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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

元GHQ エアーズ大佐の貢献 (その3)

2022年02月16日 | 元GHQ エアーズ大佐の貢献
令和4年2月16日(木)
お早うございます。

今日は「元GHQ エアーズ大佐の貢献 その3」を掲載いたします。

<エアーズ大佐の略歴>つづき
1944年2月陸軍省の命令によりメリーランド州ボルチモアの第三補給本部勤務、軍事訓練局長となる。1944年大佐に昇進。(第三補給司令部は、 少将が司令長官となり、ペンシルベニア、メリーランド、バージニアの三州の 全非戦闘部隊の訓練と管理に責任を持つ国内組織上の管区である)。
1944年夏から秋にかけて米国に送られてきた捕虜(POW)の数が急増 し、第三補給司令部の新しい問題となった。
このため彼は、1944年10月第三補給司令本部捕虜対策部長に転補された。
米国は1944年と45年に労働力が極端に不足し「樽の底までさらう」 状態に陥っていたので、捕虜にも機会が与えられた。
第三補給司令部には約5, 500人のイタリア人が連合軍との共同戦争参加国となった時点で、これらイ タリア人捕虜はイタリア人捕虜部隊に編制され、米国内で非戦闘部隊に携わった。
ドイツ人の志願した捕虜は面談の上、各自の技能と経験により分類された。
その後彼らに仕事が提供された。彼らのドイツ人給与は一日約10セントに相当した。
彼らが労働した場合これに一日80セントが加付された(ジュネー ブ協定に従った措置)。
しかし、米国人業者が捕虜労働者を使用した場合には、 その業者はその地方でそれと同等の労働に普通支払っている賃金を米政府に納めなければならない。
この普通の賃金が日給4.50ドルから6.00ドル だった。
80セントとこの普通賃金との差額が米政府の所得となる。
当時第三補給司令の下には1万7000人のドイツ人捕虜がいたのでエアーズ大佐が米政府の収入に加えたこの利益は一月当たり100万ドル弱に達した。
1945年1月、彼はペンシルベニア州インディアナタウン峡谷軍用保留地 の陸軍補給部隊訓練センター隊長に移された。
同部隊では約4,500人の有色(黒人)応募兵が港湾(沖仲士)隊と補給隊の訓練を受けていた。
この間に 欧州での戦争終結した(欧州戦勝記念)。

群集にVサインを掲げるチャーチル首相(ロンドン、1945年5月8日)


群集にVサインを掲げるチャーチル首相(ロンドン、1945年5月8日)

 1945年5月8日、第二次世界大戦でナチス・ドイツが降伏文書に署名し、欧州における第二次世界大戦が終わった日。
太平洋戦争での日本軍の抵抗はこの時点でまだ続いているので、あくまでも欧州においての戦勝記念日となる。
ソ連軍によって包囲されたベルリンは陥落し、亡きヒトラーに代わりカール・デーニッツ海軍元帥が設立した臨時政府、フレンスブルク政府は国防軍に署名の許可を与え、5月8日、ベルリンで無条件降伏を受け入れた。
降伏文書調印が成立してからも、各戦線での降伏には時間差があり、最終的に欧州内での戦いが幕を閉じたのは同11日のプラハの戦いであった。


(左)左からスターリン、チャーチル、ルーズベルトの顔と
「United for Victory」と描かれた記念マグカップ 
(右)喜びにあふれ、ローリーに乗り込む大量の人々


三谷祭 海中渡御 平成26年10月26日撮影

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元GHQ エアーズ大佐の貢献 (その2)

2022年02月10日 | 元GHQ エアーズ大佐の貢献
令和4年2月10日(木)
お早うございます。

今日は「元GHQ エアーズ大佐の貢献 その2」を掲載いたします。

<エアーズ大佐の略 歴>
 ハワード・エアーズは、1899年(明治32年)7月26日 米インディアナ州コロンバ スで父トーマス・エアーズ母メアリー・エリザベス・エアーズの第四子、 三男として生まれた。
いくつかの小学校・中学校を経て、1917年6月インディアナ州マーチンスピルのマーチンスピル・ハイスクールを卒業。
1917年秋にパデュー大学 の機械工学科一年に入学。
1919~21年機械工学(鋳造)講師を務める。
1921年アカデミックな研究に戻り、1925年1月に機械工学士、6月に 電気工学士、8月に機械工学士修士号をそれぞれパデュー大学から授与されるが、おそらくパデュー大学で空前絶後の短期間の学位取得記録である。
1952年夏に琉球列島の米軍民政府の為に作成した、琉球政府が新しく建 設中の沖縄全島電力網 (琉球政府を財政的に助ける米国政府の贈り物の一つ) の電力事業に適用する電気料金体系を決める為の調査・報告書に基づき、この 調査(建設・資金調達・運営費用についてそれ以前に現地で何の基礎もないと いう極めてまれな環境下で行われた)を学位論文にまとめ直し、それにより1956年6月パデュー大学から電機工学のプロフェッショナル・デグリーの称号を受ける。
(専門職学位(せんもんしょくがくい、英: Professional degree プロフェッショナル・ディグリー)とは、
日本においては、専門職短期大学若しくは専門職大学を卒業した者、専門職大学の前期課程を修了した者、又は専門職大学院の課程を修了した者に授与される学位である。
とくに、専門職大学院が授与する専門職学位は、通常の大学院の課程で研究業績に対して授与される「修士」と同等とされる。)

