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Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

2006年03月09日 19時18分38秒 | 時事・社会
「日本の伝統食文化を子どもたちに」というスローガンの下、
学校給食に鯨肉を復活させる動きが全国的に広がっている
ようです。
共同通信の2月14日配信記事は、以下のようなものでした。

広がる鯨肉給食 伝統食の味を子供らに

 商業捕鯨の停止で約20年前に、学校給食からほぼ姿を消し
た鯨肉を復活させる動きが各地で広がりをみせている。
 古式捕鯨発祥の太地町のある和歌山県教育委員会の呼び
掛けに応じ、他の都府県が取り扱いを始めた。試行段階の所
も多いが、教育関係者は「かつてはありふれた食材だった鯨肉
を通じて、日本の伝統的な食文化を知ってもらいたい」と期待を
寄せている。
 昨年1月から、県内の小・中学校で鯨肉給食を始めた和歌山
県教委は、鯨肉をほかの自治体にも広めたいと、東京都内で
試食会を開く一方、各都道府県の学校給食会に鯨肉を扱うよう
要請。昨年後半から奈良などの学校で給食に出され始めた。


私も子どもの頃は食べてました。
3年くらい前に近所のスーパーで鯨カツを売ってたので懐かしく
なって買って食べましたが、そんなにおいしくなかったです。
好みの変化か、他においしいものを知ってしまったからか・・・。
ところで、この鯨肉復活の動き、裏には複雑な事情もありそう
です。2月10日にはこんな記事がありました。

鯨肉の在庫、調査捕鯨拡大で増加 水産庁が消費拡大に

 鯨肉の国内在庫が急増している。調査捕鯨の頭数を拡大して
供給が増加する一方で、消費が伸び悩んでいるためだ。反捕鯨
国から調査捕鯨の撤廃・縮小を求められるきっかけになりかね
ないだけに、水産庁は「鯨肉を食べたい消費者は多い。売り方
を改善すれば在庫はすぐにはけるはず」と、鯨肉の消費拡大に
乗り出した。
 調査捕鯨は、水産庁から委託を受けた日本鯨類研究所が87年
から始めた。捕獲した鯨肉は販売され、その収益が調査費用に
充てられている。
 農水省の統計によると、05年末の鯨肉の在庫量は3511トン。
98年には600トン台まで落ち込んだが、その後、北西太平洋での
調査捕鯨を拡大したことなどから05年8月末の在庫量は4800トン
まで増加。05年度からは南極海での捕鯨頭数も大幅に増やす
計画で、在庫はさらに積み上がる公算が大きい。
 水産庁によると、鯨肉の供給量はほかの水産物に比べると
少ないため、まとまった量の食品しか扱わない大手スーパーで
売りにくいという。「中小や零細の業者に流通経路が限られてきた
ことが消費が増えない理由」(遠洋課)との反省から、今後は新た
な販路開拓に力を入れ、鯨肉価格の値下げも進める。


もともと鯨油を採るためだけに鯨を乱獲したのは欧米諸国です。
「捨てるところが無い」ほど鯨を大事にしていた日本の伝統は、
もっとPRすべきでしょう。(中古家電を捨てざるを得ないPSE法
などを強行してるようでは説得力ありませんが。)
とはいえ、戦後の食糧難を切り抜けた後も日本が獲り過ぎたのも
事実。南氷洋まで行くことへの批判や捕鯨方法が「残酷」と誤解
を招いている面もあります。牛を食べてる人に言われたくない、と
いう気持ちもありますが、「ミニ鯨の養殖」なんてのも本気で検討
したほうがいいのかもね。
それより、海洋汚染の影響を受けた鯨肉は危険、との指摘のほう
が心配です。海の生態系の頂点に位置する巨大生物ですから、
有害物質が生態濃縮されてる可能性は高いわけです。
将来を担う子どもたちの食べ物は、大人の意地や思い入れとか、
経済原理は抜きにして、安全第一でいってほしいものです。

