夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

これから来る災危は人災である。民主党災害?

2010-03-31 12:21:28 | Weblog
後先を考えないばらまきから、財政破綻を誰しも予想している。
その後にくる災危の有り様は想像がつかない。
サラ金で借り込む。いずれは返せないと分かっていながら借金に借金を重ねる。その後の不幸は各人様々である。今私たちの国はそんな状況にある。
この不幸は政権交代を楽しみにして民主党に投票した私たちを襲う。建前の責任は鳩山首相かもしれないが、実際にその結果を負担するという意味で責任は私たちにある。
今回のことは人災であろう。
私たちは民主党を選んだ。その民主党がばらまきを選択した。結果が私たちに返ってくる。
社会の枠組みの中で、つまり人々の営為の中で生み出す不幸は人災である。私たちは一度太平洋戦争という大きな人災を経験している。すべて天皇に帰するという考え方の誤りを知った。
二大政党制の英国を単にモデルとするだけではなく、私たちの国民性にあった制度をも考えてみたい。どうも二大政党という仕組みは私たちの衆愚を増幅させるだけのようである。
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警察庁長官襲撃事件に関する警視庁公安部長の発表

2010-03-31 09:51:44 | Weblog
「国民に説明する必要があり、公益にかなうと考えた。事件の特性によって判断した」としてあたかもオウムの犯罪であったかのごとく公安部長が発表した。
動機が正しいかどうかは別にして、私たち国民はこの物言いにうんざりしている。
警視庁公安部長の発表は私たちの井戸端会議ではない。
しかるべき機関が「あいつが怪しかった」などと言えば、それなりの信憑性がある。正誤は別にして、言われた組織、個人は社会的制裁を受ける。
私たちが欲しいのは「誰それが犯人である」という真実であり、それ以下でもそれ以上でもない。立証されない以上、噂の範囲を出ない。しかるべき機関が噂を流して許されるわけはない。
私は証拠を残さない完全犯罪もあり得ると思っている。人がした行為を人が調べる。完璧はあり得ない。だから「考える」、「思う」で人を断罪することを慎む。近代の知恵である。
その努力に拘わらず立件出来なかったことは、私たちの人権尊重を考えれた上での話であれば一つも恥ずかしいことではない。犯人が狡賢かっただけである。
しかし、噂話を流したことは言い訳じみていかにも恥ずかしい。人権を尊重する法治国家にあって許されることではない。
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郵便貯金預け入れ限度額を2000万円に

2010-03-31 08:58:52 | Weblog
亀井大臣の言い出した郵政見直しの中で郵便貯金の預け入れ限度を2000万にすると言うのがある。郵政の経営の視点からこの主張がなされている。民業圧迫の観点から反対意見がある。
郵政民営化はアメリカの要求により実施されたのが真相であろう。アメリカの要求と言うより、むしろアメリカの金融資本の要求であったと言うのが適切かもしれない。郵便貯金、簡易保険はアメリカの銀行、アメリカの保険会社にとって魅力的なマーケットだった。魅力の無い親書配達業務と分離して、そして新たな金融マーケットを拡大する。
ここでパンドラの箱を開けたのは愚かにも小泉元首相であった。ツールは構造改革というお経と郵政民営化というスローガンであった。
民営化がどのような動機で、またどのような過程で実施に移ったかは別にして、民間でやることになった事実は重い。民営化は経営体の利益最大化を通して社会の利益の最大化を目指すという手法である。今や郵政は自由に利益を上げるのが使命である。多分にいかがわしかったが、西川元社長の生き方もその意味で正しい。
自動車会社を連想してみよう。「お宅の会社は1000万を超える車を造ってはいけないよ」などと割り当てれば、造れるかどうか、実力はは別にして、自動車各社怒るであろう。しかし企業体としての郵政にこのことを強いているのが現状であろう。預金限度1000万という桎梏である。民営化という一歩を踏み出してしまった以上、政府の一機関であることをやめた以上、如何に事業展開するかは政府の決心ではなくなった。
郵政という巨大な集金事業体を民営化してしまった。恐竜を野に放ってしまった。民間企業に公益というたがを如何にはめることが出来るか、今後ますます難しくなる。
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虚業の規制

2010-03-30 17:05:09 | Weblog
昔外為法で実需原則と言うことが盛んに言われた。実際の需要に基づかない円からドルへの交換は認められなかった。
それ以上の交換は投機と見なされた。輸入という事実を考えるならば、ドルを予め持っているのも悪く無いはずであるが、それでもメーカーにあっては難しかった。実態のない通貨取引はとにかく禁忌された。
経済にあっては通貨は血液のようなものであろう。通貨が無くして今の経済は成立しない。しかし、通貨は実態経済と表裏をなす側面がある以上、通貨が逆に実体経済を損なうことは誰しも理解している。
血が多すぎるという事実、これが身体に、健康に余りよくないであろうことは、誰しも理解している。
すると、通貨量を削減しようという努力がなされないのはなぜだろう?
血が血を求める。何かスリラーのように聞こえる。強くなりすぎたアメリカの金融、これを虚業といい、そしてこの虚業が暴れるのを防ぐ知恵がそろそろ必要ではないか。
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少子化と過剰人口

