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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

サン=シモン家族で第3位階に位置付けられた「セガン」

2018年09月09日 | 研究余話
 19世紀フランス史書には人物名Seguinは、複数名登場する。我らがセガンはそのうちの1人でしかない。史書関係で明らかにされているのは、1848年革命にかかわって登場するバルべ巣が中心になって組織した委員会メンバーであり、Edouard Seguinと署名しているから、間違いなく我らがセガンである。
 しkし、アンファンタンによってサン=シモン家族の一員だと承認されたSeguinは我らがセガンではない、とする者もあらわれるに至っては、のほほんとしているわけにはいくまい。事実はこういうことである。
 『サン=シモンおよびアンファンタン著作集』(1865)の第3巻に1831年5月の記録で、third degreeのメンバーとしてセガンの名が挙げられている 。それとは別にSébastien Charléty, Histoire du saint-simonisme (1825-1864). PAUL HARMANN, 1931. p.78.に 、1831年6月の記録として、「(入信希望者を除く)」とのカッコ書きを付け、サン=シモン主義「家族」全員79名の名前が載せられている。やはり3e degréの39人の一人としてSéguinの名を見ることができる。両著で使用されているメンバー・リストは第一次史料として扱うことができる。
 だが、両史料に登場するSéguin(あるいはSeguin)が、我らがエドゥアール・セガンであるのかどうか、多少の検証を要するだろう。同時期、社会活動家でファースト・ネームをSéguin(あるいはSeguin)とする人物が複数名いることはすでに明らかにされているからである。
 これまでの我が「セガン研究」では、セガンその人を追跡調査することによって、我らがセガンだと、断定してきた。今もその核心に揺らぎはない。しかし、そうではない、という論が登場し、支持を得ているとなれば、その論を検証し、批判をしなければなるまい。
 だが、それはぼくの「仕事」なのだろうか。そんな戸惑いのある今。

再稿「へちまのたわごと」—津曲セガン研究批判のために

2018年09月08日 | 研究余話
 このところ気になる研究情報と接している。いずれもセガン研究の開拓者であり、今もなお、セガン研究でリードをしておられる津曲裕次先生の論文だ。一本は「知的障害児教育の創始者エドワード・セガンの家庭及び生地についての研究ノート」(純心福祉文化研究 (6), 13-21, 2008、長崎純心福祉文化研究会)、あと一本は「セガンとその教具について」(モンテッソーリ研究第43号、2010,日本モンテッソーリ協会)。気になる研究情報というのは、前記論文のずばりタイトルとその内容。セガンの生育史。津曲先生がセガンの生育史をどのように描いているのか、そしてそれは先生のセガン研究開拓論文(記念碑的論文)「「白痴の使徒」エドワード・セガンの生涯」奈良教育大学紀要(人文・社会科学) 17(1), 279-298, 1969-02-28)からどれほど変化・発展しているのか、ということ、さらには、ぼくのセガンの生育史研究との異同が大変気になるところである。
津曲先生の最新のセガン生育史記述は2010年のご論稿である。
「生地と青年時代:セガンは1812年1月20日、フランス中部、木材の集散地オーセールで、当地の高名な医師T. O. セガンと敬虔なキリスト教徒の母との間に生を受けた。セガンは、初等・中等教育を生地オーセールで受けた後、パリのリセ、サン・ルイに学ぶ。大学名は明らかではないが、医学校(医学部とも)で内科と外科を学ぶ。云々」
 生地をクラムシーとしていた1969年論文に対して、この論文では、オーセールとなっているほか、母親が「敬虔なキリスト教徒」であったとしている点のみが、新しい。
 津曲先生は、2010年のご論文で、フランスでのペリシエ等によるセガン研究や清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(2004年)にも触れた上で、それらの到達とは異なったセガンの生育史(環境)を綴っておられる。はて、セガンが生まれたのがオーセールであること、母親が敬虔なキリスト教徒であったことは、どのような史資料ないしは「言い伝え」に依拠して、確定したのであろうか。また、セガンが医学部で内科と外科を学んだというかねてからの風説を支持なさった根拠はどのような所にあるのだろうか、等々。
 ご高名でお弟子さんもたくさんおられ、先生のご研究やご指導を燈台にして実践・研究をしている機関がたくさんある。そういう方のご発言は重い、重すぎるほどに重い。そして、「セガンの生涯と業績についてはほぼ明らかにすることができた」(津曲、2010)とおっしゃる方からすれば、ヘチマのようにスカスカのぼくのような存在は、存在しないのと同じなのであろう。
 津曲先生のお弟子さんのひとりであるK氏からいただいたメールには次のように綴られていた。
「川口先生のセガンの著書名が書かれていたにも関わらず、その成果を踏まえた論になっていなかった由、いったいどうしたものか、先行研究をもとに、 それを超える研究をせよ、と言われている津曲先生ですので、川口先生の研究を歓迎し、高く評価しておられるものと思っておりました。そして、そう思っております。
 書名を書いたからには、なんらかのコメントがあるべきと思います。以前に、津曲先生が、何の話の中で言われたかは忘れたのですが、孫引きでセガン研究を始めた云々、と言っておられたことを思い出しております。今は滝乃川学園史の執筆を中心に研究していると聞いています。
 日本におけるセガン研究を進めてきた研究者は、川口先生の御著書を見て、自身の研究の不備不足に気づいて、その研究成果の高さに驚いておられると思います。川口先生にそれを伝えないことが不思議です。また、川口先生の残念な気持ちも分かります。」

