令和4年11月23日(水)
お早うございます。
さて今日は11月3日に開催された、
「第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム」の続きを紹介いたします。

実は、「武田氏と徐福伝説」を制作した後、聖徳太子の特集をまとめることになり、出雲の取材を経て、日本海側には秦の末裔が国を作っていた可能性に対して、納得させられる遺跡などを沢山見てきました。
そんな中、様々なテーマの取材を重ねる内に、どうしても蒲郡を含む東三河全体のことを知りたくなったのです。
それは徐福が渡来したという可能性ももちろんですが、『古事記』や『日本書紀』にある、「葦原中国」があった場所ではないかという疑問が生じたからです。
地学の観点から海流を考えた時、当時の船が帆船だとすると、徐福が大陸に戻らないとしたのなら、戻りの海流がない海域を選んだでしょう。

もちろんこれまで、このような話を聞いたことはありません。
なので、僕らとしても賭けではありました。
三ヶ月に1度の雑誌ですので、取材によって得られた可能性が想像とまるで違えば、特集そのものを変えなくてはいけないからです。
しかし、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』は、共に大海人皇子(おおあまのおうじ)が「天武天皇」になった時代から編纂が始まっています。
突拍子もないように感じられるかもしれませんが、これまでの取材から出雲は秦が倭に融合した場所で、斉と倭は東三河で融合したが戦いに敗れ、斉王が伊勢神宮に封(ほう)じられたという歴史に見えました。
そうすると、『万葉集』にある711年に伊勢斎宮(いせのさいぐう)に派遣された長田王(おさだおう)とは、その字のままに、徐福が連れ出したという、斉の王の末裔に思えます。

それらの話を深く考える為にも、東三河にかつてあったという「穂の国」を知らなくてはいけないと思いました。
そして、穂の国を知るためには東三河全体を知らなくてはいけません。
しかし、僕らはよそ者ですし『中國紀行CKRM』という名前ですから、どうして中国の雑誌がそんな取材をしているの?と怪しまれることもよくあります。
そんな中、力を貸してくださったのが、蒲郡市議会議員の竹内しげやすさんと、蒲郡市議会議長の稲吉ひろのりさんでした。
彼らが全ての市町村の方々に渡りをつけてくださらなければ、東三河の全ての市町村を10日で取材し、このような特集をまとめることはできませんでした。
この特集号が完成したのは、日本と中国の友好的な文化交流の賜物だと思います。
これが、今回取材させて頂いた地域の中で、掲載させて頂きました一部です。

東三河の最北端にある豊根村は、天竜川沿いの地域です。
長野県の諏訪湖を源流とする天竜川は、東西の文化の境界線といわれることもあります。
豊根村より少し南に行ったところで、天竜川は静岡県側に曲がっているのですが、これは中央構造線という特殊な地帯に沿った流れとなっています。
天竜川の本流とは逆に流れる支流の大千瀬川(おおちせがわ)を追っていくと、豊川の支流である字連川(うれがわ)にぶつかり、豊川沿いに中央構造線はのびていきます。
川の名が違うのでわかりにくいかもしれませんが、これは一つの線として繋がっているのです。
中央構造線上の地域は、実に特殊です。だからこそ、この地域の自然環境を理解するため、多くの修験者が集まっていたのかもしれません。
次回へ続く!
お早うございます。
さて今日は11月3日に開催された、
「第1回 蒲郡市の歴史観光を探るシンポジウム」の続きを紹介いたします。

実は、「武田氏と徐福伝説」を制作した後、聖徳太子の特集をまとめることになり、出雲の取材を経て、日本海側には秦の末裔が国を作っていた可能性に対して、納得させられる遺跡などを沢山見てきました。
そんな中、様々なテーマの取材を重ねる内に、どうしても蒲郡を含む東三河全体のことを知りたくなったのです。
それは徐福が渡来したという可能性ももちろんですが、『古事記』や『日本書紀』にある、「葦原中国」があった場所ではないかという疑問が生じたからです。
地学の観点から海流を考えた時、当時の船が帆船だとすると、徐福が大陸に戻らないとしたのなら、戻りの海流がない海域を選んだでしょう。

もちろんこれまで、このような話を聞いたことはありません。
なので、僕らとしても賭けではありました。
三ヶ月に1度の雑誌ですので、取材によって得られた可能性が想像とまるで違えば、特集そのものを変えなくてはいけないからです。
しかし、712年の『古事記』と720年の『日本書紀』は、共に大海人皇子(おおあまのおうじ)が「天武天皇」になった時代から編纂が始まっています。
突拍子もないように感じられるかもしれませんが、これまでの取材から出雲は秦が倭に融合した場所で、斉と倭は東三河で融合したが戦いに敗れ、斉王が伊勢神宮に封(ほう)じられたという歴史に見えました。
そうすると、『万葉集』にある711年に伊勢斎宮(いせのさいぐう)に派遣された長田王(おさだおう)とは、その字のままに、徐福が連れ出したという、斉の王の末裔に思えます。

それらの話を深く考える為にも、東三河にかつてあったという「穂の国」を知らなくてはいけないと思いました。
そして、穂の国を知るためには東三河全体を知らなくてはいけません。
しかし、僕らはよそ者ですし『中國紀行CKRM』という名前ですから、どうして中国の雑誌がそんな取材をしているの?と怪しまれることもよくあります。
そんな中、力を貸してくださったのが、蒲郡市議会議員の竹内しげやすさんと、蒲郡市議会議長の稲吉ひろのりさんでした。
彼らが全ての市町村の方々に渡りをつけてくださらなければ、東三河の全ての市町村を10日で取材し、このような特集をまとめることはできませんでした。
この特集号が完成したのは、日本と中国の友好的な文化交流の賜物だと思います。
これが、今回取材させて頂いた地域の中で、掲載させて頂きました一部です。

東三河の最北端にある豊根村は、天竜川沿いの地域です。
長野県の諏訪湖を源流とする天竜川は、東西の文化の境界線といわれることもあります。
豊根村より少し南に行ったところで、天竜川は静岡県側に曲がっているのですが、これは中央構造線という特殊な地帯に沿った流れとなっています。
天竜川の本流とは逆に流れる支流の大千瀬川(おおちせがわ)を追っていくと、豊川の支流である字連川(うれがわ)にぶつかり、豊川沿いに中央構造線はのびていきます。
川の名が違うのでわかりにくいかもしれませんが、これは一つの線として繋がっているのです。
中央構造線上の地域は、実に特殊です。だからこそ、この地域の自然環境を理解するため、多くの修験者が集まっていたのかもしれません。
次回へ続く!