2010-03-30 16:43:35 | Weblog
今でこそ少子化などと騒いでいるが、私の学生時代までは過剰人口で騒いでいた。
私たちの国は貧しく資源が少なく、それでいて人口が過剰である。私たちの国を語るときの定番であった。
戦前からの移民、戦後の移民は昭和三十年代まで続いた。この国が養いきれない人口を移民という手段で解決しようとした。
昭和20年頃の食糧自給率は6割ぐらいだったと記憶している。
完全雇用は昭和40年代の話ではなかったか?
もしかすると私たちの国は少子化ではなく年齢構成こそ歪であるが、適正人口に向かっているのかもしれない。
30年前にやっと暮らせるようになった。経済大国と言われ始めた頃である。
生を受けた人を人として尊敬する。人として自然である。しかし、私たちをあたかも生物のように見なして、人を何とか増やそうというのはどうもいただけない。
過剰であれば過剰なりに暮らす、子供が少なければ少ないなりに暮らす。そこまでが人の考えるべき範疇では無かろうか?人口を総数としていじくろうというのは昔の優生保護法に似て、神の範疇に土足で踏み込む仕業では無かろうか。
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中国は経済大国

2010-03-29 16:52:46 | Weblog
中国は今や数字をさておけば実質世界第二の経済大国かもしれない。数字の上でも早晩日本を追い抜くであろう。
その人口規模からして望ましいことである。もし貧しく疲弊して暴れるなどといった事態が勃発するとすれば、それは私たちの国益にあわない。
私たちは中国が世界第二であることに素直に順応しないといけない。
経済大国であるという客観事実を踏まえて、その経済的な実力に相応しい役割を中国にお願いしないといけない。巨人が自己の利益のみを追求するなどと言うことは間違っても認めてはいけない。
内政上様々な困難が彼の国にあるであろう。しかし、それは内政である。国と国との関係と内政は別である。大国には大国の義務がある。ここのところをきちんと理解してもらう努力が隣国として必要となっている。
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私たちの政府のなすべきこと

2010-03-29 16:22:34 | Weblog
私たちの政府がすることを考えてみる。私たちは自助努力によって暮らしを立てて行こうとする。
しかし自助努力の及ばぬことがある。ここを補填するのが政府の勤めと言うことになる。
個々の就業努力は誰しも行うところである。たとえ雇用機会がわずかであろうとも、人々は就業に努力するであろう。それが日々の暮らしが成り立つ前提である。
しかし、ここまではマッチングの問題である。
雇用機会が無ければ雇用などあり得ない。この意味で政府はまずは雇用の創出に尽力すべきである。これは、しかしなかなかに難しい。従来の産業政策で足りないことはトヨタ、キヤノンの派遣切りで明らかである。
新しい産業政策がいる。
そして雇用の創出が間に合わない部分について救済策がいる。生活保護である。一時的な状況に対する失業保険である。
このあたりの順序を見失うと、実質無策となる。実際に最終の解決策になり得ない職業訓練に注力することになる。パソコンを覚えて職にありつけるなど、夢物語であろう。
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子供手当は政府の仕事であろうか?

2010-03-28 10:12:40 | Weblog
私たちには「お上」という考えかたの残滓が残っている。お上からものをもらうことに抵抗が少ない。たとえ原資が税金であっても素直に喜んでしまう。
しかし、子供手当ぐらいの金額であれば、わざわざもらわなくても困りはしない、そのぐらい稼いでみせるよ、そんな国民も多いのでは無かろうか?
つまり子育てに際して個人の努力によってカバーできる範囲なのでは無かろうか?
するとこれは国が出しゃばることではなく個人の努力の範疇と言うことになる。
では保育園はどうであろうか?これは個人が如何に努力しようと、対処できないことであろう。もちろん、子育て自体はお祖父ちゃん、お祖母ちゃんなど家族のカバーで解決できる。しかし、保育園と言うものが必要と設定するならばこれは個人で解決できないと言うことになる。ことは金の問題ではない。
保育する人の育成、設備等解決すべき様々な問題が生じる。するとこれは個人の問題ではなく社会の問題である。
政府の仕事、個人の仕事、そこの仕分けは本当に大事であろう。如何に選挙に有利であろうと、してはならないこともある。そこをはき違えると、本当にだらしのない政府が出来てしまう。
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雇用の最大化

2010-03-28 09:45:22 | Weblog
民主党政権には経済政策がない。私たちは納得のいく経済政策が欲しい。
しかしここで、経済政策を要求する余り、雇用の最大化への要求が第一義であることを忘れてはならない。成長一本槍では国民が苦しむことは今の現状が示している。
恒産無くして恒心なしはいつの時代にあっても真実である。もちろん恒産があっても恒心があるとは限らない。しかし恒産がなければ恒心はない。
社会福祉の形で金を受け取ることを、それが当然の権利であるとしても、誰しも潔しとしない。額に汗して金を稼ぐ、誰しもそこに誇りを感じる。
この国民の誇りを持てる環境を用意することを政府は最大の目標とすべきでる。
つまり如何に雇用機会を増やしていくか、ここに力点を置くべきである。今まで同様の経済成長が雇用機会の増加に繋がらないときに、これは本当に難しい。金のばらまきなどと違って本当に難しい。
国民を食わせていく、そのぐらいの気概は必要だ。
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郵便貯金について

2010-03-28 09:24:47 | Weblog
郵便貯金は元々戦費調達のために国民の金をかき集める手法ではなかったか?
そこを考えると、金をかき集める必要から生まれた制度はその使命はは終わっている。
制度にはその目的がある。今郵便貯金は何のためにあるか。誰も答えられないであろう。
郵便貯金があるから赤字国債を引き受けて、国の財政を補填している。それだけである。それ故に貸し出しの機能を持たなかった。
今必要なことは過去の目的と今後の役目を考えて、この巨大な集金機関の将来の位置づけを考える必要がある。郵政の運営のみを目的として、ひたすら拡大すればよいというものではない。
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