ある先賢への書簡より 一種の喧嘩売り

2018年09月07日 | 研究余話
 自分はいち早くフランス国立図書館からセガン1846年著書のマイクルフィルムを取り寄せたのだ・・・トとおっしゃるある先賢へ

 先生が、セガンの1846年著書のマイクロフィルムをフランスから取り寄せられたというご苦労の程は、かねてより耳に致しておりました。
 大きく遅れてセガン研究に参加いたしました私のすべきことは、諸先賢のご苦労に応えるべく、セガン著書を丹念に読み、まずはそこから事実を汲みとることだと思っております。また、ペリシエとテュエイエによる再組版本(再刊本)が刊行されている今日では、原本と再刊本との間の違い―些細であっても―を読み取り、そこから新しい「セガン」を描くことだとも思っております。

 この返信の真意は、先生は「取り寄せた」けれど、ちゃんと読んでおられませんよ、という喧嘩状。ちゃんと読んでちゃんと評価しておられれば、ぼくなど入り込む隙間などありゃしない。

屈辱と怒りを味わった昔ばなし―セガンにかかわって

2018年09月06日 | 研究余話
 いつの間にやら、清水寛先生編著になる『知的障害教育・福祉の源流ー研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター)の著者編集実務に引きずり込まれるようになった(2003年12月)。
 執筆を急遽命じられたセガン年譜、その他の入稿を終えた。出版社編集部員が「小社は著者からいただいた原稿をそのまま印刷に回すシステムでやっております。」私「はぁっ?つまり、貴社の編集部による編集作業はない、校正作業もない、と言うわけですね。」
 編集部員(そういうことなら、いてもしょうがないという存在だな、論理上。口の利き方は慇懃無礼だけけれど。)「はい。先生からいただくお原稿は電子入力出力データで完成稿をお願いしております。著者校も編集部による校正もございません。」
 私「昨年(2003年)12月初め、命じられて、史料もいただけず、自前で急遽収集し、読みこなし、『世界一級品のセガン年譜を作成するように』との厳命をいただき、激務の校務もこなさなければならず、この2か月間、神経をすり減らしてきています。ですが、清水先生やあなたのおっしゃるような完成稿にはとても及びません。原稿を引き下げます。そして二度と、原稿執筆は致しません。よろしく。」

