夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

民主党のマニフェスト

2009-09-30 10:27:09 | Weblog
中国に「上に政策有れば下に対策あり」の言葉がある。共産主義の主張華やかなりし頃流行った言葉である。
政策の振れは、国民に多大の犠牲をもたらす。よき政策が振れずにそのまま行われるのが望ましいが、時代は変化し、また人は判断を誤る。小泉元首相、竹中経済担当相の時行われたことに今痛いほど煮え湯を飲まされている。私達は耳障りのよい言葉に騙された。
さて民主党政権、マニフェストを厳守しようと言う態度は評価したい。しかし、巧遅拙速、どちらに力点を置くかである。巧遅で行くか、拙速で行くか?私は行政は原則は巧遅であるべきと思っている。行政の影響は大きい。その失政は時間が立ってじんわりと効いてくる。
確かに検討されたマニフェストであろう。が、自民党のすることへの対案として出来た面も否めない。その面で、実際の行政という面でまだまだ不充分である。金もないのにあれもやる、これもやる。無駄遣いは止める。しかし、本当の意味でのムダなどごく僅かであろう。要るものの取捨選択が実際である。
マニフェストは守るべき事、しかし、マニフェストが間違っていることもある。実務と照らし合わせて、マニフェストを精査しながら約束を守る努力をする。マニフェストは結論ではない。マニフェストはよき政策を行うためのツールである。実務に合わせて精査し場合によっては方向転換もある。私達にそこのところをきちんと説明する。それが雅量というものである。始めにマニフェストありき、墨守するというのでは国を再び過つであろう。

天下り40ポスト凍結

2009-09-30 09:40:50 | Weblog
民主党内閣が打ち出した天下りポスト凍結はマニフェスト通りであり評判もよい。天下りできなくなった公務員への対応はこれから検討するという。
日本の公務員制度の精緻さは日本人が農耕民族故である。アメリカのそれの粗放さは狩猟民族故である。植物を育ててみると、少しずつ間引いてやらないと大きく育たない。大きく育てるためには間引きが必要悪である。天下り、待遇に着目すれば天下りであるが、組織としての機能に着目すれば間引きである。組織にはそれなりの志操堅固なエリートを育てる必要がある。そこででてきた間引きである。勿論、社会の安定のためには鳩山氏の出自のように門閥に発するエリートという考え方もある。試験制度をベースにした間引きと同様一つのそれも選択肢であろう。
この様な間引き或いは天下りは組織の必要性から民間でも広く行われている。生活で困らないので断る人もいるが、50を過ぎたら間引きの対象、肩たたきの対象となる。子会社に行く、取引先に引き取って貰う。よく天下り非難をするマスコミ各社にあっても同様のことが行われている。定年直前に転職した人達を追いかければ自明であろう。
官民問わずその機能は同じである。やっかみからする議論は、組織の健全性を失って、最後は国民に返ることになる。
私は、天下り先の組織が果たして今必要なのか、単なる盲腸になっていないか、また天下りする人の処遇は妥当なのか、もっといい人材が居たときにどうするのか、そんなことの見直しをやって貰いたい。組織の特質を踏まえない政策は不毛であり、結局は余分な国民負担となる。

野田 由美子横浜副市長の辞任

2009-09-30 09:19:17 | Weblog
この方は、横浜開国博の失敗を取って辞任した。副市長のあり方として潔い。しかし、この辞任は二つのことを教えてくれる。
残念ながら行政などの実務に当たる女性の層がまだまだ薄いと言うことである。もうお名前を失念したが鳴り物入りで誕生したダイエー、サンヨーの女性もそうであった。彼女たちに共通することはおよそ実務とは関係ないところで華々しかったということであろうか。起業家の成功は女性の方が男性よりも確率がよい。これは、地に足がついた起業、行動をするからであろう。しかしながら大規模組織となるとまだまだ経験を踏んだ人材が乏しいと言うことであろう。これから育っていくと言うことであろう。
次ぎに男女を問わずの問題になるが、民間に役所で活躍できる人材が少ないと言うことであろう。面白いことを言う人が居る。ハッとするようなことを言う人がいる。分かり易い。なるほどと思う。しかし、いざ実務で試されると現実的でない。夢物語であった。そんな事に気づかされる。
この二つのことを考えれば、副市長の辞任は横浜市民の税金の無駄遣い故であったろうし、中田前市長も責任を痛感すべきかも知れない。横浜市民も分かり易い、耳障りのよい言葉で語られる非現実に目を向けるべきであったかも知れない。この問題、用心しないと新しく誕生した民主党内閣にも当てはまるかも知れない。