誤認逮捕

2006年02月28日 23時31分43秒 | 時事・社会
外国人と間違い日本女性を逮捕 埼玉県警、即日釈放

埼玉県警川口署は27日、旅券不携帯の外国人として入管難民法違反
容疑で逮捕した同県川口市の無職女性(28)が、その後の捜査で日本
人と判明したため釈放した、と発表した。
同署によると、女性がアジア系の外国人に見えたことや、ポルトガル語
が書かれた封筒を持っていたことなどから、日本人ではないと判断した
という。
パトロール中の署員が25日午後7時40分頃、川口市内の路上で女性を
見つけて職務質問。女性は当初「日本人です」と答えたが、さらに質問
すると何も話さなくなったという。身元確認ができないため、26日午前
5時過ぎに逮捕状を取って逮捕。女性の母親(58)の証言で日本人と
分かり、同日午後7時20分に釈放した。
                        (中国新聞 2月28日朝刊)


「外国人に見える」だけで逮捕されるなんて、恐ろしい話です。
今日はこのネタで行こうと思って、ネットで検索してみましたが、なぜか
Web上では記事が見つかりませんでした。
永田議員のメール問題なんかより、市民にとっては大事な問題だと思う
んですけどねえ・・・。
もっと恐ろしいことに、誤認逮捕は決して少なくないんです。今回のよう
に表に出てくることは稀ですが。
今回の女性は、そんなこと露にも思ってなかったでしょうし、入管難民法
や外国人登録法のことも知らずに、怒って答えなかったんでしょうね。
もちろん、素晴らしい警察官も大勢いますし、いつもチャランポランなこと
ばかりやってるわけではないでしょうが、かといって警察は常に市民の
味方で絶対安心、とは限らないと認識しておかないといけません。
悲しいことですが・・・。

金メダル獲得・・・

2006年02月24日 23時20分19秒 | 時事・社会
フィギアスケート女子の荒川静香選手、見事な演技でした。
金メダルおめでとうございます。これで「しずちゃん」(南海
キャンディーズ)より有名になれますね。(って、何のこっちゃ)
で、こういうことを書くと彼女の努力とその成果とに水を差す
ようで申し訳ないのですが、私は今回のトリノ五輪で日本は
1つもメダルを取れずに終わったほうがよかったのではないか
と今でも思っています。
オリンピックをはじめ様々な大会で繰り広げられているのは
「競技」です。「スポーツマンシップ」とか言ってますが、どう
見ても私には「スポーツ」とは思えません。
「向上心」が「他者より上位に立つこと」にすり替えられて、
勝ち負けにこだわるのって、否定はしませんが、それが全て
というのは違うと思います。
オリンピックは元来、「都市対抗戦」なんですよね。今でも
開催地は「国」ではなく「都市」で決めるのはその名残です
が、それを国威発揚・ナショナリズムの体現の場と変えた
のが、'36年ベルリン大会のヒトラーです。
それを踏まえつつ、それでも「日本代表」を推すのなら、
ふがいない結果に対してはもっと国民から批判が出ても
おかしくないと思うのですが。今回叩かれたのは、スキー
ジャンプNHの原田雅彦選手くらいですよね。
(彼の場合、そもそも代表に選ばれたこと自体がおかしい
訳で、選んだ以上は競技団体やJOCの責任でしょうに。)
今回日本勢の「成績」が振るわないのは、前々回の長野
大会と2年前の夏のアテネ大会のメダルラッシュに勘違い
した関係者の、強化・育成の失敗が原因です。特に冬は、
元々そんなにメダルなんて取れてなかった上に、不況の
あおりなどで競技人口が減ってレベルも下がってる訳です
し。勝つことがそんなに重要なら、勝つための準備をして
おかないといけない筈ですよね。それは関係者だけでなく、
見る側もそういう目で見てないといけない、ということでも
あります。競技者はアイドルではないのですから。
で、私が今度のオリンピックを覚めた目で見ているのは、
それが日本社会全体にも通じる問題を含んでいるように
思えるからです。以前から兆候はありましたが「小泉改革」
によっていよいよ本格化した「競争社会」って、オリンピック
と似てると思いません? オリンピックの場合は選ばれた
「勝ち組」たちの大会ですが、そこでもトップ3に入ることが
全て。負けたらおしまい。シビアな世界です。
それでも代表になれた選手は、たとえ負けても国内では
大事に扱われますが、選ばれなかった選手はほとんど
見向きもされません。
「競争社会」も結局はそういうものなのです。「競争に負け
てもやり直せる仕組みを作る」とか言ってますが、それじゃ
「競争」にならないという批判が必ず出てくるでしょう。
もしメダルを取れずに終わっていれば、「競争」の厳しさを
国民が再認識し、「優しい社会」へ舵を切りなおす契機に
なったかも知れないのに、と思うと、荒川選手には申し訳
ないですが、金メダルが多少恨めしくもあります。
有名人好きの小泉首相が、早速アプローチしてるみたい
ですしね。さすがにもう国民も騙されないと信じてますが。

