セガンが彼の「1846年著書」で明記しているにもかかわらず、セガンを語る関係者、研究者の間では、まったく別機関が「常識」とされてきた。それについて、ちょっとややこしい謎解きになります。
①セガンは創設した白痴学校(公教育大臣管轄)への妨害と生徒が集まらないことから、精神障害、白痴などの隔離医療施設(救済院=精神病院)を統括する内務大臣に「白痴児の教育の場を世話してほしい」と直訴します。
②願いはかなって、「複数の不治者救済院(Hospices des Incurables)の白痴の教師として雇用」されることになりました。当時の関連法令を紐解きますと、パリ市内に男女それぞれ別機関の不治者救済院が設置されていますので、セガンは、男子不治者救済院と女子不治者救済院の2機関同時雇用の「白痴の教師」として雇用されたわけです(1840年10月決定)。
③ところがセガンは「力が及ばず」男子不治者救済院だけで勤務しました。これはセガンが当時の記録に明記していることです。そして同所での生き生きとした、そして知的障害教育の方法、教具・教材作成など、画期的な実践を遺しています。
話の本旨はこれだけですので、少しもややこしくありません。歴史記述、それを無批判にコピペし続け、その上別の解釈を加えたセガン研究史がややこしくしてしまったのです。私がセガン研究に招き入れられた当時2003年、このややこしい問題に疑問を感じ口を挟んだら、大げさでなく、机をドン!と叩いて叱責されてしまう、というような、定式化されたセガン像がそびえていました。(続く)
①セガンは創設した白痴学校(公教育大臣管轄)への妨害と生徒が集まらないことから、精神障害、白痴などの隔離医療施設(救済院=精神病院)を統括する内務大臣に「白痴児の教育の場を世話してほしい」と直訴します。
②願いはかなって、「複数の不治者救済院(Hospices des Incurables)の白痴の教師として雇用」されることになりました。当時の関連法令を紐解きますと、パリ市内に男女それぞれ別機関の不治者救済院が設置されていますので、セガンは、男子不治者救済院と女子不治者救済院の2機関同時雇用の「白痴の教師」として雇用されたわけです(1840年10月決定)。
③ところがセガンは「力が及ばず」男子不治者救済院だけで勤務しました。これはセガンが当時の記録に明記していることです。そして同所での生き生きとした、そして知的障害教育の方法、教具・教材作成など、画期的な実践を遺しています。
話の本旨はこれだけですので、少しもややこしくありません。歴史記述、それを無批判にコピペし続け、その上別の解釈を加えたセガン研究史がややこしくしてしまったのです。私がセガン研究に招き入れられた当時2003年、このややこしい問題に疑問を感じ口を挟んだら、大げさでなく、机をドン!と叩いて叱責されてしまう、というような、定式化されたセガン像がそびえていました。(続く)