阪の家へ帰った。


――織田作之助「雨」


フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」を笑う人は多いが、日本近代文学やらも終わったらしいし、批評やら学問やら世界やらの終わりをとてもたくさんの人たちが言っていて、フクヤマ以上に偉そうな態度である。人びとが、まだサリンを撒いた奴が言行一致しているんじゃねえかと思い始めたらどうするのだ。もちろん、上のすべてがまったく終わっていない。終わったのは2月ぐらいだ。もう3月である。

そういえば、教師たちに関しても、いつの時代も「最後の教師」とか同僚たちに言われているひとがいる。そういう事を言う人たちがどういう人かと言えば、勇気がない無責任な者たちというだけだ。いつも一生懸命な奴とそうでない奴が居るだけのような気がする。

いろいろなものが終わりそうだとかいうので、最近の大河ドラマなんかも、物事の始まりを描くことが多い。昨年の源氏物語なんか、平安貴族の時代の終わりを描いているだけ良心的だ。わたくしの幕末のイメージといえば、「夜明け前」とみなもと太郎の幕末マンガでできているような気がするのであるが、そのせいか、私には、幕末から明治というのは狂気とギャグでしか正視に耐えない。大河ドラマとかで扱われるのはそれだけでどことなくいやだ。明治維新のあたりを褒める奴の特徴として、実はこんな真実がありましたみたいな姿勢になるのもいやなのである。対して、戦国時代以前はどことなくおとぎ話にならざるをえないから、想像力でこんなに補ってみました、みたいなのがいいと思う。もう題材は日本武尊とか白村江の戦いでよいのではないか。

大正時代あたりまではかなりのこっている、江戸的な気取りというか嘘らしさを、遅れた下品さとして必死に脱色していった結果が我々な訳でその潔癖さにわたしは共感するところがある。が、その代わりに、漢文古語を主として、語彙の溢れる感覚の鋭さを失った。わたくしはそれらを取り戻せるんじゃないかとも思っているのであるが。むかし、学生時代、近世文学の先生に、近代文学やっているやつは言葉がないところに文学があるみたいな感覚に淫しているオタクだと言われたことがある。それで結構である。そういう言葉の絶滅したところに近代の恐ろしさがあったではないか。透谷の言うAnnihilationが我々の起源である。

ぬいぐるみの項目には特撮のきぐるみが含まれているが、コスプレも着ぐるみの一種だし、かんがえてみたら、われわれもふだん顔だけ出したぬいぐるみや着ぐるみと言ってよいと思われる。いや、我々は、言葉や自分自身の絶滅を、着ぐるみでしのいでいるのである。

サザン音漏れ一安心

2025-03-04 23:04:57 | 文学


微風が北方からやつて來る。南方の海上には、海からいきなり立上つて固まつた感じのする御藏島の青い姿が見える。その島と、僕のゐる三宅島との間の海面には、潮流が皺になつて、波立つて、大きく廣々と流れてゐる。やがて、僕は身體の向きを變へて北方を眺めた。青い。何もかも青い。神津島、式根島、新島が間を置いて列つてゐる。その彼方には伊豆半島あたりなんだらうが、紫紺色に煙つてゐて何も見えない。遠い遠い色だ。その奧から小さい雲がいくつもいくつも産れて來て、あるものはしだいに大きく頭上に近づきながら消え、あるものは北から西へかけての海上にゆるゆると並んで動いてゆく。なんといふ魂をひきこむ奴等だ、あの雲どもは。それを見てゐるうち、僕は突然思ひがけない悲しみの情に捕へられた。僕は思ひ出したのだ、東京に置き去りにして來た筈の僕の生活を、この二年間のさまざまな無意味な苦しみを。それは無意味といふより仕方のないものだ。そして、今だに僕を苦しめてゐる。僕はそれから逃げ出すことはできないやうな氣がする。