竹島の日

2006年02月22日 23時15分13秒 | 時事・社会
昨年3月に島根県が制定した「竹島の日」を初めて迎えました。
韓国政府は島根県が記念式典を行なったことに遺憾の意を表明
したものの、抗議行動などは比較的小規模にとどまったようです。

島根県議会が条例を可決した昨年3月16日、私はちょうど出張で
島根県大田市におり、ホテルのテレビでニュースやワイドショーを
見てましたが、地元と在京キー局の放送内容、出演者の認識の
あまりの落差に愕然としたものです。
考えてみれば、ワイドショーをはじめ全国ネットの番組のほとんど
は、お笑い系の人気タレントに、いつも同じ顔ぶれの評論家や
ジャーナリスト、良心的な番組でもせいぜい系列紙の解説委員
が加わるくらいで、その問題の専門家が時間をかけて説明したり、
一堂に会して論じ合うようなものは「政治討論」系を除いて、まず
見当たりません。たまたま入った仁摩町(現大田市)の図書館で
竹島関連の書籍のコーナーを見つけて読んだ本のほうが、よほど
分かりやすく勉強になりました。

竹島問題は地元では、第一義には漁業問題です。
当時某キー局は、松江市の街頭で道行く人にインタビューして、
「(竹島を)知らない」というコメントを取って繰り返し流し、「日本
では(地元でも)関心は低い」などと自分たちの無関心・無知を
免責・正当化する開き直りぶりを示してましたが、漁業関係者
や経済界にとっては深刻な問題なのです。
政府間でもこの問題は事実上棚上げのままきていますが、日韓
漁業協定によって竹島周辺は「暫定水域」という共有域となって
います。しかし韓国の警備艇が日本の漁船を近づけない一方、
韓国側は乱獲を続けているそうです。業を煮やした自治体が、
注目を集めて世論を喚起し、陳情に耳を傾けない政府を突き上げ
るために条例制定という政治問題化に踏み切ったというのが実情
です。
この問題は単に竹島水域や島根県の問題でなく、昨年来何かと
騒がれる中国の公害問題も合わせて、日本近海全体の環境・
水産資源問題として早急に取り組まないと、手遅れになりかね
ません。とはいえ、一方で中国にどんどん車を売っている現実も
あります。領土問題でも経済問題でも、自尊心や利己心だけで
突っ走ってると、いつか大きなしっぺ返しを受けることに思いが
至らないのでしょうか。

竹島の帰属問題については私もまだ勉強中なので、後日改めて
取り上げることにしますが、「論争」を見ていると、お互い相手の
主張を全否定して自説を述べるだけで、相手に納得させるような
「反証」も、自説の自己検証も十分なされていないように思われ
ます。
「竹島の日」制定を契機とする韓国・中国の反日「暴動」以降、
「日本人なら日本に不利になることを言うな。」とか「日本には
日本の歴史がある。外国が口出しするな。」といった主張も目に
つくようになりました。おかしな話ですけどね。
韓国人も韓国に不利なことを言わなければ、いつまで経っても
議論は平行線です。現状のままが望ましいということでしょうか。
それとも、戦争をしたくて仕方が無いのでしょうか。
歴史相対主義を主張するなら、自分たちの歴史観の絶対化とは
相容れません。
結局のところ、「外圧」を反発材料として逆の形で利用している
だけで、「思想」は無いんですけど、なぜか受けるんですよね。
まあ、あんまり言うと大衆を「愚民」などと見下す人たちの仲間
入りしちゃいそうなので、この辺で。