 数日後、くだんの「変種者<ママ>」から、「社長とも相談し、この本に限って校正作業を入れることにしました。いただいたお原稿にこちらでアカ入れをさせていただき、それを先生に目を通していただき念校とさせていたきます。何卒、お原稿をいただけますように。」
 清水先生にも念を押され、原稿を再入稿。ゲラが返ってきた。
 真っ先に目立った「アカ」は、「何だ、この原稿は!ふざけている!」だった。そんなこと、ふつうは著者校に渡すゲラには書き込みませんねー。
 年譜故記述に要する字数を可能な限り少なくする。そのための方法として、体言止め、名詞止めの文体が多い。それが「ふざけている!」の一つ。
 セガンゆえ、当然、フランス語記述が()書きでなされる個所が多い。「なんだこれは!発音記号そのまま記述しやがってっ!」とアカで大書きされていた。

 なるほどね。編集作業をしないで出版業を営むわけだ。それでも業績作りに苦しむ研究者から出版依頼が絶えない。清水先生から、研究書出版を考え見つからないようなら社長に橋渡ししますよ、と言われたが、誰が、頼むか!自分の内なる業績確信には絶対にならないやり方だ。
 「学術出版社」と銘打ちながら、外国語辞書で揃えているのは薄っぺらい英語だけ。「セガン」はかなり多くの外国語を駆使して論じられてきた。・・・

その記述、近親結婚だよ

2018年09月05日 | 研究余話

松矢勝宏:「セガン教育論」について(『白痴の道徳的療法、衛生および教育』、大井清吉・松矢勝宏訳『イタール・セガン教育論』世界教育学選集100。明治図書、1983年、解説)よりーー

「1841年のアントワネット・コンスタンスとの結婚の時に届け出された(セガンの)身分証明書には弁護士となっているのである」

 アントワネット・コンスタンスはセガンの実の妹。松矢氏によると、セガンと実の妹とが結婚をした、ということになってしまっている。
 んな、アホな!

 「アントワネット・コンスタンスとの結婚」と「アントワネット・コンスタンスの結婚」とはまるで異なった現実が描かれてしまう。松矢氏のミスか、編集者による手入れの結果なのか。いずれにしても、バックグランドを知らない読者は、史実とは異なるセガンの姿を知り、必要感によっては、引用する‥‥。

死して後、名誉獲得、セガンさん

2018年09月04日 | 研究余話
 セガンはフランス時代、科学アカデミーからは賞讃されましたが、医学アカデミーはまったく無視を決めつけ続けました。実質は石を持て追われる如くアメリカに移住し、知的障害教育の活躍の場を求め、拓いていったのでした。
 それが、死後14年後の1894年7月4日に開催されたフランス医学アカデミー総会で外国人通信会員(membre corespondants étrangers、名誉会員)に選出されました。死後とはいえ、医学アカデミーの名誉会員に選ばれたということは、セガンがフランス医学界に、その業績を正式に認められた、ということになるわけです。
 この記事の出どころは、セガンも創刊にかかわったらしい、そして記事を投稿した『ラ・プレス』という大衆向け新聞の1894年7月5日号。

