夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

大いなる野合を望む。或いは大義ある野合を望む。 その三

2016-06-29 11:21:40 | Weblog
私は今の政権に大きな不安を持っている。
自由主義は国家からの国民の自由を、そして国家への自由を考える。民主主義は、その語源はギリシャ語のデモスのクラトスに始まると聞く。民衆(デモス)の独裁(クラトス)である。すると、自由と民主主義は相容れないことが多い。これが自民党の中で結実した一つの野合である。
公明党は創価学会をバックに持つ。およそ、政治と宗教の間に線を引くのが近代国家であろう。この意味から公明党は政治と宗教の野合であろう。
自公政権ということは自由主義と民主主義と、そして宗教が政権の甘い蜜を膠糊としてくっついている。
とんでもない野合である。
この野合の親分が安保法案撤回を目的として始まった野合を揶揄する。
ことは野合の問題ではない。
憲法を順守するかしないかの問題である。
私たちの憲法は何とか自由と民主を際どいところでバランスさせている。
憲法の順守なくして護憲も改憲もない。護憲も改憲も意味がない。
一内閣の閣議決定ですべてが変わる。自分勝手な解釈、「自由な判断」、こんなに憲法にとって危険なことはない。
憲法は不変である。その上で、これを変更する。それが筋である。
この意味で安保法案をめぐる共産党の提案は優れている。
公約のてんこ盛りはいらない。
まずは憲法を守るか守らないか、これは国家百年の計である。


追記
歴代内閣が積み重ねてきた判断を、その前提である憲法解釈を踏まえず、たった一回の閣議で変更する。
そして、時には衆院選で公約し法律まで成立させた事柄を「新しい判断」で簡単に反故にする。
これほど言葉の軽い野合は本当に不安である。
ころころ変わられると、本当に生きづらい。

大いなる野合を望む。或いは大義ある野合を望む。 その二

2016-06-22 20:11:17 | Weblog
安倍首相は安保法と称するもので解釈改憲ということをやってのけた。
安倍憲法の成立である。
と私は書いてしまった。これは誤りである。
改憲が成立しているわけではない。
閣議決定があり、それを前提に多数決で法律を何本か通した、それだけである。
憲法の趣旨に照らして無効なものは無効である。しかしこの無効は少し厄介である。私たちの国ではその実際の運用を離れて個々の法律が一般論として違憲かどうか判断する制度がない。つまり、それは憲法に反するよという機会がない。無効は無効のままにそのまま有効に機能する。
つまりは、自民、公明の野合に対抗する野合に今度の選挙、次の選挙と勝ってもらっておかしな法律を廃止してもらうしかない。

さて、野合の続きである。
私は安倍首相がおかしなことを言い出した時に公明党に期待した。
立憲の趣旨をこの党は守ってくれると思った。
政権にあって影響力を行使することで立憲の趣旨を守ってくれる。
しかし、期待は裏切られた。
政権の蜜は甘い。
政権の蜜を吸うためにできた野合は所詮はそれ以上でもそれ以下でもない。蜜を吸うための大義なき野合であった。
たまたま、政権についている期間が長いから、野合の期間が長いから私たちも、創価学会をバックに持つ公党と自由と民主主義を標榜する人たちの野合に気が付かない。

まずは政権にすり寄る野合に立憲の本旨を実現する野合が対抗することを望む。

大いなる野合を望む。或いは大義ある野合を望む。

2016-06-19 19:32:52 | Weblog
安倍首相は安保法と称するもので解釈改憲ということをやってのけた。
安倍憲法の成立である。
安倍首相の恣意である。
さてこの国法を無視した振る舞いを担保したものは何であるかと思いを致すときに、およそ水と油と思われる自民、公明の野合である。
政権の水は甘いとばかりにすり寄ってくる公明を味方に安倍首相は国法を犯した。
節操なき野合である。
憲法は国のシステムと私たちの約束である。取り決めである。
それをこんな解釈もあるよと踏みにじる。
そんな野合に対して共産党の志位委員長が民進党に野合を申し出た。
憲法を守るという一事をもってである。
国民との約束が一内閣の恣意で変更できるのであれば、憲法など無きに等しい。
憲法を適当に理解する、或いは踏みにじった自民、公明の野合があるならば、これを正す野合があってしかるべきであろう。
憲法を守るために改憲派と護憲派の野合もあってしかるべきである。
改憲もまた憲法を守ることを前提に議論する。
国民との約束を簡単にほごにする、そんないい加減な野合をまずは少しづつ正す野合、およそ民主国家にあって原理原則の憲法を守る野合がほしい。
小異を捨てて今回ばかりは憲法を守るという大同につきたい。