心の問題? その4

2006年02月20日 22時30分37秒 | 時事・社会
前回紹介したアメリカ合衆国憲法修正第1条は、「信教上の自由な
行為」まで保障しています。一方、日本国憲法第20条は、内心の
自由は無条件に保障するが、行為は「公共の福祉に反しない限り」
という制約を受ける、というのが通説です。ですから、米国の某高官
が小泉首相の靖国参拝は「信教の自由の範囲内」と発言したのを
引き合いに出して正当化するのは、両国の法体系や宗教観の違い
を無視したものと言わざるを得ません。
ちなみに、米国政府全体としては、この問題に懸念を持っていると
非公式に伝えられていたことが報道されていました。中韓両国との
「摩擦」に留まらず、北朝鮮との交渉にも影響し、「同盟国」からも
不安がられて、「公共の福祉に反しない」と言えるのか、小泉首相
の見解を聞きたいものです。(もっとも、東アジア地域が安定せず、
米国抜きのアジア諸国連合体の構想が破綻することが、この地域
への影響力を保持したい米国の本音、との見方もありますが。)

「心の問題?」と題して長々と書いてきましたが、私が小泉発言に
引っかかった一番の理由が、この「信教上の行為」の問題です。
前回は第20条のキリスト教的背景を強調しすぎたきらいがありました
が、本来、宗教というものはアイデンティティの確立に欠くべからざる
ものであろうと思います。「無宗教では世界に通用しない」と言われる
所以です。ですから、それを個人の内面だけに留めておくこと自体、
無理があると思われます。イスラムはもとより、キリスト教も仏教も、
「内面の平穏」に留まらず、日常生活や社会規範にも影響を与える
ものなのです。「竹庵雑記」の「文明の衝突」と題した連載記事で、
イスラムについて詳しく紹介されていますが、「イスラムは単なる宗教
ではない」というよりは、そうした「宗教」の定義のほうが誤っている
と言えるかと思います。
それならなぜ、私が小泉首相の靖国神社参拝に反対するのか、と
言いますと、これまでにも何度も書いてきた政教分離の問題、「国家
神道」との訣別という日本国憲法の大前提に関わる問題だからです。
これも前回紹介した『ウィキペディア』の「信教の自由」の定義に、
こうありました。
3.特定の宗教を信仰していたり、していなかったりすることによって、
 いわれのない差別を受けることのない権利。
しかし戦前の日本は違いました。「神社は宗教に非ず」とされ、神道
信仰は国民に強制されました。その名残が今でも「公の宗教と私の
宗教」などという思想に残っています。
自衛官合祀拒否訴訟で最高裁が原告逆転敗訴判決を出した時の
「隊友会にも信教の自由はある」「宗教者には寛容の精神が必要」
という逆立ちした理論の背景にも、個人の内面の「私の宗教」と
それを超えるものとしての「公の宗教」という二重基準が、多くの
日本人に受け入れられているという現実があります。
けれどもそれでは、「信教の自由」は守られないのです。小泉首相
個人の思想の内容に関わらず、国家の指導的立場にある人間が
靖国神社に参拝すること自体、「公の宗教」を推進し個人の権利を
侵害する勢力に利することになるのです。
パフォーマンスが得意な小泉首相なら、自身の行動がどういう影響
を与えるか、分からない筈は無いのですがね。

「日韓論争」に一石

2006年02月18日 23時26分51秒 | 時事・社会
保護領化、銃剣で強制=ロシアで新資料-1905年の日韓協約

【モスクワ16日時事】日露戦争後、日本が韓国の外交権を奪い、朝鮮半島
併合につながった1905年11月の第2次日韓協約は、日本が銃剣の圧力に
より強制したもので、韓国外相のなつ印を日本側が代行したとするロシア
情報機関の機密公電がモスクワの帝国外交資料館で見つかった。
過去の日韓論争では、韓国側が日韓協約は非合法で無効と主張、日本側
は当時の国際法では合法的で有効だとして対立したが、第三国による観察
は論争に一石を投じる可能性がある。この公電はロシアの歴史学者、
ドミトリー・パブロフ無線・電子工科大教授の調査で発見された。
ソウルからの情報を基に、上海の情報拠点からロシア外務省に送られた
公電(05年11月24日付)は、11月17日の協約締結の状況について「14日
から日本軍の多くの歩兵部隊、騎兵隊、砲兵隊が邦人保護を口実に昼夜
ソウルの路上にあふれ、宮殿を包囲した」「伊藤博文特使は将軍や部隊を
引き連れて宮殿に乗り込んだ」と伝えた。
17日の締結に関しては「韓国閣僚が署名に抵抗したため、日本側は強権を
発動。朴斉純外相の自宅に憲兵隊を送り、用意した条約文に署名を強要し
たが、外相が拒むので、日本側が自らなつ印した。伊藤特使は『これで保護
領協定が締結されたと見なす』と宣言した」「高宗皇帝は『条約を認めるなら、
死んだ方がましだ』として拒んだが、日本の憲兵隊は宮殿内にもあふれ、
抵抗できない状況に追い込まれた」としている。 
                       (時事通信) - 2月17日7時1分更新