les hosices incurables 複数の不治者救済院

2018年09月03日 | 研究余話
 パリ(セーヌ県)の救済院・施療院を統括する「パリ救済院総評議会」(略称)は、1840年11月4日、「不治者救済院でセガン氏を白痴の子どもたちの教師として管理下に置くこと」を決定した。この決定書で「不治者救済院」はles hospices incurablesと原綴されている。つまり、不治者救済院が複数存在したことを示している。
 この情報はもう少し詳しく得なければならない。
 評議会のこの決定を伝えた医療関係の新聞で、「フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院」と「セヴル通り女子不治者救済院」との名称が上げられ、その両院にセガンが白痴の教師として雇用されることになった、と伝えている。しかし、これだけでは確定情報にすることはできない。さらに多くの不治者救済院があったかもしれないからだ。
 法的規定を見る。「パリ市の市民施療院、救済院および在宅看護に関する管理法規」に、男女それぞれ別の不治者救済院が規定されており、それ以外の不治者救済院規定はない。
 セガンの手によって「男子不治者救済院」の言葉は綴られていない。しかし、記録に登場するのはすべて男子であるから、彼が教育実践をした場はフォブール・サン=マルタン男子不治者救済院だと特定することが可能である。
 思い驕るつもりはないが、これが研究の常道的な手法だろう。その手法を発想さえしなかった大方のセガン研究者は、何たる怠け者なのだろうか。
 もちろん、現在のパリには「不治者救済院」という機関は存在しない。性格が性格だけに、限られた分野でしか、得たい情報に接することは困難だろう。しかし、ぼくのようなずぶの素人が発想し、手順を踏んで明らかにすることができたのだ。このことを強調しておきたい。
 ところで、現在のパリには、歴史案内標識がいくつも立てられている。さすが、歴史に対して謙虚な大都市のことはある、といつも思う。不治者救済院に関する歴史標識を写真で紹介しよう。まず、男子不治者救済院。10行目―11行目に情報がある。

 続いて女子。

 いずれも単なる「不治者救済院」という表記で、男女の別がない。不案内だな。
 パリの建築物は歴史定点の物語ではない。このことを痛感する。そして、女子の方は、建築物そのものが倒壊され、まったく別の現代建築物と替えられた。ここはもう、歴史をしのぶよすがさえない。残念なことだ。

ビセートル病院とセガン

2018年09月02日 | 研究余話
 ビセートル病院は巨大かつ歴史も深く文学の舞台にもなっている。「セガンを研究して40年」氏が「パリのビセートルを訪問したい、手続き頼む」と私に依頼したが、同病院は今も昔も、パリにはない、パリに隣接するクレムラン⁻ビセートル・コミューンにある。先の研究者はビセートルの所在地さえ知らないわけだから、後は何をかいわんや、である。
 セガンとビセートルとのかかわりの史実は、「パリ救済院総評議会」によってセガンは「白痴の教師」として雇用され、「男子不治者救済院」に続いて「ビセートル」に配属された、という関係である。その条件たるや、劣悪。「賄いつき、ベッド付き、報酬額未定、24時間常駐勤務、管理規定に絶対服従、直属上司(=医学博士)の管理に従う、など」。1842年10月から勤務を始めた。その期限は翌年12月末。その際、勤務成果についての審査を受けなければならない。
 これが日本のセガン研究者にかかると、「教師として招聘された」「就任するよう懇願された」「病院内に白痴学校を創設した」「小児病棟の責任者となった」「病院改革を断行した」云々となっている。
 どのような情報を基にすると、このような評価が生まれるのか、私には、その方法論の推定さえできない。歴史のねつ造が、こうして、平気でなされた次第である。

 ビセートルでのセガンの実践の詳細は、不明である。断片的な記述が残されてはいるが、全体像を知ることはできない。しかし、セガンの白痴教育力量は絶賛されていたことは、精神科医たちの書き残したエセーなどで理解出来る。ただ、独自路線故に、児童病棟管理者と直属の上司医学博士と、かなりの軋轢があったことは、セガン自身も綴っていることである。
 1843年12月20日、セガンの教育についての審議結果は厳しいものであり、馘首、24時間以内に退去、という処分が下された。これを、日本のセガン研究史では、自分の教育の願いがかなえられず、自主退職だった、とされてきた。