時効制度

2009-09-29 12:17:41 | Weblog
この主張をめぐる議論、どこか勘違いがあるのではないか?
時効は人を無罪にすると言うことではない。まして、罪が消えることでもない。
飲み屋の付けが時間の経過とともに、訳のわからぬものとなって、請求を諦めると言うようなものである。飲み屋の付けと殺人事件などを一緒にするのは不謹慎かも知れない。しかし、時間の経過は、同じようなものであろう。
捜査に当たる警察官も時効を目指して頑張ってきた。この期間の間に解決すること、事件が難しければ難しいほど、時効の完成までにと努力してきたであろう。
逃げおおせる犯人、それはそれで悔しい。遺族であればなおさらそうであろう。
ここで考えを致せば、想像をたくましくすれば、時効を延長してどのような効果があるであろうか?単なる時効という法制度をいじくれば、治安はよくなるか?逮捕が増えるか?犯人に心落ち着かぬ日を与える効果はあるかも知れない。
アメリカのように時効はないとして、これが50州全部でそうなのかは知らないが、検挙率の様な数字は日本よりはるかに低い。
未解決、無念である。だから時効をのばせと言うのはいささか乱暴な議論のような気がする。解決し得ない難事件をいたずらに増やせば、日本もアメリカ同様実際の解決は更に減るであろう。悔しいが諦める、それも合理的な法制度である。制度は感情も大切だがもっと大切なのは実効である。
感情だけで決心するなら、制度は制度であることを失う。倫理と、罪は罪という問題と制度の問題とを一括りにする危険を感じる。

大都市も疲弊している。

2009-09-26 09:59:38 | Weblog
地方都市の疲弊が言われて久しい。ことは地方だけであろうか?
時代はどんどん変わっている。東京でも、昔賑やかであったところが、駅前にあった商店街がさびれていることがある。あちらこちらで、昔幸せ一杯に人々が暮らしたであろうアパートが朽ちていることがある。これは一体どういう事であろうか?
再開発された丸の内、これをさびれてきたとは言わないであろう。しかし、これは駅前のさびれと無関係では無かろう。地方の衰えとも無関係では無かろう。
ほんの一部が繁栄し、多くが衰退する。ニューヨークの金融が栄えて、世界の産業が偏差する。このグローバルな動きが、コアというもの、核というもの、或いはハブというものの変化をもたらしている。
繁栄は悪いことではない。しかし、偏在という現象が起きるなら、例えば飢えと飽食が両立するなら、私達は何らかの次の一手を考える必要がある。
都市の問題が地方に限らず新しい問題として浮上してきている。

