死んだらどうなる?

誰もが一度は抱く関心「人間は死後どうなるか」を中心に、あの世、生まれ変わり、守護霊等について詳しく解説していきます。

他人からの厳しい言葉、辛辣な言葉を、「岩に刻むように」聴いてはいけない 

2008-01-29 | プロローグ
正太 「それと、阿修羅地獄のような「怒り」系統の地獄に行く人には、一つの特徴があるんだよ。それは、「正聴」と「正語」ができない、ということなんだ」

勇二 「正聴と正語?」

正太 「「正聴」というのは、人の言葉を正しく聴くこと、「正語」というのは、正しく語ることだね。カッとなって心が乱れやすい人は、まず「正しく聴く」ということができないんだよ。
 人間というのは、他人の言葉を聴くことによって、心に曇りや傷をつくったり、怒りを覚えるものなんだ。他人の言葉というのは、自分には厳しいことがあったり、不本意なことがあったりするんだけど、その時に、その言葉をどう受け止めるかということが大事なんだよ」

勇二 「たしかに、カッとなる時って、人から何か言われたときが多いよね」

正太 「その時に、三通りの聴き方があるんだ。
 まず、「岩に字を刻むように」聴く人がいるんだね。でも、字を岩に刻んでしまったら、その字は百年経っても千年経っても消えなくなるんだよ。
 次に、「砂に字を書くように」聴く人がいるんだ。砂に書いた字は、二、三日はそのまま残っているけど、やがては、風が吹くと消えていくんだね。
 最後に、「水に字を書くように」聴く人がいるんだ。サラサラ流れている小川の上に字を書いても、一瞬後には流れ去って、元のきれいな水面に戻るよね。そんなふうに、こだわらない心、引っかからない心で、人の言葉を聴く人もいるんだよ。
 その言葉が辛辣で、自分に対して害意を持ったものであったとしても、その時に、「岩に刻むような聴き方」「砂に書くような聴き方」「水に書くような聴き方」の三通りがあるわけなんだ」

勇二 「そうかあ。一番最初の「岩に刻むように聴く」っていうのがマズいんだね」

正太 「そうなんだよ。これが「執着」になっていくんだね。
 他の人が自分に対して厳しいことを言ってくれることがあるけど、それが、自分にとって本当に思い当たる節があるなら、それを素直に受け入れて、反省することなんだ。
 そして、忠告をしてくれた人に対して感謝をすることなんだ。そうすれば、心の波立ちはなにも起きないんだよ」

勇二 「ふーむ。僕の場合はどれかなー。昼間、上司からキツいことを言われてムシャクシャしても、夕ごはんを食べると忘れちゃうことが多いね(笑)。
 これからは、「水に字を書く境地」を目指していかなきゃいけないな」

正太 「水の上に字を書いても流れ去っていくように、こだわらない心があれば、それは流れていくんだね。その時に、その人の心には怒りが起きてこないんだよ。怒りが起きなければ、相手を怒鳴りつけることもないし、相手を傷つける言葉、相手の仏性を穢す言葉も出てこないんだね。
 正聴があって、正語もあるんだ。正しく語るには、語る前の心の調律が大事だし、心の調律のもとになるのは、正しく聴くということなんだね。正しく聴いてこそ、正しく語れるんだよ。
 心に怒りが起きてしまったら、もはや正しく語ることはできないんだ。相手に対する悪口や、相手を木っ端微塵にするような言葉が出てくるんだね。
 心の中で間違った受け取り方をしていると、発する言葉まで違ってくるんだ。そして、自分が毒を喰らうだけじゃなくて、他の人にもその毒を発射して、その毒がまた再生産されて、世の中をグルグルと駆けめぐっていくんだよ。
 だから、カッとなってキレやすい人、阿修羅地獄に行く可能性があると思う人は、正聴と正語のところをきっちり修練していくことが大切なんだ」

勇二 「人から不本意なことを言われたとしても、「思い当たる点があれば素直に反省して、後はサラリと流す」という「心のトレーニング」を積んでいくことだよね。これは、前に聞いた「アッサリした性格になろう」ってこととも重なるね。そういう方向で努力していけば、だんだん爽やかな性格になれるわけだ。
 「あの野郎」なんて心の中にこだわりを作ったり、「おのれー」なんて根に持ったりすることが「執着」になるんだな。
 心っていうのは、春の小川みたいに、ひっかかりがなくサラサラ流れていくようでなきゃいけないね。何のことはない。心の水質が、どれだけサラサラしてたか、ドロドロしてたかで、あの世での行き先が決まっちゃうわけだからね」



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。