夜と霧

迷える子羊
ーこの場を借りて自分の考え方を確立したいと思っていますー

足利事件元検事謝罪無く。菅谷さんご免なさい。

2010-01-24 10:30:44 | Weblog
足利事件を担当した検事に「ご免なさい」の一言がなかったことを問題にする意見がある。私はそれを言えるのは菅谷さんお一人ではないかと了解している。
検事は職務として起訴した。しかし、それは検事が菅谷さんに対する私達国民を代表してである。
DNAの鑑定もあった。多分新しい技術で今よりもはるかに信奉されたであろう。アメリカではこの技術により多くの有罪判決がひっくり返った。アメリカが犯罪捜査、司法の面で如何に暗黒の国であったかを示した技術である。日本では逆に、無罪の菅谷さんを有罪にするという誤りを犯した。
検事に事情を聞けば当時の事情を説明するだけである。その事情は有罪として起訴せざるを得なかったと言うに過ぎないであろう。元検事個人の誤りではない。検察庁の誤りであり、そして私達の誤りでもある。
菅谷さんを起訴したのは国民であり、検事はそれを代行したに過ぎない。
菅谷さんご免なさい。

検察の説明責任

2010-01-24 10:02:40 | Weblog
小沢民主党幹事長のお金をめぐる事件をめぐってこんな主張もある。
「検察は説明責任を果たせ。」
説明責任と言う言葉が流行し始めたのは比較的新しい。英語のAccountabilityの訳語かと思う。これを日本語に訳すと「説明が付くことをする責任及びそれに伴う説明」かと思う。
「ぺらぺらしゃべろ」と言っている訳ではない。
極めてファジーなことを行う国会議員に特に求められる徳目である。勿論私達にも求められる。
しかし、法律の適用をめぐる小沢幹事長と検察の問題はそれ以上でもそれ以下でもない。検察は法律に触れたと理解して有罪かも知れないと思えば起訴する義務がある。
結果は双方の意見を聞いて裁判所が出す。
マスコミは最初政治家に用いたこの言葉を流行らせ条件反射のように思慮無く使う。まるでパブロフの犬である。なんら意味のない、それでいてもっともらしく聞こえることを言って私達をなるほどと思わせてしまう。騒ぎゴロの騒ぎゴロたる所以である。

小沢民主党幹事長のこと

2010-01-23 09:11:09 | Weblog
私はこの方の一心不乱、前向きな姿勢が好きである。今回のことは、そんな性格から起きたことと思う。
一方で検察は手ぬるいとも思う。
罪は罪である。今回の罪、元々は金をめぐる政治家同士の足の引っ張り合いでできたシステムである。国会議員は立法を司るだけあって、投票というみそぎを済ませば何でも出来る。選挙の時田舎では土下座でも何でもする。しかし、当選すればやりたい放題である。
今回小沢さんを網した法律は国会議員同士で作った法律である。しかし法律の執行に際して民主党の親衛隊は過激にも大騒ぎしている。
整理すると、
法律は国会議員同士のカネの問題をなるべくフェアにするため作った。
法律がある以上、その通りの執行が求められている。
ついては検察は小沢さんを起訴した。法律が認めぬことをしていれば罪である。
しかしそこで当事者でない民主党議員が大騒ぎをするのは何故だ。提灯か?

追記
今回の大騒ぎ、英語で表現すれば、
Ozawa Vs States
検察は私達国民の代弁をする役割である。

鳩山首相の国防感覚

2010-01-22 12:52:21 | Weblog
鳩山首相はここの所の失言、失敗続きで「日米同盟の深化」と言っていた。アメリカへのリップサービスのつもりであろう。
しかし、米軍は冷戦以降の発想なのに、日本の首相は冷戦時代の発想で発言している、そんなことを感じさせる。
日米安保の枠組みは冷戦期の米軍戦略の中で生まれた。そしてその過去を随分と引っぱている。日本の防衛論議は、核の傘などと言ったけれど、実際には米軍に奉仕することに終始してきた。勿論、スターリン治下のソ連の記憶から、ソ連、中国は不気味であった。
さて現状であるが、どうも事情が変わってきている。グローバリズムは二極体制など許さぬものとなった。アメリカにとって優等生であろうとしても、アメリカは中国重視に切り替えたようである。
すると私達は、今までの軍事同盟の延長ではなく、アメリカとの互恵を前提とした友好条約と言うことになる。冷戦期は過ぎた。新しい国際感覚に基づいた国防論議がいる。

裁判員制度 「被害者の立場に立って」

2010-01-22 12:26:56 | Weblog
「被害者の立場に立って」、この言葉がくせ者である。裁判員になった人が感想を聞かれてよく口にする言葉である。
被害者と加害者いづれの立場にも組みせず、双方の事情を斟酌して判断するのが裁判員であろう。
被害者の立場に立つのは検事である。
加害者の立場を弁護するのは弁護士である。
検事、弁護士の主張を踏まえて判断する、それが公正というものである。裁判員の仕事である。
人を悪く言うのは面白い。しかし日常生活であれば、悪く言えば言い返されるリスクがある。名誉毀損に問われることもある。それ故私達は言葉を慎む。
犯罪になると事情が違ってくる。加害者をいくら悪く言っても言い返される心配はない。むしろ正義を体現しているかに思われて小気味がよい。
マスコミもこの故に被害者の立場に立ってニュースを面白可笑しくする。
しかし、ことは裁判員制度、「被害者の立場に立って」は危ない。私達の良識とはそのようなものである。