――田畑修一郎「南方」


サザンオールスターズが高松のなんとかアリーナにきたらしいんだけど、抽選に漏れた人が洩れる音を聞きにほんとにたくさんのひとがいた。で、CDを聴いた方が良いのではと言ったら細に怒られました。実際は、あまり音漏れはなかった模様である。近所の人たちは一安心かもしれない。

俯瞰とアナコンダ

2025-03-03 23:52:29 | 文学


暮るれば、君おはしたり。「かの四の君のことこそ、しかじか言ひつれ。われと言ひて、人求めてあはせむ」と宣へば、女君「いとけしからず。否と思さば、おいらかにこそしたまはめ。本意なく、いかにいみじと思さむ」と宣ふ。少将「かの北の方に、いかでねたき目見せむと思へばなり」と宣へば、少将「いと心弱くおはしけり。人の憎きふし、思し置くまじかりけり。いと心安し」と宣ひて、立ちたまひぬ。

文学とか思想を学ばないとある種の徹底としての俯瞰性が失われる。エビデンス主義みたいなのは、対処療法的な合理的な単純作業で思考を中断することへの強制である。例えば、ロマンとか啓蒙とか無とかいうのは俯瞰なのであろう。ロマン主義は現代のような時代においては逃避ではなく徹底性である。姫の憎悪を中断し心やすくなる傾向は一種の逃避であるが、現代においては、このような逃避が合理へ流れ、怨みや怒りを合理性の燃料としてしまう。我々はだいたい馬鹿なので、自分の怨恨を合理性と思い込むことさえあって、いわゆる人の言うことを全くきかなくなる。さんざ言われていることであるが、職業意識がその合理性を合理化することもある。大学教員みたいなものを「大衆の反逆」の著者が「大衆」と呼んだ所以である。

マックス・ウェーバーではないが、政治家は政治家として職業化されなければならないのだが、それは一種の理想で、商人だって政治家として生成する。そのときそれなりに簡単に彼は政治家として自己同一化をはたす。マックス・ウェーバーのいう職業倫理は正しいのであろうが退屈なのかもしれない。で、こういう自己同一性の魔改造みたいなことがしばしば起こって、世の中弁証法の季節の到来である。弁証法の顕在化みたいなものは、ある意味トランプみたいなものとしてある。いろいろと魔改造=揚棄すると世界がもともとどうなっていたかという事がよく分かるという。この弁証法はトランプみたいな人物を論理が待望しているところすらあるのではなかろうか。

政治犯、すなわち反逆者や革命家を「階級的仇敵」として徹底的に憎悪し迫害する習慣が日本の「支配階級」には“微弱”であること――むしろ聖書の中の放蕩息子としてその帰宅を歓迎する風習が強いことを、私は次第にさとるようになった。

――林房雄「大東亜戦争肯定論」


トランプは商人だが、林は文学青年である。かれもいちど世の中から放逐されたショックからなのか、自分を魔改造して放蕩息子や支配階級のふりをする形で自分を揚棄した。彼は、戦争を肯定したのではなくて、自分を含めた世界を肯定=揚棄するその身振りこそが重要だったのである。

吾儕は『人』としてこの世に生れて来たものである。ある専門家として生れて来たものではない。文学の道路も先づここから出発せねばならぬ。

――島崎藤村「「新片町より」序」


さすがに藤村は林よりも魔のスケールが違う。常に専門家になりかかると問題を起こして「人」に墜ちた。藤村の道徳くささは、彼が俗物であることを意味するのではなく、その「人」は道徳によって更なる堕落を避けることを知っていたからだと思う。いまや、道徳や宗教が犯罪に加担しないための防御の機能をもっていたことはわかる時代になったが、そういう機能が主なものであるような状況はいつもひどいもので生きた心地がしないものである。

