前オリックス監督の仰木彬さん死去
2005年12月16日 (金) 16:55 asahi.com
プロ野球の近鉄とオリックスで監督を務め、大リーグの野茂英雄
投手やイチロー選手らを育てた仰木彬(おおぎ・あきら)さんが、15日
午後4時10分、呼吸不全のため福岡市の病院で死去した。70歳
だった。オリックス球団が同日発表した。
仰木さんは福岡県出身。福岡・東筑高卒。54年、西鉄(現西武)
ライオンズ入団。二塁手で活躍した。67年に引退後、西鉄と近鉄
バファローズ(当時)でコーチに。
88~92年、近鉄監督。巧みな選手起用で勝機をつかむ采配は
「仰木マジック」と呼ばれた。なかでも88年10月19日、シーズン最終
戦のロッテとのダブルヘッダーで1勝1分けに終わり、逆転でのリーグ
優勝を逃した「10・19 川崎球場」は、パ・リーグの歴史に残る名勝負
だった。89年、リーグ優勝を果たす。
94~01年、オリックス・ブルーウェーブ(当時)監督。若手の鈴木
一朗選手の登録名を「イチロー」と変えて話題を呼んだ。阪神大震災
の起こった95年、「がんばろう神戸」をスローガンに掲げてリーグ優勝。
96年、日本シリーズで巨人を倒して日本一となった。
04年、野球殿堂入りを果たした。同年、近鉄と統合したオリックス・
バファローズ初代監督に就任。今年は前年まで3年連続最下位だった
チームを4位に引き上げ、Aクラス争いをするまでに導いた。だが、
肺がんが悪化し、9月に体調不安を理由に監督を勇退。球団のシニア
アドバイザーに就任していた。
監督14年間の通算成績は勝利数歴代12位の988勝815敗53分け。
勝率は5割4分8厘。
西鉄ライオンズには、投手として入団しましたが、三原脩監督に野手と
しての才能を見出され、二塁手に転向しました。
高卒で南海ホークス入団後即2年で50勝を挙げた宅和本司投手より
実力は上、と言われていた「超大物」ルーキーに、フリーバッティングで
不運なヒットを連打されたのを見た三原監督が「お前は投手としての
ツキが無いから二塁手転向」と言った、というエピソードが残っています。
ちなみにその5秒後には仰木氏はセカンドのポジションにいたそうです。
また、三原監督からノックの嵐を受けて逆上した仰木氏が、摑んだ球を
監督に投げつけたという話も有名です。
まあ、往年の名選手には、何かしら「伝説」があったものですが。
高卒ルーキーで、しかも野手転向していきなり活躍し、西鉄のリーグ初
優勝に貢献したのですから、黄金期の西鉄にあっては地味な存在です
が、桁外れの選手だったのでしょう。
現役時代から理論家でもあったようで、三原氏と議論を戦わせていた
ようです。それが後年の指導者としての活躍に結びついてるのかも
知れません。(参謀に恵まれたというのもありますが。)三原氏の娘婿
の中西太氏とは対照的です。
彼の名を一躍有名にしたのは何と言っても、報道にもありましたが
88年10月19日の川崎球場のダブルヘッダーでしょう。パ・リーグの
優勝決定戦に日本中が注目したのは、後にも先にも無いでしょう。
テレ朝が「ニュースステーション」を中断して中継したほどでした。
その後もあの手この手で話題づくりに励んだものの、パ・リーグの
人気は上がらず苦悩は続き、昨年の球界再編騒動に相成りましたが、
合併球団の新監督に仰木氏が就任することになったのは、何とも
皮肉なことでした。
しかし少しずつ変わってきているようにも思います。ホークスに続いて
マリーンズが地域密着で成功し、成績面でもついに結果を残しました。
ライオンズやベイスターズの経営問題はくすぶってますが、球団が
ファンと一緒に取り組めば、いいほうに動くと信じたいです。
仰木さん、これまでお疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。
2005年12月16日 (金) 16:55 asahi.com
