19世紀フランス史書には人物名Seguinは、複数名登場する。我らがセガンはそのうちの1人でしかない。史書関係で明らかにされているのは、1848年革命にかかわって登場するバルべ巣が中心になって組織した委員会メンバーであり、Edouard Seguinと署名しているから、間違いなく我らがセガンである。
しkし、アンファンタンによってサン=シモン家族の一員だと承認されたSeguinは我らがセガンではない、とする者もあらわれるに至っては、のほほんとしているわけにはいくまい。事実はこういうことである。
『サン=シモンおよびアンファンタン著作集』(1865)の第3巻に1831年5月の記録で、third degreeのメンバーとしてセガンの名が挙げられている 。それとは別にSébastien Charléty, Histoire du saint-simonisme (1825-1864). PAUL HARMANN, 1931. p.78.に 、1831年6月の記録として、「(入信希望者を除く)」とのカッコ書きを付け、サン=シモン主義「家族」全員79名の名前が載せられている。やはり3e degréの39人の一人としてSéguinの名を見ることができる。両著で使用されているメンバー・リストは第一次史料として扱うことができる。
だが、両史料に登場するSéguin(あるいはSeguin)が、我らがエドゥアール・セガンであるのかどうか、多少の検証を要するだろう。同時期、社会活動家でファースト・ネームをSéguin(あるいはSeguin)とする人物が複数名いることはすでに明らかにされているからである。
これまでの我が「セガン研究」では、セガンその人を追跡調査することによって、我らがセガンだと、断定してきた。今もその核心に揺らぎはない。しかし、そうではない、という論が登場し、支持を得ているとなれば、その論を検証し、批判をしなければなるまい。
だが、それはぼくの「仕事」なのだろうか。そんな戸惑いのある今。
しkし、アンファンタンによってサン=シモン家族の一員だと承認されたSeguinは我らがセガンではない、とする者もあらわれるに至っては、のほほんとしているわけにはいくまい。事実はこういうことである。
『サン=シモンおよびアンファンタン著作集』(1865)の第3巻に1831年5月の記録で、third degreeのメンバーとしてセガンの名が挙げられている 。それとは別にSébastien Charléty, Histoire du saint-simonisme (1825-1864). PAUL HARMANN, 1931. p.78.に 、1831年6月の記録として、「(入信希望者を除く)」とのカッコ書きを付け、サン=シモン主義「家族」全員79名の名前が載せられている。やはり3e degréの39人の一人としてSéguinの名を見ることができる。両著で使用されているメンバー・リストは第一次史料として扱うことができる。
だが、両史料に登場するSéguin(あるいはSeguin)が、我らがエドゥアール・セガンであるのかどうか、多少の検証を要するだろう。同時期、社会活動家でファースト・ネームをSéguin(あるいはSeguin)とする人物が複数名いることはすでに明らかにされているからである。
これまでの我が「セガン研究」では、セガンその人を追跡調査することによって、我らがセガンだと、断定してきた。今もその核心に揺らぎはない。しかし、そうではない、という論が登場し、支持を得ているとなれば、その論を検証し、批判をしなければなるまい。
だが、それはぼくの「仕事」なのだろうか。そんな戸惑いのある今。