竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

77回目の終戦記念日

2022年08月15日 | 日本の歴史
令和4年8月15日(月)
お早うございます。

今日は8月15日終戦記念日です。

昭和20年8月15日より77年が経過いたしました。
戦争を体験した人が少なくなっていく中、国と国が争い、人と人とが殺しあう太平洋戦争が風化しつつある中で、戦後生まれの私たち一人ひとりが常に、「平和の尊さ、命の大切さ」を認識し、戦争がいかに多くの悲しみをもたらすかを、語り継いでいくことが必要と考えます。
あらためて、永遠の平和を願いたいと思いました。

クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した。続き!
 東部軍管区司令官の田中静壱(しずいち)が自ら鎮圧に乗り出したのは、夜が白々と明けた頃だった。
午前5時過ぎ、近衛歩兵第1連隊に車で乗りつけた田中は、クーデター計画に関与した石原貞吉少佐を憲兵隊に拘束させると、決起将校らの直属の上官だった近衛歩兵第2連隊長の芳賀豊次郎に対し、「当面は俺自身が近衛師団の指揮をとる。
貴官は直ちに現態勢を解除して原態勢に復帰させ、守衛任務を遂行せよ。
お詫び言上のため(皇居の)御文庫へ伺候したいので案内せよ」と命じた。

 一方、首謀者の畑中健二少佐は最後の手段として、クーデター部隊の一部が占拠した東京・内幸町の放送会館に乗り込み、日本放送協会(NHK)報道部の柳沢恭雄副部長に拳銃を突きつけた。

「決起の趣旨を訴えたい。放送させよ。さもなければ撃つ」
だが、柳沢は無言のまま動かなかった。
ここに畑中も決起の終末を知る。
午前7時、畑中は近衛師団の宮城内守衛隊司令官室に行き、自ら殺害した森赳師団長に宛てた遺書を芳賀に提出した。

 森閣下 霊前ニ
 陛下ノ為 誠ニ申シ訳ナキ コトヲ致シマシタ トウカ オ許シ下サイ アノ世テ 必ス 御詫ヒイタシマス

 畑中が自決したのは午前11時過ぎ、皇居前の芝生の上で腹を切り、森を撃った拳銃で自らの頭を撃ち抜いた。
同じ場所で首謀者の一人、椎崎二郎中佐も軍刀を腹に突き刺し、拳銃で自決した。

宮城事件には東条英機元首相の女婿、古賀秀正少佐も深く関わっていた。
古賀は皇居賢所(かしこどころ)に土下座して礼拝した後、部下の一人に「若い者は死ぬな。全責任は俺が負う」と言ったと伝えられる。
その後、森の遺骨が安置されている近衛師団司令部の貴賓室へ行き、割腹の上、とどめの拳銃の引き金をひいた。

昭和天皇が宮城事件の顛末(てんまつ)を知ったのは、夜が明けてからだった。

《侍従武官長蓮沼蕃(しげる)は東部軍管区司令官と同道、御文庫に参殿、七時三十五分に単独にて拝謁し、事件の経過並びにその鎮圧につき奏上する。
八時、天皇は侍従長藤田尚徳(ひさのり)をお召しになり事件の発生を嘆かれる》

 この日、快晴。

 正午がゆっくり近づいていた--。

1945年8月15日終戦


日本中を飛び回られた昭和天皇陛下
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