日露戦争が終わったのが1905年9月5日ですから、終戦直後なのですね。
「竹島併合」は戦争遂行上の必要からなされたようですが、一連の流れの
中で「対露勝利」をてこに一気に事を進めたのでしょう。
(もっとも日露戦争が本当に日本の「勝利」だったかは疑問ですが。)
朝鮮半島の覇権を争った相手の情報ですし、ロシアのスパイが調印の場に
同席できる筈はなく「又聞き」でしょうから、真偽のほどは何とも言えません
が、こうした情報が存在したということ自体、「朝鮮人も日本による統治を
望んでいた」とか「国際社会も韓国併合を認めていた」などという、歴史を
「修正」しようとする人々の主張を突き崩すものといえるでしょう。
こういう「新事実」が出てきたことについて、「後世が明らかにしてくれる」と
歴史認識を明確にすることを避けてきた人たちは何と答えるのでしょうか。

心の問題? その3

2006年02月16日 15時26分05秒 | 時事・社会
憲法第20条「信教の自由」は何故、第19条「思想・良心の自由」とは
別に独立した項目として設けられているのでしょうか。
前回、「戦争遂行の精神的支柱となった国家神道=国家による宗教
統制から国民を解放するために設けられた」と書きました。これはこれ
で大変重要なことで、日本が今後も国際社会において「平和国家」を
標榜して歩んでいくつもりならば、過去の歴史の総括であるこの条文
を外すわけには行きません。
しかしこの条文の意味するところは、それだけに留まりません。

フリー百科事典『ウィキペディア』には「信教の自由」をこう定義づけて
あります。
1.個人が自由に好むところの宗教を信仰し、内面の平穏を保つ権利。
2.そもそも宗教を信仰するかしないかを自由に決める権利。
3.特定の宗教を信仰していたり、していなかったりすることによって、
 いわれのない差別を受けることのない権利。
4.上記の権利を確保するために、国家が特定の宗教について信仰の
 強制・弾圧・過度の推奨などを行う事を禁ずる制度を構築すること。
5.4について、特に政教分離を行うこと。
日本国憲法第20条のモデルとなったアメリカ合衆国憲法修正第1条
は、「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を
禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または
人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する
権利を侵す法律を制定してはならない」となっています。
欧州17世紀における市民革命の多くが宗教的自由の獲得・擁護を
背景とする性格をも持っていたこともありますが、ここにはキリスト教
的人間観・世界観が反映されています。
まず第一に、王権神授説だろうと社会契約説だろうと、国家もまた
神の被造物であるということです。それゆえに国家は人と神の間に
立つことはできません。古代イスラエルは「政教一致」だと言われ
ますが、王(政治)と祭司(宗教)は明確に区別されていましたし、
「さばきつかさ(士師)」の流れを汲む預言者は在野の個人でした。
聖書は、政治が宗教を利用することを認めてはいません。
第二に、「救いはイエス=キリストを救い主と信じる信仰によってのみ
与えられる」ものであるから、それ以上のものを国家が要求すること
は認められません。
そして第三に、自由は神が与えたものであるという理解です。

