令和4年2月10日(木)
お早うございます。
今日は「元GHQ エアーズ大佐の貢献 その2」を掲載いたします。
<エアーズ大佐の略 歴>
ハワード・エアーズは、1899年(明治32年)7月26日 米インディアナ州コロンバ スで父トーマス・エアーズ母メアリー・エリザベス・エアーズの第四子、 三男として生まれた。
いくつかの小学校・中学校を経て、1917年6月インディアナ州マーチンスピルのマーチンスピル・ハイスクールを卒業。
1917年秋にパデュー大学 の機械工学科一年に入学。
1919~21年機械工学(鋳造)講師を務める。
1921年アカデミックな研究に戻り、1925年1月に機械工学士、6月に 電気工学士、8月に機械工学士修士号をそれぞれパデュー大学から授与されるが、おそらくパデュー大学で空前絶後の短期間の学位取得記録である。
1952年夏に琉球列島の米軍民政府の為に作成した、琉球政府が新しく建 設中の沖縄全島電力網 (琉球政府を財政的に助ける米国政府の贈り物の一つ) の電力事業に適用する電気料金体系を決める為の調査・報告書に基づき、この 調査(建設・資金調達・運営費用についてそれ以前に現地で何の基礎もないと いう極めてまれな環境下で行われた)を学位論文にまとめ直し、それにより1956年6月パデュー大学から電機工学のプロフェッショナル・デグリーの称号を受ける。
(専門職学位(せんもんしょくがくい、英: Professional degree プロフェッショナル・ディグリー)とは、
日本においては、専門職短期大学若しくは専門職大学を卒業した者、専門職大学の前期課程を修了した者、又は専門職大学院の課程を修了した者に授与される学位である。
とくに、専門職大学院が授与する専門職学位は、通常の大学院の課程で研究業績に対して授与される「修士」と同等とされる。)
学生時代は、パデュー大学予備役訓練隊(ROTC)の熱心な隊員だった。
(予備役将校訓練課程(よびえきしょうこうくんれんかてい、英: Reserve Officers' Training Corps, ROTC)は、主に大学に設置された、陸海空軍および海兵隊の将校を養成するための教育課程のこと。予備役将校養成課程、予備役将校訓練団、予備役将校訓練部隊、予備役士官訓練課程とも。)
海軍ROTC卒業生の士官任命式
1918年5月にはイリノイ州フィートシェライダンのROTC夏季キャン プに参加した。
1918年9月9日付でパデュー大陸軍 (学生陸軍訓練隊-S ATC)に民間人として志願入隊、
1918年12月12日に名誉除隊。
大学三年で上級ROTCに入隊していたため、四年生の一学期にはパデュー大学の学生旅団司令(見習上級大佐)を務めた。
1924年6月パデュー大米陸軍予備将校団(ORC)野砲科少尉に任命。
その後も引き続き積極的にORCの訓練計画に参加し、最も訓練度の高い予備士官となり、世界の軍事情勢が厳しさを増してきたことに伴い、1940年 12月には少佐として現役勤務を命ぜられ、パデュー大学軍事科副官に任命。
1942年7月中佐に昇進、勤務先(第二軍本部)では戦車砲旅団副団長(本 部所在地はテネシー州キャンプホレスト)と同旅団のメンフィス二軍連絡将校 を兼任した。
1943年11月アラバマ州ラッキー基地に第806戦車砲大隊長として赴任を命ぜられ、同大隊の北アフリカ派遣準備に当たる。
北アフリカの作戦の終了により、戦車砲部隊の必要もなくなった。
少佐は旅団やタスクフォースにおいて主席幕僚を務める。
中佐は上級曹長や先任曹長の補佐を受けつつ大隊級部隊(300 - 1,000人程度)の指揮官を務めることが多いほか、旅団やタスクフォースにおける次席指揮官を務めることもある。
大佐は最上級曹長の補佐を受けつつ旅団級部隊(3,000 - 5,000 人程度)の指揮官を務めることが多いほか、師団級部隊の参謀長を務めることもある。中佐に対する省略した敬称として、大佐と同様の「カーネル」(Colonel)が使われることもある。
大佐の階級章は1832年、中佐および少佐の階級章は1836年に制定された。
蒲郡市三谷町弘法山に所在する、喫茶「Hill Top ヒルトップ」 内にある、
元GHQ エアーズ大佐・感謝記念館
次回へつづく!
