鹿児島でこの名前に出会うとは思っていませんでした。
第32軍(沖縄守備隊)司令官・牛島満陸軍大将。(ずっと中将だ
と思ってましたが、死の直前に昇進が決まっていたようです。)
鹿児島市出身(生まれたのは東京ですが、生後間もなく、退役
した父の郷里である鹿児島に移り住み、幼少期を過ごしました)
なのだそうで、「牛島満大将生い立ちの碑」というのが、加治屋
町に建てられています。
碑文には「十八万六千余命ノ将兵住民ト共ニ玉砕サレタ」とあり
ますが、彼が「自決」の際に「最後の一兵まで戦うように」と命じた
ために、本土よりも遅い9月7日まで無意味な戦闘が続けられ、
大勢の「将兵住民」の命が奪われました。
彼が「自決」した摩文仁の丘の「黎明之塔」も相当なものですが、
「郷土の英雄」として祀り上げるこの碑には、沖縄住民の視点は
完全に欠落しています。それはそのまま、今日の我々の沖縄に
対する認識を如実に表しているといえるでしょう。
思いがけない出会いを通して、「歴史はいつ、どこででも学べる」
という信念がさらに強固なものとなりました。大事なのは、見出し、
読み(聞き)取る力を身につけることです。
第32軍(沖縄守備隊)司令官・牛島満陸軍大将。(ずっと中将だ
と思ってましたが、死の直前に昇進が決まっていたようです。)
鹿児島市出身(生まれたのは東京ですが、生後間もなく、退役
した父の郷里である鹿児島に移り住み、幼少期を過ごしました)
なのだそうで、「牛島満大将生い立ちの碑」というのが、加治屋
町に建てられています。
碑文には「十八万六千余命ノ将兵住民ト共ニ玉砕サレタ」とあり
ますが、彼が「自決」の際に「最後の一兵まで戦うように」と命じた
ために、本土よりも遅い9月7日まで無意味な戦闘が続けられ、
大勢の「将兵住民」の命が奪われました。
彼が「自決」した摩文仁の丘の「黎明之塔」も相当なものですが、
「郷土の英雄」として祀り上げるこの碑には、沖縄住民の視点は
完全に欠落しています。それはそのまま、今日の我々の沖縄に
対する認識を如実に表しているといえるでしょう。
思いがけない出会いを通して、「歴史はいつ、どこででも学べる」
という信念がさらに強固なものとなりました。大事なのは、見出し、
読み(聞き)取る力を身につけることです。
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