学生時代は、パデュー大学予備役訓練隊(ROTC)の熱心な隊員だった。
(予備役将校訓練課程(よびえきしょうこうくんれんかてい、英: Reserve Officers' Training Corps, ROTC)は、主に大学に設置された、陸海空軍および海兵隊の将校を養成するための教育課程のこと。予備役将校養成課程、予備役将校訓練団、予備役将校訓練部隊、予備役士官訓練課程とも。)

海軍ROTC卒業生の士官任命式

1918年5月にはイリノイ州フィートシェライダンのROTC夏季キャン プに参加した。
1918年9月9日付でパデュー大陸軍 (学生陸軍訓練隊-S ATC)に民間人として志願入隊、
1918年12月12日に名誉除隊。
大学三年で上級ROTCに入隊していたため、四年生の一学期にはパデュー大学の学生旅団司令(見習上級大佐)を務めた。
1924年6月パデュー大米陸軍予備将校団(ORC)野砲科少尉に任命。
その後も引き続き積極的にORCの訓練計画に参加し、最も訓練度の高い予備士官となり、世界の軍事情勢が厳しさを増してきたことに伴い、1940年 12月には少佐として現役勤務を命ぜられ、パデュー大学軍事科副官に任命。
1942年7月中佐に昇進、勤務先(第二軍本部)では戦車砲旅団副団長(本 部所在地はテネシー州キャンプホレスト)と同旅団のメンフィス二軍連絡将校 を兼任した。
1943年11月アラバマ州ラッキー基地に第806戦車砲大隊長として赴任を命ぜられ、同大隊の北アフリカ派遣準備に当たる。
北アフリカの作戦の終了により、戦車砲部隊の必要もなくなった。

少佐は旅団やタスクフォースにおいて主席幕僚を務める。
中佐は上級曹長や先任曹長の補佐を受けつつ大隊級部隊(300 - 1,000人程度)の指揮官を務めることが多いほか、旅団やタスクフォースにおける次席指揮官を務めることもある。
大佐は最上級曹長の補佐を受けつつ旅団級部隊(3,000 - 5,000 人程度)の指揮官を務めることが多いほか、師団級部隊の参謀長を務めることもある。中佐に対する省略した敬称として、大佐と同様の「カーネル」(Colonel)が使われることもある。
大佐の階級章は1832年、中佐および少佐の階級章は1836年に制定された。

蒲郡市三谷町弘法山に所在する、喫茶「Hill Top ヒルトップ」 内にある、
元GHQ エアーズ大佐・感謝記念館

次回へつづく!

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元GHQ エアーズ大佐の貢献 (その1)

2022年02月07日 | 元GHQ エアーズ大佐の貢献
令和4年2月7日(月)
お早うございます。

戦後の日本の電力事業に多大の貢献をされた、「元GHQ エアーズ大佐」について、
長田理さんの資料を元に、細井達男さんが編集された、
「GHQ-エアーズ大佐 日本電力のツァーと呼ばれた男」を基に、
私、竹内しげやすのブログで紹介していきたいと思います。
今回は、エアーズ大佐について紹介いたします。

<エアーズ大佐>
 エアーズ大佐とは戦後の日本の驚異的復興のもととなる日本の電力の復興発展に貢献した、GHQの大佐です。
1983年(昭和58年)、日本国政府より勲三等旭日章を遅ればせながら受勲することになります。
この時ちょっとした偶然からエアーズ大佐のことを知り東奔西走して受勲にまでこぎつけたのが蒲郡市在住の長田理(おさだ おさむ)氏です。

1983年受勲来日時長田氏宅にて
(前列左より長田理、その妻、エアーズ大佐、その妻サラ 後列エアーズ大佐家族、左端より長男夫妻一人飛んで孫、次男ジョン 飛んで長女パトリシア)


1983年受勲来日時長田氏宅(ヒルトップ)にて


エアーズ大佐の家族
The Ayers Family at Home
907 State Street
Rafayette Indiana 47905

Seated;
Mr. Howard Ayers (本人)
Sarah B. Hege Ayers(妻)

From left the three children
John R. Ayers (二男)
Patricia Ayers Gallucci(長女)
Howard Ayers Jr. (長男)

終戦直後の日本の状況
 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾して連合国に対して無条件降伏した。
8月30日にマッカーサーが連合軍最高司令官として厚木飛行場に到着して以来、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約締結までの間、日本は連合軍の占領下に置かれる。
連合国による占領とは言え事実上はアメリカ一国による占領といっても過言ではない。

当時の朝日新聞東京本社版(1945年8月31日付)によると、厚木に到着したマッカーサーはこう語ったという。

 メルボルンから東京までは長い道のりだった。
長い長いそして困難な道だった。
しかしこれで万事終わったようだ。
各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、日本軍は続々降伏している。
この地区(東京地区か)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。
日本側は非常に誠意を以てことに当たっているようで、不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであろうことを期待する。

次回へつづく!














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