ナショナリズムの問題に触れるたびにいつも思うのは、どうして
相手の立場に立って考えられないのかな?ということです。
ナショナリスト達はしばしば、理屈ではなく情に訴えます。
例えば、防衛問題。「愛する人、家族、ふるさとを守るためだ」と。
国家権力の軍隊組織が、個々人や地域共同体を本当に守るか
の検証はひとまず措くとして、「敵」の立場に立って考えるならば、
彼らにも守るべき家族や故郷があるはずなのです。仮に向こうが
「侵略」してきたとしても、個々の兵士は、国家が掲げる「大義」
を信じてか、命令に嫌々ながら従ってか、侵略するという自覚も
意思も無くやって来るはずです。(過去の日本がそうでしたし。)
歴史問題でも、「自由主義史観」を唱える人達は、過去の国家の
過ちを認める立場を「自虐史観」と呼び、「自分達の国を誇りに
思える教育をすべきだ」と主張しています。しかしその伝で行けば、
自国の暴政は隠して日本の過去の侵略だけを取り上げる某隣国
こそ、理想的教育を行っていることになります。また、「テロ国家」
呼ばわりされている某隣国でも、日本人拉致という過去の「国家
犯罪」を認めて謝罪することは「自虐的」で、すべきでないことに
なってしまいます。
領土問題や資源の問題でも、何が「国益」かを説くことも無く、ただ
「日本人なら日本の国益を第一にすべきだ」と異論を許さない状況
になりつつあります。でも、相手も自国の「国益」しか考えないなら、
どこまで行っても平行線で問題は解決しません。戦争をしたくて
仕方が無いのなら話は別ですが。
相手の立場に立って考えた時にはじめて、相手を納得させられる
ような物言いができると思うのですが。想像力が足りないのかな。
大人たちにこそ「ゆとり教育」が必要かも。
相手の立場に立って考えられないのかな?ということです。
ナショナリスト達はしばしば、理屈ではなく情に訴えます。
例えば、防衛問題。「愛する人、家族、ふるさとを守るためだ」と。
国家権力の軍隊組織が、個々人や地域共同体を本当に守るか
の検証はひとまず措くとして、「敵」の立場に立って考えるならば、
彼らにも守るべき家族や故郷があるはずなのです。仮に向こうが
「侵略」してきたとしても、個々の兵士は、国家が掲げる「大義」
を信じてか、命令に嫌々ながら従ってか、侵略するという自覚も
意思も無くやって来るはずです。(過去の日本がそうでしたし。)
歴史問題でも、「自由主義史観」を唱える人達は、過去の国家の
過ちを認める立場を「自虐史観」と呼び、「自分達の国を誇りに
思える教育をすべきだ」と主張しています。しかしその伝で行けば、
自国の暴政は隠して日本の過去の侵略だけを取り上げる某隣国
こそ、理想的教育を行っていることになります。また、「テロ国家」
呼ばわりされている某隣国でも、日本人拉致という過去の「国家
犯罪」を認めて謝罪することは「自虐的」で、すべきでないことに
なってしまいます。
領土問題や資源の問題でも、何が「国益」かを説くことも無く、ただ
「日本人なら日本の国益を第一にすべきだ」と異論を許さない状況
になりつつあります。でも、相手も自国の「国益」しか考えないなら、
どこまで行っても平行線で問題は解決しません。戦争をしたくて
仕方が無いのなら話は別ですが。
相手の立場に立って考えた時にはじめて、相手を納得させられる
ような物言いができると思うのですが。想像力が足りないのかな。
大人たちにこそ「ゆとり教育」が必要かも。