夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

小保方さんをなぜ処分しない? その二

2014-04-19 20:18:57 | Weblog
小保方さんの書いた原稿はサイエンスで一度没になったという。様々な方が協力したがそれでもだめだったようだ。
それがES細胞の権威である笹井先生が論文の共著者になった途端、採用となったようだ。サイエンスもサイエンスである。同じものが権威が共著となった途端採用である。
しかしそのことはさておいて、今回の問題の所在は焦りではないかと思う。
4月1日が小保方さんの契約更新日であったようだから、この辺を踏まえた小保方さんは焦った。そして、笹井氏もわずか2か月で掲載にこぎつけた。
結果主義である。
私の若いころの話である。農学部で修士、博士と、スイカの交配をやっておられた方がいる。いよいよ博士論文の仕上げという段になってスイカ泥棒にあってしまった。この方は博士号はあきらめた。失敗もスイカ泥棒もおんなじである。淡々としたものである。
電電公社の中央研究所で超電導のの研究をしておられた方がいる。博士を出てから48になるまで同じ畑であったが営業に回った。その方は自分の功績は「私のやり方では不可能だということが分かった」とおっしゃっていた。それが功績である。人類の選択肢を一つ消した。結論が出て新しい人生にチャレンジした。
今もやはり同じ風なのかもしれないが、少なくとも小保方さんの経歴を見る限り、とにかく業績を上げないといけないという焦りを感じる。じっくり腰を落ち着けて物事にチャレンジしていない。笹井先生にしてとにかく掲載をという、結果を急いだきらいがある。
私はこのお二人を見る限り、才能ある人にゆっくりチャンスを与えるという社会の、この国の私の若かりし頃の余裕を感じることができない。
これが私たちの国の現在の不幸のような気がしてならない。
立派な研究はおおらかな社会にある。


追記
私は早く処分をすればよいと思っている。「私悪くない」などという弁はマスコミ受けしても決して生産的ではない。研究者は次に行けばよい。

小保方さんをなぜ処分しない?

2014-04-14 09:15:29 | Weblog
小保方さんの処分の話がどこからも出ないのを不思議に思う。
小保方さんが早稲田大学に提出した博士論文に大量の剽窃があったという。なら博士論文は無効であり、彼女の博士号はなかったことになる。早稲田大学はきちんと処理すべきであろう。
同大学は日本を代表する私立大学である。しかし事件が表ざたになってからもほったらかしにしているように映る。
早稲田とはその程度の大学だったのかと思う。プレゼンの上手な女の子に博士号を付与して理研に送り込むインチキな大学。そしてその大学に補助金を出すばかりで注意もしない文科省。
問題となっている研究は理研でした。そのまやかしの研究で世界をだました小保方さんを処分しない理研も不愉快である。理研には多額の税金が投入されている。日本を代表する研究機関である。そこで、その目的の範囲で不正を行った人間がいる。これをその目的の範囲で処分するのは当然であろう。禁じ手を使った以上先ず処分ありきであろう。それから弁護士と争えばよい。「私悪くない」で済む話ではない。
研究が無意味であった、失敗であったというのは立派な成果である。研究は次に進む。しかし、インチキは何も生まない。しいて言えば、小保方さんのインチキに税金が投入されたというしかない。
私は毅然とした態度が取れない早稲田大学、文科省、そして理研の在り様を理解できない。もしかして権威であった早稲田、文科省、理研はfakeだったのかもしれない。

追記
今私たちが問われているのは次の一手である。
小保方さんがインチキをしたというのは過去の事実である。
その処分を毅然とするのが私たちの信用である。
それが法律以前の私たちの常識である。

小保方さんと安倍首相

2014-04-11 09:00:56 | Weblog
このお二人は私を落ち着かせなくする。
STAP細胞はあります。と小保方さんは言う。理論上存在は可能であろう。しかし、それを作り出したとする論文がいい加減なようだ。だから普通に考えればもう相手にできない。ノートは他にもあるという。それなら回りくどく言わないで他のたくさんのノートを提示すればよい。その中に200回以上作り出したSTAP細胞の出現時の状況を提示すればよい。
しかし、小保方さんはSTAP細胞はあると言う誰にも否定できない理論を持って自らの真正を主張する。
嘘だなどと証明することは難しい。
安倍首相は集団的自衛権があるという。自衛権があることなどだれも否定しない。そして、それ故時により国家間で集団的に行為することがありうるのは自然である。しかし、積極的に集団的に活動することによりこの国を守ろうとすることは別問題である。集団的自衛権とは別問題である。
お二人が私を不安にするのは「決め」である。誰にも否定できない事実を持ってきて「決め」を普遍していく。
なかなか否定できない事実を持ってきて決めつけることである。決めつけという信念である。
これは論証や議論という極めて合理的な、社会的な営為を否定する。
私たちの社会が決めつけと決めつけの対決になるなら進歩はない。
このことが私を不安にする。