農業政策の難しさ。

2009-09-25 09:59:55 | Weblog
農業政策を国が行う農業政策にとどまらず、私達が農業に如何に向き合うかという広い意味で考える。
現在農業政策で支持されている主要な主張は「グローバリゼイションの中での国際競争力の強化、従って大規模粗放化」と言うことであろう。経営視点からする国際競争力のある農家である。
農業は、農家にとっては生活の手段である。だから農家の生活を考える。この故に今までの補助金があった。環境問題でもあろう。住みやすい国土、美しい景観、これらは田舎だけではなく、都市近郊でもあって欲しい。落ち着き伸びやかなご近所というものは国民の財産であろう。また水田の保水力などは災害に備える手段としても機能する。食糧の問題でもある。安全でおいしいものを食べるのは、身体に一番良いものを食べることは、私達の健康な生活に大いに役立つものであろう。
ところで、今顕彰される農家を見れば、経営規模を拡大する農家である。経営の視点でするサクセスストーリーである。宮崎のマンゴーのような贅沢品、贈答品、また一部地域に特化したスーパーで売られる野菜である。経営としての成功事例である。
これらの一部の例が、しかし、本当に私達の必要な農業なのか疑問である。農家の生活という点では、その条件を満たしている。産業としての農業が存続するという点で十分であろう。この為に、農林水産省や多くの有識者が大規模化や付加価値を上げることを唱道してきた。しかし、事はそれほど簡単なことではない。
ひとたび美しい国土に思いを致すとき、今の、本当の意味での最大多数の農家が普通に農業を出来るかが問われているのである。虫食いの農地では私達は困る。儲かるところ、金になる土地だけを耕すのでは困る。また私達の食と言うとき、私達は日常食べるものを考えている。いつも目にするこの国にあった作物が美味しく食べられること、これが実現可能かが私達の関心事である。
この国の土地を考えたとき、今のサクセスストーリーは、それを奨励する農業政策は、私達の必要とするところから乖離している。

トヨタというビジネスモデル

2009-09-24 07:39:36 | Weblog
トヨタという会社は日本を代表する会社である。グローバルな会社として世界に通用する。かつてのGMの様なものであろう。しかし、トヨタにとってよいことは今や必ずしも日本にとってよいことではない。
自動車は、この国にあって、憧れの産業であった。この国では、民間の希望のみならず、国としても少なくとも自動車会社2セットは持ちたいという希望があった。この希望の下に、トヨタを育て日産を育てるのは戦前からの国策であった。戦前は陸軍が、戦後は通産省が、この目的に奮闘してきた。故障の多い国産車の変わりに輸入自由化を求めるタクシー業界などの要望にも門戸を閉ざしてきた。
私達は食料を買う外貨が欲しかった。外貨獲得に繋がる輸出はとにかくこの国のニーズであった。そんな中で、国際分業論、強い産業はこの国にとってよいことであった。トヨタや日産の工場の立地、その立地を人員の配置を含めて最大限に効率よくすることは、多くの犠牲を国民に負担させてもこの国にとって望ましいことであった。
しかし、今外貨の獲得がこの国の一番の必要でなくなったとき、トヨタというビジネスモデルは一企業の問題になった。勿論、トヨタを潰せと言うのではない。外貨を稼ぐ企業があるのは悪いことではない。
しかし今一番考えるべき事は、世界の食糧をこの国が食べ散らかしている時代にあって、幸せな国民、豊かな国民であろう。こんな視点に立ったとき、新しい社会のバランスを考えるときである。

副大臣の廃止を考える。

2009-09-23 09:44:33 | Weblog
副大臣は官公庁を統合した行政改革の時に出来たのではなかったか?
省庁が少なくなり大臣のポストが不足し臨機の処置として設置した。大臣が論功行賞の手段として使われるようになって、不足する賞を補完するというポストとして出来た。議員の自尊心を満たす表彰状のようなものであろう。
立法を行う人達にチェックが働きづらい一例であろう。
不要なものを削減するという民主党の考え方からすれば止めてもよい制度である。副大臣も公務員であることを考えれば、金のないこの時期、トップに近いのであるから改革の目玉にしてもよい。
議員の数。これも、人気投票の要素が多いことを考えれば、今の数が必ず民意を反映するに適当な数とは思えない。国会議員は選良と言った。その選挙区の人々が選任する。それは誰が相応しいかを選挙者が判断するとの憲法上の趣旨であった。一度選良となれば、その選挙区の特殊な利益を離れて、大局的見地でその見識と良識を生かして国政を論議する、決定する。ところが、今回の当選者の顔ぶれは、そんな憲法の理想を担保するとは思えない。国会議員の員数の削減、行政の問題ではないかも知れないが、ムダな費用という観点から、やはり考えてもよい。宿舎、秘書など議員一人に附帯してかかる費用は私達の日常感覚からすればとてつもなく大きい。それ以上に知識無き議員が引き起こす行政への負荷などを考えれば、国会議員の員数の削減は大きな効果がある。
ここはやはり無駄を省いてお金を生み出すという民主党の自浄作用に期待したい。自らをチェックするぐらいの良識はあって欲しい。