日本経済の停滞

2010-01-22 11:23:58 | Weblog
GDPが伸び悩んでいる。つまり国民総生産が伸び悩んでいる。これを日本経済が停滞していると言って良いのかどうかよく判らない。
一般には停滞と捉えているのではないだろうか?
しかし、私はこの事実をそう悲観的に理解していない。
戦前強大な軍事力を持つ国を大国とした。勢い、農業国でありながら軍艦の保有を米英と競った。戦後はGDPである。世界第二位の経済大国などと言う自己主張に似た歪なナショナリズムである。
国家は強いかどうか、大国であるかどうかではなく、助けを求める国にきちんと対応することに拠って尊敬を受ける。存在感を増す。アメリカに追従するかどうかではない。お節介からでもない。
さてこの時期、経済が停滞しているとして、国民は何をしているか。無為にして過ごしている訳ではない。刹那に生きる人もいるかも知れない。しかし、多くの人はいろいろなことに目を向け始めた。考え始めている。科学、芸術、文化、環境などの分野でどんな価値が生まれてくるか、新しい期待が膨らむ。国民は全部において停滞することはあり得ない。社会的に停滞したとされる、産業的に衰退したとされる江戸時代を考えるとき、日本全国津々浦々まで普及した文化を思い出す。
私達の経済は今の技術を前提とする限り、円熟しつつある。停滞と映るかも知れない。しかし全てにおいて停滞することはない。

医療と延命は違う?

2010-01-21 08:01:20 | Weblog
医療技術は随分と進歩した。寿命はどんどん延びている。老人に関して医療と言うとき私達はともすれば延命のことだと同一視する。
昔であれば、治療を受ければ、健康な身体を取り戻し幸せな余命を楽しむことができた。今は、違う。最初はそうかも知れないが、身体のあちらこちらにがたが来て、苦しみながら生きていく。医療技術の進歩が単に部分を治療し延命するだけになったごとくである。バランスの取れた身体の一部に改良を加えれば、それが治療であっても身体のバランスを失う。
医療技術のおかげで、延命し、苦しむばかり、ベッドに寝たきりということもある。
医療技術は医療とは違う。このことに私は悩むが、しかしとことんぎりぎりまで生きるのが人間だと思う。医療技術は生きるための工夫である。不完全な医療技術もそれに伴う福祉も、また個人の生も、いつかは医療が完成すると信じてとことんぎりぎりまで生きる、それが人間のあり方であろう。

私達の国はバランスをなくした?  その三

2010-01-20 18:03:42 | Weblog
介護事業というビジネスがこの国の今後の発展モデルであるという。これがGNPを押し上げるという。
従来測定してきた産業の指標であるGNPをベースに経済成長を論じるとき二重の意味の誤りを犯す。
①この国に産業面での大きな急成長はあり得るのか。これ以上の成長が可能なのか?人口が10倍以上いる中国とGNPで肩を並べることが必要か、最後まで可能か?この辺の解が一つもないのが成長論であろう。要は日本では一家に10台ぐらいの冷蔵庫か必要かどうかの愚論であろう。
この問題は私達は物質的に足りている以上世界で二番である必要はないと答えるしかない。
②介護は昔からこの国にあった。家族で負担するから無償であった。これを、家族から解き放ちビジネスにしてその分GNPを押し上げる。昔竹中元経済産業担当相がやった愚論である。福祉を忘れて経済の発展論に傾斜して、そんなところに力点を置くならば、いっそのこと婚姻を禁止すればよい。婚姻を認めず、夫婦間の家事労働も全て有償とする。GNPも随分と上がるであろう。
経済に傾斜しすぎた私達の国、そろそろ別の方向を考えるときである。質素で地球に負担をかけないが快適で愉快な国、そんな国があっても良いではないか。

私達の国はバランスをなくした? その二

2010-01-20 17:42:05 | Weblog
身体にとって均整の取れた状態が一番健康である。バランスは斯様に大事である。
このことは国にとっても社会にとっても同じであろう。
私達の国はもう80年代に飽和点に達していた。アメリカはもっと前かも知れない。甘い砂糖水が好きだからと言って、砂糖を追加しても、飽和点に達するとそれ以上は融けない。
経済も同じであろう。いくら刺激してもそれ以上伸びない時がある。これが解決されるときは新しい技術が現れるときであろう。
そして、その技術が何かは分からない。
均衡点を一度達成した経済を更に発展させようとすれば、トータルのバランスを崩すことになる。トヨタが更に伸びようとすれば完全なフリートレードであろう。しかし、身近で商売する普通の人にとっては、輸出時の関税障壁などあってもなくても良い。むしろ農業などは輸入時の関税障壁があって初めて成立する。
飽和点に達した国民経済にあって経営が更に伸びたいとするならば、歪に巨大化したビッグビジネスと疲弊した多くの商売ができてしまう。
自由貿易、しかし・・・が私達の経済の現況なのである。

車社会を考える。

2010-01-19 16:07:49 | Weblog
車は利便性があってコストが安いという気がする。高速道路が千円になれば飛行機よりも列車よりも船よりも安くて便利である。
今は業界内の競争で青息吐息のトラック業界もかつては鼻息が荒かった。船を蹴散らし列車を蹴散らした。バスも安い。自家用車はどんどん走る。
しかし社会のコストを考えると突然高くなる。先ず道路がいる。線路は企業の手弁当の部分が大きい。船は海を自由に走る。飛行機は空を飛ぶ。しかし、道路を造るのにカネはかかる。運送会社が自分の道を持つなんて聞いたこともない。
それに交通事故も多い。事故で多くの人が亡くなる。損害賠償のお金も少額ではない。おまけに交通警官も必要だ。
そんなことを考えると、産業政策から自動車に振り向けた資源をそろそろ他に転用しても良いのではないか。ガソリンをもう少し上げて、他のインフラにまわす。
道路の建設と警官の人件費だけでも少額ではない?