ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

今日はメーデーだけど…

2016年05月01日 | 日記
○7時15分起床。起床時室温18℃。べビが頭上から落ちてくる荒れ果てた岩場海岸を必死で歩いたり、混雑極まりない修学旅行宿で隣室からはガラガラポン!のマージャンを打つ音が響いてきたりトイレに立ったらそれは別棟にあると教えられ暗闇を歩いていくと目的地は長蛇の列だったり…、何だ?昨夜の夢は。
○ちょこちょこと左脚を軸足にする運動。屋内で、屋外で。意思が続かない今日。
○昨夜、増田さんに、手紙をいただいたお礼を兼ねてメアド等をお知らせする葉書投函。
○今日のお昼は生めん茹で上げうどん。添えた具は卵焼き【味付け無し】、カマボコ、久ぶりに生ワカメたっぷり。やっぱりというか、生めん茹で上げうどんはおいしいねぇ。生めんはあまり保存がきかないから買いだめはできないけれど。
○夕刻児童公園へ。ほんの少し歩いた。左足首が痛く、体が重い。今日のメーデー参加要求は満たされなくてよかったと思う。
○『パリ燃ゆ』の捕捉に、「二つの死―3月18日のユゴー」を綴ろうと思い、あれこれ史料探索。フランスに入ってきわめて初期(2002年)に古書店で「ユゴー伝」を手に入れたが、それを引っ張り出して史実確認。懐かしいペーパー感覚だ。
○「パリ・コミューン」―『パリ燃ゆ』編 終章
 「パリ・コミューン」の『官報』は1871年3月20日から5月24日まで、「パリ・コミューン議会『議事録』」は同年5月21日に閉じられた。現在、この『官報』の全紙揃いを整えている公共機関はほとんどない。また『議事録』は1924年、1945年の二期に分けて個人の努力によって編集・公刊されている。
 いずれの史料においても、「パリ・コミューン」のいわゆる「血の一週間」(5月21日~26日)にかかわる詳細な当事史料とはなりえていないのは、それだけ、戦闘が激しく、市議会関係者もバリケードを築き、武器を取って、「パリ自治市〔パリ・コミューン)」消滅と運命を共にしていた、ということになるのだろう。
 「パリ・コミューン」の事変が凄惨を極めた結末に終わった日、ヴィクトル・ユゴーはベルギーの政府当局に、一つの進言をした。それは、敗残者の政治家がベルギーに逃げ込んで来たら捕縛することなく保護せよ、という内容であった。当時、裁判抜きの処刑(銃殺刑)が公然となされていたことに対する強い危惧を持っていたユゴーは、捕虜が裁判を受ける権利があるという。
 こういうこともあって、ユゴーは「パリ・コミューン側(=<人民>側)の味方にあった」と風評伝聞されているが(おそらくそれは、大作『レ・ミゼラブル』から得た印象批評であろう)、事実はさにあらず、パリが法によって保障されたコミューンであることは当然であるけれども、事変の渦中にある実体としての「パリ・コミューン(の人々)」は「認めません」と毅然という。
 「私は彼らの為したこと、虐殺、報復、恣意的な逮捕、自由の冒涜、新聞発行の弾圧、略奪、没収、建物の破壊、記念碑の倒壊、権利への攻撃、民衆への攻撃、に反対してきました。」
 これらの指摘が虚偽ならばユゴーの言(文学も含め)は、ある意味、総てを否定して読んでしかるべきだろう。だが、史実はユゴーの指摘通りを示している。今回は、その史実(捕虜の虐殺=裁判抜き処刑)を2例示しておこう。
 一つは事変の勃発期に行われた政府軍将校の処刑、もう一つは、宗教者群の処刑、「宗教指導者である」という理由で銃殺刑に処している。後者は、かのフランス革命期恐怖政治下でなされたことに倣ったと思われる。
 なお、こうした史実を見失うことなく「パリ・コミューン」を再評価すべきだ、というのが私の立場であることを、補足しておく次第である。