こう書くと、「日本はキリスト教国ではないから、私はクリスチャンで
はないから、そのような条文は要らない(認めない)」という人も出て
くるでしょう。しかしこれは、欧米社会ではごく一般的な認識です。
共産主義国やイスラム国は別ですが。西側諸国の一員を自認し、
「自由」を広めるために戦争までする国の「盟友」でありながら、
その「自由」を受け入れないのはちょっと虫が良すぎる気がします。
それに、伝統・文化でも悪いものは排除し、良いものは外からでも
積極的に取り入れるのが、本来の文化のあり方ではないでしょうか。
最近、「文明の衝突」ということが盛んに言われ、「寛容な国・日本」
などという自己宣伝もまかり通ってますが、敗戦後こそ米国の陰に
隠れておとなしくしてますが、それまで「衝突」を繰り返してきたのは
どこの国でしたっけ? またそれを止められなかった伝統文化・宗教
の責任はどうなんですかね?(キリスト教会の責任も否定しません。)
だから「信教の自由」は欠かせないのです。
決して「お国のために死んだ者たち」を祀るためではないのです。

心の問題? その2

2006年02月13日 19時54分11秒 | 時事・社会
靖国参拝について小泉首相はしばしば、「小泉にも思想信条の自由、
表現の自由はある」と反論しています。
これを聞いて私は、この人は本当に憲法についても権利についても
全く理解してない人なんだな、と呆れたものですが、この点への明確
な批判にはあまりお目にかかっていません。

「思想・良心の自由」は憲法第19条、「表現の自由」は第21条です。
小泉首相はなぜ、肝心の第20条「信教の自由」を持ち出さないので
しょうか? 「靖国訴訟」において政教分離規定(20条3項)違反を
指摘する判決が出ているので、わざと避けたのでしょうか。それとも
「靖国参拝は宗教行為ではない」と考えているのでしょうか。
「思想・良心の自由」「表現の自由」はいずれも、主として政治的な
権利の保障です。権力者に都合の悪い思想を持つこと、主張をする
ことも認める(弾圧させない)というのが本旨です。もちろんそれだけ
に留まらず、もっと幅広い権利として解釈されていますが、いずれに
せよ、靖国神社参拝がこれらの権利の行使に当たるという主張には
相当無理があります。
小泉首相が意識して(自覚して)避けているのかどうか分かりません
が、日本国憲法の第20条は、単なる権利規定としてだけではなく、
戦争遂行の精神的支柱となった国家神道=国家による宗教統制
から国民を解放するために設けられた条文でもあります。ですから、
たとえ靖国が一宗教法人となり、首相も一個人であると強弁しても、
靖国と政治の蜜月(癒着?)は、憲法の意図するところからは遠い
と言わざるを得ませんし、中韓両国のみならず、アジア各国にも、
米国にも、そして国内の他の宗教の信者にも不快感と警戒心を
抱かせる行為なのです。

また、憲法とは、国民の権利を守るために、国民が国家権力に守ら
せるものです。ここでいう権利とは「少数者=弱者」の権利です。
なぜなら、民主主義社会における権力者は多数者の代表であり、
多数者=強者の権利はわざわざ保障しなくても守られるからです。
もちろん首相も一国民ではありましょう。しかし公的立場にある者の
公私の峻別は極めて困難です。しかも小泉首相自身、公務の合間
に(休暇を取ってではない)、公用車で護衛付きで参拝し、わざわざ
「内閣総理大臣」と肩書き付きで記帳するなど、せめて私人らしく
見せる努力すら怠っているとしか思えません。(それらをやれば認め
られるってわけじゃないですけど。)
そういえば、小泉首相も加わってたかどうかは定かでありませんが、
「ニュースステーション」の久米宏を自民党は目の敵にしてました
よね。あれこそ「思想・良心の自由」「表現の自由」の侵害だと思う
のですが、首相はそのことを反省しているのでしょうか。

心の問題?