プロ野球の近鉄とオリックスで監督を務め、大リーグの野茂英雄
投手やイチロー選手らを育てた仰木彬(おおぎ・あきら)さんが、15日
午後4時10分、呼吸不全のため福岡市の病院で死去した。70歳
だった。オリックス球団が同日発表した。
仰木さんは福岡県出身。福岡・東筑高卒。54年、西鉄(現西武)
ライオンズ入団。二塁手で活躍した。67年に引退後、西鉄と近鉄
バファローズ(当時)でコーチに。
88~92年、近鉄監督。巧みな選手起用で勝機をつかむ采配は
「仰木マジック」と呼ばれた。なかでも88年10月19日、シーズン最終
戦のロッテとのダブルヘッダーで1勝1分けに終わり、逆転でのリーグ
優勝を逃した「10・19 川崎球場」は、パ・リーグの歴史に残る名勝負
だった。89年、リーグ優勝を果たす。
94~01年、オリックス・ブルーウェーブ(当時)監督。若手の鈴木
一朗選手の登録名を「イチロー」と変えて話題を呼んだ。阪神大震災
の起こった95年、「がんばろう神戸」をスローガンに掲げてリーグ優勝。
96年、日本シリーズで巨人を倒して日本一となった。
04年、野球殿堂入りを果たした。同年、近鉄と統合したオリックス・
バファローズ初代監督に就任。今年は前年まで3年連続最下位だった
チームを4位に引き上げ、Aクラス争いをするまでに導いた。だが、
肺がんが悪化し、9月に体調不安を理由に監督を勇退。球団のシニア
アドバイザーに就任していた。
監督14年間の通算成績は勝利数歴代12位の988勝815敗53分け。
勝率は5割4分8厘。
西鉄ライオンズには、投手として入団しましたが、三原脩監督に野手と
しての才能を見出され、二塁手に転向しました。
高卒で南海ホークス入団後即2年で50勝を挙げた宅和本司投手より
実力は上、と言われていた「超大物」ルーキーに、フリーバッティングで
不運なヒットを連打されたのを見た三原監督が「お前は投手としての
ツキが無いから二塁手転向」と言った、というエピソードが残っています。
ちなみにその5秒後には仰木氏はセカンドのポジションにいたそうです。
また、三原監督からノックの嵐を受けて逆上した仰木氏が、摑んだ球を
監督に投げつけたという話も有名です。
まあ、往年の名選手には、何かしら「伝説」があったものですが。
高卒ルーキーで、しかも野手転向していきなり活躍し、西鉄のリーグ初
優勝に貢献したのですから、黄金期の西鉄にあっては地味な存在です
が、桁外れの選手だったのでしょう。
現役時代から理論家でもあったようで、三原氏と議論を戦わせていた
ようです。それが後年の指導者としての活躍に結びついてるのかも
知れません。(参謀に恵まれたというのもありますが。)三原氏の娘婿
の中西太氏とは対照的です。
彼の名を一躍有名にしたのは何と言っても、報道にもありましたが
88年10月19日の川崎球場のダブルヘッダーでしょう。パ・リーグの
優勝決定戦に日本中が注目したのは、後にも先にも無いでしょう。
テレ朝が「ニュースステーション」を中断して中継したほどでした。
その後もあの手この手で話題づくりに励んだものの、パ・リーグの
人気は上がらず苦悩は続き、昨年の球界再編騒動に相成りましたが、
合併球団の新監督に仰木氏が就任することになったのは、何とも
皮肉なことでした。
しかし少しずつ変わってきているようにも思います。ホークスに続いて
マリーンズが地域密着で成功し、成績面でもついに結果を残しました。
ライオンズやベイスターズの経営問題はくすぶってますが、球団が
ファンと一緒に取り組めば、いいほうに動くと信じたいです。
仰木さん、これまでお疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。
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