芥川は「もののあはれ」の芸術に関して多大の理解と関心とを持つてゐたから彼が鷗外の文学を学んでゐる間に鷗外の新文学と「もののあはれ」的の文学との融和合流の上に使命を果すところがあつたらうと思ふのに、彼の夭折は遂に鷗外文学の流れに殆ど何物をも加へなかつた。

――佐藤春夫「日本文学の伝統を思ふ」


芥川龍之介にとってみれば、そういう「もののあはれ」では支えきれないものがあるということであった。藤村の方が生きるための堕落をいつ何で支えるか自覚的であったにすぎない。芥川は自己を支える自覚を解体することが癖になっていた。「鼻」や「羅生門」の頃からそうだった。

友よ、自分は君の所謂「動物力」によつて未だに生きてゐる。さうしてその「動物力」の使嗾によつて自分たちの瓦全を何か意味あることのやうに思ひ、且つは君の玉砕を惜み悲しんでゐる。

――佐藤春夫「芥川龍之介を哭す」


この動物への居直りはいつも危険であるが、日本近代文学の出発点から道徳の横にある「禽獣」の観念であって、それこそ道徳的に我々をしばっていた。昭和文学は、いちいちこの状態からの変身を願わなくてはならなかったのである。その自己欺瞞を知っていたのが太宰治である。だから彼は「人間失格」としか言わなかった。

そういえば、このまえ、二十年ぐらい前の映画だったと思うが「アナコンダ」というのを見直した。マニアが好きな大蛇映画である。大蛇に意味なんかあるかという原則とともに、やはり意味の塊である。邪な欲望を抱いた奴は全員死んでいるところからして姦淫すべからずがテーマ(わざわざ「元聖職者、いまアナコンダ生け捕りおじさん」まで出している。彼が大蛇に飲まれるところがクライマックスである――)であるにもかかわらず、勢い余って、子どもをたくさんこさえているアナコンダまで殺しておるから、まさに、少子化のすすめとしかいいようがない映画である。なかに、いけすかないブルジョア気取りの男がでてきて、次第にみんなに溶け込むが、そうなるまえにかれがヴェルディの「ドンカルロ」にでてくる「われらの胸に友情を」を歌ってるのが印象的である。ブルジョア芸術は人間の運命を俯瞰する。だから階級を超える。かれは蛇に殺される運命であったが、階級的和解は果たした。

中国からの逃避

2025-03-02 23:11:38 | 文学


典薬がいらへ「いとわりなき仰せなりや。その胸病みたまひし夜は、いみじう惑ひて、御あたりにも寄せたまはず、あこきも、つと添ひて、『御忌日なり。今宵過ぎして』と、正身も宣ひて、いみじく惑ひたまひしかば、やをらただ寄り臥しにき。のちの夜、責めそさむと思ひて、まうで来てあくるに、内ざしにして、さらにあけぬを、板の上に夜中まで立ち居、ありはべりしほどに、風引きて、腹ごほごほと申ししを、一ニ度は聞過ぐして、なほ執念くあけむとしはべりしほどに、乱れがはしきことの出でまうで来にしかば、物もおぼえで、まづまかり出でて、し包みたりし物を洗ひしほどに、夜は明けにけり。翁の怠りならず」と述べ申して居たるに、腹立ち叱りながら、笑はれぬ。まして、ほの聞く若き人は、死に返り笑ふ。「いでや。よしよし。立ちたまひぬ。いとかひなく、ねたし。異人にこそあづべくかりけれ」と宣ふに、典薬、腹立ちて、「わりなきこと宣ふ。心には、いかでいかでと思へど、老いのつたなかりけることは、あやまちやすくて、ふとひちかけらるるをば、いかがせむ。翁なればこそ、あけむあけむとはせしか」と、腹立ち言ひて、立ちて行けば、いとど人笑ひ死ぬべし。

糞を漏らした老人の話に死ぬほど笑う北の方と女官たちのエピソードは、ここまで行われていたお姫様に対する北の方のいじめをどこかしら緩和する効果すらある。そもそも落窪の姫に対する虐めに対してこの話は真剣に対峙していない。はじめからそれを軽く扱う結構を繰り出している。