お早うございます。
今日は「元GHQ エアーズ大佐の貢献 その2」を掲載いたします。
<エアーズ大佐の略 歴>
ハワード・エアーズは、1899年(明治32年)7月26日 米インディアナ州コロンバ スで父トーマス・エアーズ母メアリー・エリザベス・エアーズの第四子、 三男として生まれた。
いくつかの小学校・中学校を経て、1917年6月インディアナ州マーチンスピルのマーチンスピル・ハイスクールを卒業。
1917年秋にパデュー大学 の機械工学科一年に入学。
1919~21年機械工学(鋳造)講師を務める。
1921年アカデミックな研究に戻り、1925年1月に機械工学士、6月に 電気工学士、8月に機械工学士修士号をそれぞれパデュー大学から授与されるが、おそらくパデュー大学で空前絶後の短期間の学位取得記録である。
1952年夏に琉球列島の米軍民政府の為に作成した、琉球政府が新しく建 設中の沖縄全島電力網 (琉球政府を財政的に助ける米国政府の贈り物の一つ) の電力事業に適用する電気料金体系を決める為の調査・報告書に基づき、この 調査(建設・資金調達・運営費用についてそれ以前に現地で何の基礎もないと いう極めてまれな環境下で行われた)を学位論文にまとめ直し、それにより1956年6月パデュー大学から電機工学のプロフェッショナル・デグリーの称号を受ける。
(専門職学位(せんもんしょくがくい、英: Professional degree プロフェッショナル・ディグリー)とは、
日本においては、専門職短期大学若しくは専門職大学を卒業した者、専門職大学の前期課程を修了した者、又は専門職大学院の課程を修了した者に授与される学位である。
とくに、専門職大学院が授与する専門職学位は、通常の大学院の課程で研究業績に対して授与される「修士」と同等とされる。)
学生時代は、パデュー大学予備役訓練隊(ROTC)の熱心な隊員だった。
(予備役将校訓練課程(よびえきしょうこうくんれんかてい、英: Reserve Officers' Training Corps, ROTC)は、主に大学に設置された、陸海空軍および海兵隊の将校を養成するための教育課程のこと。予備役将校養成課程、予備役将校訓練団、予備役将校訓練部隊、予備役士官訓練課程とも。)
海軍ROTC卒業生の士官任命式
1918年5月にはイリノイ州フィートシェライダンのROTC夏季キャン プに参加した。
1918年9月9日付でパデュー大陸軍 (学生陸軍訓練隊-S ATC)に民間人として志願入隊、
1918年12月12日に名誉除隊。
大学三年で上級ROTCに入隊していたため、四年生の一学期にはパデュー大学の学生旅団司令(見習上級大佐)を務めた。
1924年6月パデュー大米陸軍予備将校団(ORC)野砲科少尉に任命。
その後も引き続き積極的にORCの訓練計画に参加し、最も訓練度の高い予備士官となり、世界の軍事情勢が厳しさを増してきたことに伴い、1940年 12月には少佐として現役勤務を命ぜられ、パデュー大学軍事科副官に任命。
1942年7月中佐に昇進、勤務先(第二軍本部)では戦車砲旅団副団長(本 部所在地はテネシー州キャンプホレスト)と同旅団のメンフィス二軍連絡将校 を兼任した。
1943年11月アラバマ州ラッキー基地に第806戦車砲大隊長として赴任を命ぜられ、同大隊の北アフリカ派遣準備に当たる。
北アフリカの作戦の終了により、戦車砲部隊の必要もなくなった。
少佐は旅団やタスクフォースにおいて主席幕僚を務める。
中佐は上級曹長や先任曹長の補佐を受けつつ大隊級部隊(300 - 1,000人程度)の指揮官を務めることが多いほか、旅団やタスクフォースにおける次席指揮官を務めることもある。
大佐は最上級曹長の補佐を受けつつ旅団級部隊(3,000 - 5,000 人程度)の指揮官を務めることが多いほか、師団級部隊の参謀長を務めることもある。中佐に対する省略した敬称として、大佐と同様の「カーネル」(Colonel)が使われることもある。
大佐の階級章は1832年、中佐および少佐の階級章は1836年に制定された。
蒲郡市三谷町弘法山に所在する、喫茶「Hill Top ヒルトップ」 内にある、
元GHQ エアーズ大佐・感謝記念館
次回へつづく!
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