死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

怒りがこみあげてきた時は、「慈悲観」の実践をしてみる 

2008-02-05 | プロローグ
勇二 「ところで、怒っちゃいけないと思いつつ、つい「マジギレてしまった」「怒りがおさまらない」って時は、どうしたらいいのかな?」

正太 「その時は、「慈悲観」というのを行なうといいんだよ。これは、お釈迦様が説かれた観法のひとつで、阿修羅地獄に行くような「怒りっぽい人」向けに説かれたものなんだ」

勇二 「ほーお。慈悲観ていうと、慈悲の眼で見るということ?」

正太 「そう。これは「平等視」と「抜苦与楽」の二つから成り立っているんだ。
 ムカーッときたら、まず「人間はみんな同じく神仏の子なんだ。自分にとっては好きな人、嫌いな人、いろいろあるだろうけど、みんな神様がよしと思ってつくられた魂たちなんだ」こんなふうに、いったん白紙に戻して平等に見てみようとするんだよ(これが「平等視」だね)。
 そして、差別せず、あらゆる人に対して「抜苦与楽」、つまり「苦を抜いて、楽を与えてあげよう」という心を起こしてみるんだ。
 これは、なかなか難しいことなんだけど、少なくとも、ストレートに怒りを出している状態に比べると、思いがマイナスからプラスのものに切り替わっていくんだね。中和作用が働いて、心が穏やかになってくるんだよ」

勇二 「ふーむ。こりゃ結構難しいかもね。ギアを急に反対方向に入れるみたいな感じだからね」

正太 「たとえば、会社で、同僚あるいは上司とすごい喧嘩をして帰ってきた。もうカッカして悔しくてしょうがない。「オレに向かって、あんなことを言いやがった」「あんなヤツは死んじまえばいいのに」と思う。
 そういうときに、慈悲観をして「そういえば、自分は好き嫌いで人を見てたかもしれないな。人に対してはもっと平等に見なきゃいけない。自分が好きな○○さんも、他の人に言わせれば、嫌いだってこともある。好き嫌いっていうのは、ずいぶん相対的なものだ。だから、自分の主観だけで全部決めつけちゃいけないな。今日喧嘩をしたあの人にも、いいところが何かきっとあるに違いない。そのいいところを見つけてあげられなかった自分自身にも、至らないところがあったに違いない」こう考えていくんだね。
 そして「あの人にも何かきっと苦しいことがあるんだろう。あんなひどいことを自分に言ったということは、何か悩んでることでもあるんだろう。その悩みは何かな。それを楽にしてあげたいな」と考えて、「もっと喜ばせるようなことは何かできなかったか。彼を責めることばかり考えていたけど、何かやさしい言葉をかけてあげられなかったか。自分にできるやさしい行為は何かなかったか」と考えていくんだよ。
 平等に見ようとして「彼(彼女)の苦を抜いて、楽を与えることは何かできなかったか」ということを考えていくうちに、怒りの念がスーッと引いていくんだね」

勇二 「なるほどね。でも、それが簡単にできれば苦労しないんだけどね(笑)」

正太 「車の運転と同じで、心のコントロールというのも、ふだんやりつけないと難しく感じるものなんだね。ところが回数をこなして慣れてくるにつれて、だんだん楽にできるようになってくるんだよ。
 「心をコントロールしよう」と思って努力していると、運転技術は着実に高まっていくんだ。霊格の高い人というのは、修練に修練を重ねて「心の名ドライバー」になった人なんだよ」

勇二 「そうかあ。何でも努力次第なんだね」

正太 「あるいは寛容の心を起こしてみることも大切なんだ。
 たとえば、「あの人にも父親や母親はいたはずだし、愛しい子供だっているだろう。あの人のことを素晴らしいと思う友人だっているだろう。その人の全人格まで否定しちゃうのは、大変な間違いじゃないのか」と考えてみるんだよ。
 「我、必ずしも真ならず。彼、必ずしも偽ならず。悪ならず」「自分も相手も完全な人間じゃない。あの人にも長所や優れたところはあるはずだ。そこを見てあげなくちゃいけない」こう考えてみるんだね」

勇二 「ふーむ。「自分が、自分が」という狭い心を捨てて、広い心で相手のことを見直してみるわけだね。
 反省も大事だけど、マイナスの思いが出たら、まずは「プラスの釘を打ち込む」「プラスの思いに差し替える」ってことが大切なんだな。
 こういう努力を積み重ねていくことが、「心の運転技術」や「心の平均打率」の向上につながるわけだしね」



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