 生まれてからフランスを去るまで、エデュワール・セガンは、「神話」化された「聖人」なのであった―――。

セガンとブルヌヴィル

2018年09月01日 | 研究余話
 ブルヌヴィルという医学博士がいた。20世紀初頭のフランス小児医学・医療の改革者でフランス下院議員をも務めた実力派だ。「追放されたセガンをフランス医学界に復権させた人」と言われる。「特殊教育」(医療的教育学)理論の生みの親でもある。
 ブルヌヴィルは、セガンがフランス社会に残した足跡を、簡略に、紹介している。その紹介文の中に「セーヴル通りの不治者救済院」でセガンが実践した、とある。研究史ではこの説に忠実に従ってきたが、明らかな間違いである。フランス小児医学(史)の専門家である彼ともあろう人が、どうしてそんな誤りをしたのか。
 先に紹介したように、セガンが実践した場はフォーブル・サン=マルタン男子不治者救済院である。セーヴル通りの不治者救済院は女子機関であるから(法的名称は、セーヴル通り不治者救済院(女子))、セガンを知り尽くしているブルヌヴィルが何らかの理解違いをしてしまったとしか考えられない。
 フランス医療史は、フランス革命期以降、続いて1848年革命期以降・・・と画期することができるが、セガンの実践はフランス革命期以降、ブルヌヴィルの活躍期は1848年革命期以降を収束させる時期にあたる。この2期の違いは医療機関そのものに大きな変化をもたらしている。セガンに即して言えば、「男子不治者救済院」は廃院され、陸軍病院に性格を変えた。
 つまり、ブルヌヴィルの時代のパリの「不治者救済院」的な性格を持った病院は、セーヴル通りの不治者救済院後継のみだったのだ。彼はそこが女子専用機関であったとは理解しなかったようだ。
 こうしたブルヌヴィル的誤認がベースとなり、後世の日米研究者が、セーヴル通り不治者救済院=女子専用機関=サルぺtリエールという等式を立て、セガンはサルペトリエールで実践した、という論理が確立され続けている、という次第。なお、フランスでは、今もなお、セーヴル通り不治者救済院でセガンが実践した、とされている。

 いずれにしても、史実論証のための研究手続き(フィールドワーク、関係史資料発掘等)が手抜きされ、「立派な人の書き物だから間違いはあり得ない」という研究神話に盲従する、呆けた研究者群像が透けて見えるセガン研究の一場面である。

セガン第3実践(1841-1842年)「謎解き」の巻

2018年08月31日 | 研究余話
 機関名があれこれ出てきますが、略して書くと余計にややこしいので、お許しください。

 ①セガンの第3実践の場は、私がこの研究世界に顔を出し始めたころは、「サルペトリエール」。調べたら、当時は女子専用の機関。
 ②ところが、中野善達氏によるセガンの記録翻訳に登場する対象児はすべて男児。
 ③セガンは「サルペトリエール」の文字を一切記していない。
 ④だとすると、セガン以降の歴史の中で、いつしか、「サルペトリエール」が実践の場だと特定(断定)され、セガンが書き残している「不治者救済院」は「サルペトリエール」と読み替えられてしまった。
 この誤認史を簡単に綴ると、
 A. セガンをフランス医学界に「復権」させたブルヌヴィル医学博士が、セガンが「セヴル通りの不治者救済院」で働いたとした。じつはそこは女子専用機関。*セガンが実際に働いたところは、「フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院」
 B. タブロットというアメリカの教育学者が、それを女子専用機関である「サルペトリエール」だと断定した。
 C. 以降、アメリカと日本のセガン記述には、必ず「サルペトリエール」が登場する。フランスのそれは「セヴル通りの不治者救済院」だと、登場する。*藤井力夫氏と川口幸宏のセガン研究ではいずれも採用せず、「フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院」としてきている。
 D.このような事情から、わが国を代表するセガン研究者松矢、津曲各氏は「サルペトリエール」詣でをしばしばなさったと、伝え聞く。藤井氏がしたように、そして川口がしたように、これまでの「セガン信者」は、どうして、当事史料(新聞など)とか、公文書の類を探索しなかったのだろうか、と思う。確かに、アーカイブ化されていないので、脚で史資料を探すしかないのだが。