こういうありかたが普遍的なやりかたなのかわたくしはわからない。

わたくしの興味があるのは、中国文学や思想を、どれだけ我が国のインテリたちはどれだけ真剣に受け取ったのだろうか、ということだ。ドストエフスキーに出会った文学志望者たちへのトラウマのようなものはなかったのであろうか。

――いずれにせよ、中国に対する恐怖を舐めた態度で朧化するみたいな態度がどこかで身についてしまったきがする。国語の論理的能力みたいな蠅の糞みたいな議論をみてておもうのは、次のようなことである。そもそもおれたちのつこうとるうじゃじゃけた文体は漢文の影響を受けすぎた文体の解体の可能性に賭けられていたところがあるわけで、そんなに論理的になりたいのなら、漢文を勉強したほうがよい。実際、わたくしの知っている漢文学や中国思想の人には独特の論理性があるので、エビデンスがありゃ論理的と感じる程度の人なんか屁と思わないだろう。言文一致的、「思い」中心的な文体を破壊する気のない奴が論理とかいうてもコマルのである。

単純に、女文字というのが、その朧化のあらわれだというような議論があった気がする。マンガの大ヒット作品は手描きという説があるけど、研究室の黒板に手書きで何か書いておくと落ち着く気がわたくしもする。街の落書きも、なんか落ち着くからかもしれない。

世界は、トランプ以前からいつも狂っていたわけであるが、トップにおかしいやつを据えてみると、真実がわかるというのは、ネロの時代からヒトラーの例を挙げるまでもなくそうである。トランプは、本人の認識はともかく、米国の軍事に精神的にも物理的にも依存していた世界の狂気を改めて認識させた。もちろん、トランプがよいというわけではなく、最悪である。トランプが長い人生のおかげでNATOとかCIAの非道を若人たちより覚えてるとか、そういう何かに期待するしかあるまい。トランプもあれである、「アメリカファースト」とか「グレイトアゲイン」じゃなくて、「アメリカが手を引いたら戦争も終わりみたいな世界を終わらせようぜ」とか言っておけば、西洋の超克論者や左派を巻き込んだ味方がもっと増えたのではなかろうか。だいたいアメリカ帝国主義批判――CIAとかNATOだかへの批判とともにあった米国依存への批判て、かつて左派の主張のひとつのポイントだったはずではないか。それがなにか、リベラルみたいなやつらが、民主主義国アメリカにまなべみたいなことを言い出しておかしくなった面がある。ここにもその実中国への恐怖の裏返しがあった気がする。

知り合いのもと全共闘のおじさんがいってたが、――ニクソンが中国に行ってから、中国は日本の左翼を本格的に見捨てた。そこでいろいろ終わったというか、明治以来続いていた左翼的東亜共同体論の夢も本格的に終了したと。しかし、――というか、多くの左翼は中国のこともよく分かってないくせに、もうアラブとかアフリカとかの第三世界にとんでたような気がしないでもない。確かに、マオイズムの帰結(連合赤軍とか)が悲惨なことになって、そことの対立も避けたのだ。アフリカもいまや中国に取られてそうだしどうしようもない。いまこそ日本の特徴であるところの、大国の函数呪術師みたいな類友の国を見つけ、仲良くしておくしかないのではないか。中国はある意味自分の本体であるアジアを見捨てたわけで、もはや華中思想の表れですらないぞ、本体はアメリカだ。

――以上のように、学者と政治家というのは、語り出すと案外同じようなことを妄想していることがあると、私は思い上がって思うのだ。政治家と大学の先生は本人たちが思っているよりも似ているので、学問が政治に攻撃されているみたいなイメージはいつもある程度しかあたっていない。ただ、政治家が文字通りの政治家みたいな奴であった場合、そして学者が学者らしくあった場合である。