命あること(食の倫理)

2009-09-22 12:12:38 | Weblog
私達は食に関して命あるものの命を奪うことに、「ムダにしない、大切にいただく」という考え方で折り合いを付けてきた。無益な殺生をしない、食べ散らかさない、これを生きていくために他の動植物の生命を奪うことの節度としてきた。
この考え方、私は食べ物が無機質化した現在にあっても、各家庭で守られていると思う。無機質と割り切れば食べ残しもなんら悪いことではない。しかし多くの母親は自分のかけた手間と併せて、他の生き物の命を奪う、そんな考え方もあって子供の食べ残しをいさめるのではなかろうか?
私達の子供時分、農家では、否農家に限らず普通の家庭で鶏をさばいた。丸ごと買ってきた大きな魚をごちそうとしてさばいた。生きたときのままの形を持っていたそれらは命をいただくという思いを強くしたものだ。だから、無益な殺生を戒めた。戦国時代、江戸時代の鷹狩りも殺生に関する倫理は同様ではなかったか?
さて現代、やはり家庭にあっては同様の倫理が続いている。しかし一度、社会に目を転じると一人一人の思惑とは別に、ムダな殺生だらけというのが実相ではないか?表計算で計算して最大の利益が上がるように食を提供する、安全、おいしさは必要な範囲に押さえ、余れば捨ててしまう。貧しい国からは食料を輸入してその国の飢えの一因をなし、この国に持ち込んで食べることなくゴミ、それも時として産業廃棄物としてしまう。家庭の目で見れば食べ散らかしである。
これは食の倫理に反しているような気がする。先ず命あるものに対する態度、そして同胞に対する態度、どこか欠ける国の社会のあり方ではないだろうか?個人は正しい。しかし、社会になった途端、集団でおかしな事をしている。

辰巳芳子さんの料理

2009-09-18 09:16:51 | Weblog
この方の料理の面白さは供給側に力点を置くことであろう。季節、季節に自然に育つもの、季節の素材を大切にしてその味をきちんと、その良さを丁寧に引き出す。手抜きをしない、この国の自然に馴染んだ料理であろう。
私達が普段する料理はこれとは違う。あるもの、普通にあるものを生かすという視点に欠けている。先ずレシピありきである。先ず何を食べたいか決める。そして、レシピを調べる。またはレシピの記憶に頼る。次ぎに、スーパーで材料をそろえる。その時その時に身近に何が育っているか忖度しない。一年中キュウリが必要となりニンジンが必要となり、一年中食べることになる。
需要に供給が合わせる結果となる。
レシピ依存の料理は食事の洋風化に始まる。私達に馴染みのない料理、レシピなくして料理なしである。料理に関して私達はマニュアル人間となった。それまでの日本人が、自然に育つものを大切にしながら、美味くその味を引き出して食べていたにも拘わらず、以降日本人は調理法を知らないかのごとくなった。
これが農業問題の基本的問題であろう。この国土に馴染んだもの、一番美味しく食べられるものを大切にしながら、作物を育て、それを調理して食べる。こんな態度をなくしたとき、自然が豊かに提供するものに背を向けたとき、農業のムリが始まった。
農業は、食は供給が本来優先する。自然にのびのびと育つものがあって、それを如何に楽しむか、それが食である。おいしいものを食べる工夫である。
私達は自然の中に生きる。私達は今自然に背を向けている。しかし農業は自然との付き合いでなければならない。