2006年02月12日 01時44分22秒 | 時事・社会
小泉首相が「靖国参拝は心の問題」と繰り返すたびに違和感を覚えます。
一つは、多くの人が指摘していますが、彼自身が'01年の総裁選で8月
15日の靖国神社参拝を公約にし、遺族会などを支持基盤としていた橋本
元首相を破ったことに顕著に表われている通り、この問題は政治的要素
を多分に含んだものであるからです。
また、「公人」と「私人」とはそう簡単に峻別できるものではない、という
問題もあります。本人の意識に関わらず、見ている他者がどう受け取るか
というのが大きいですから。「私人」であれば普段言ってることとは違う
「個人的見解」を好き勝手言っても何ら責任を問われないなんてことは
無いですよね?
さらに、首相をはじめ政治家のセンセイ方がこの「心の問題」という言葉を
どういう意味で使っているのか?と考えた時に連想したのが、不祥事や
疑惑が持ち上がるたびに連発される、一つの言葉です。
「政治家の出処進退は、自分で決めることですから。」
一見正論のようですが、総理・党総裁としての見解や責任を問われた時
にもこの言葉しか語らないのは、公的立場にある者の責任問題を本人の
自覚や倫理観の問題にすり替えてごまかす、無責任な態度です。
不祥事や疑惑も「心の問題」なら、彼がこだわる靖国参拝もその類のこと
と捉えることすら可能になります。
そして決定的な点は、「心の問題」であるならば個人の自由であるはず
にも関わらず、「一国の総理が国のために命を捧げた人達に感謝と哀悼
の意を表すのは当然」「日本人ならば自然な感情」だと言わんばかりの
発言を、彼自身も周りの人間も繰り返していることです。
つい先日(1日)も国会で、「それ(中韓両国の批判)に同調する日本人が
大勢いる。私は理解できない」と答弁しています。
靖国については無知で、首相になるまで一度も参拝しなかった人だから
仕方の無いことかも知れませんが、この答弁は全くの事実誤認です。
中韓両国が靖国参拝への抗議を公式に行なったのは'85年が最初です
(と言っても、それまで容認していたのを転換したのではなく、我慢の
限界を超えた、ということです)が、それ以前から国内では靖国を問う
声は少なからずありました。だから、政府・自民党による靖国神社国家
護持の目論見は何度も阻まれてきたのです。外国からの批判をかわす
方便ではなく実際に、ずっと以前から「国内問題」として存在しているの
です。それを無視して、首相の胸三寸で済ませられるような事柄では
ありません。

信教の自由を守る日

2006年02月11日 23時52分48秒 | 時事・社会
2月11日は「建国記念の日」です。「建国記念日」ではない、とのこと
ですが、それならばなぜ2月11日でなければならないのか、はなはだ
疑問です。
まあ、キリスト教会も元は異教徒の祭にも由来する「クリスマス」を
キリスト降誕を祝う日としていますが、昨年12月22日記事「冬至」
書いた通り、それは異文化のキリスト教的再解釈を経てのことです。
「建国神話」の一解釈(しかも計算の正確性にも疑問符が付く)に
基づくかつての「紀元節」を取り入れるのならば、それが「民主国家」
においてどう位置づけできるのか、政府は明確に示す必要があります。
「紀元節」の復活ではない、と強弁するだけでは説明になりません。
現憲法は形式上明治憲法の「改正」であり、明治憲法の制定をもって
「建国」とする、という考え方も一応できるかも知れませんが、1889年
2月11日は公布日であって施行は翌年11月29日なんですよね。
現在の「憲法記念日」が施行日の5月3日であることからすると、この
説は成り立ちません。
そういえば、明治憲法も、現憲法に取って代わられるまでの57年間、
一度も改正されてないんですよね。「欽定憲法」を議会が変えるのは
恐れ多い、というのもあったのかも知れませんが、日本人自らが明治
憲法を「不磨の大典」にして後生大事に持ち続けた歴史を批判する
こと無しに、現在の護憲思想を批判するのは自己矛盾かと思います。
話が大きく逸れましたが、形式上は明治憲法の「改正」でも、実質は
全く新しい憲法の「制定」(人によっては「革命」とまで言います)です
から、いずれにせよ憲法や政治体制との絡みでは、2月11日は全く
根拠を持ちません。
強いて挙げるならば、日本人の好きな「伝統」ということでしょうか。
しかしその「伝統」も本当に古来のものではなく、明治政府が天皇の
威を借りて国民を統治するために創り上げたものに過ぎません。
そして「天孫降臨」神話に基づく国家神道=靖国・護国神社体制が
国民の思想・表現・信教の自由を奪い、戦争遂行の原動力となり、
最後には「亡国」に導いた歴史を省みる時、その安易な復活は厳に
慎むべきだと言わざるを得ません。
キリスト教会は2月11日を「信教の自由を守る日」と定めています。
かつて国家の宗教への介入・支配に屈し、「神道は宗教に非ず」と
いう詭弁を受け入れて国内はもとよりアジア各国の信者に強要し、
戦争に進んで協力した歴史への反省を込めて。