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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンの教育実践の場をめぐる話の続き

2018年08月31日 | 研究余話
 セガンが彼の「1846年著書」で明記しているにもかかわらず、セガンを語る関係者、研究者の間では、まったく別機関が「常識」とされてきた。それについて、ちょっとややこしい謎解きになります。
 ①セガンは創設した白痴学校(公教育大臣管轄)への妨害と生徒が集まらないことから、精神障害、白痴などの隔離医療施設(救済院=精神病院)を統括する内務大臣に「白痴児の教育の場を世話してほしい」と直訴します。
 ②願いはかなって、「複数の不治者救済院(Hospices des Incurables)の白痴の教師として雇用」されることになりました。当時の関連法令を紐解きますと、パリ市内に男女それぞれ別機関の不治者救済院が設置されていますので、セガンは、男子不治者救済院と女子不治者救済院の2機関同時雇用の「白痴の教師」として雇用されたわけです(1840年10月決定)。
 ③ところがセガンは「力が及ばず」男子不治者救済院だけで勤務しました。これはセガンが当時の記録に明記していることです。そして同所での生き生きとした、そして知的障害教育の方法、教具・教材作成など、画期的な実践を遺しています。

 話の本旨はこれだけですので、少しもややこしくありません。歴史記述、それを無批判にコピペし続け、その上別の解釈を加えたセガン研究史がややこしくしてしまったのです。私がセガン研究に招き入れられた当時2003年、このややこしい問題に疑問を感じ口を挟んだら、大げさでなく、机をドン!と叩いて叱責されてしまう、というような、定式化されたセガン像がそびえていました。(続く)

エデュアール・セガンの教育実践の舞台

2018年08月30日 | 研究余話
 セガンのフランス時代の白痴教育の具体を知り始めたのは、中野善達訳『エドアール・セガン 知能障害児の教育』(福村出版、1980年)だった。セガンがフランス時代に公刊した教育記録のほとんどが翻訳収録されてる。
 バイブルのようにして読み進めていき、セガンの教育活動の具体をあれこれと想起する。その際、「この記録にある教育がなされた場はどこだろう?」と、1850年に発行されたパリ地図(現在のパリはその時のパリとはかなり異なっている)をディスクの傍らに広げながら、「土地柄」のようなものの想定も加えていく。
 実践前期の私人セガンが行った教育の場は、今もなお、特定できていない。(が、今は、類推はできる。ブルジョア街だ)
 中期から末期の「白痴の教師」との肩書を得た公人となったセガンの実践の場は、中野訳書によれば、サルペトリエール精神病院内の白痴学校とビセートル精神病院内の白痴学校。しかもセガンは、ビセートルの白痴学校を創設したことになっている。
 整理すると、中野善達氏によれば、
 個人的な営みで、教育記録はあるが、教育環境は不明。それに続いて、公的な営みで、1.女子専用の精神病院内白痴学校(添付図版上)、2.男子専用の精神病院内白痴学校(添付図版下)
となる。



 中野氏は、アメリカのセガン研究の成果も取り入れてこのように判断された。我が国のセガン研究もこの考えに従ってきている。

 私の一連の投書をお読みくださっている方は、お気づきだと思うが、「男子不治者救済院」はまったく考慮されていない。なぜなのだろうか?

労作教育の原型創生

2018年08月29日 | 研究余話
 セガンは、知的障害のある子どもたちの施設(la salle d'asile)には、子ども用庭園(les Jardins d'enfants)が必要だ、と論じたことで知られている。アメリカにわたってからのその発言が注目されてきた。仮に「庭園学校」と名付けることにする。
 「庭園学校」構想の源は、生地クラムシーでのセガンの幼少期の育ちにある、というのが我が国のセガン研究者の間での通念となっている(とりわけ、松矢勝宏氏、清水寛氏)。が、私はその考えには懐疑的であり続けている。何よりも、論証性がないからだ。では、「庭園学校」構想は、いつ頃生まれたのか?試行実践はあるのか?
 「1843年論文」ーフランス科学アカデミーの年報に発表されたもの。川口訳書『初稿知的障害教育論 白痴の衛生と教育』幻戯書房―に、白痴教育のための施設設備構想が綴られている。活動によって目的化された各部屋のほかに、「・・・・樹木に囲われ動き回るのに快適な幅のある散歩道の付いた広い中庭と、垣根付きのブドウ畑…」「スコップ、ツルハシ、一輪手押し車を使って掘り返す空地」「飼育小屋」などの活動空間の必要を綴っている。
 男子不治者救済院リトグラフ(私のfacebookカバー頁写真)や簡易ながらもその平面図(添付)などから、これらを想起することは不可能ではない。ここが、もともと修道院であったことから、これらは修道士の自活に必要な生産・労働が前提になっていたはずだ。セガンは、修道士たちの共同生活に、共同教育の可能性を認めてもいる(1846年著書)。

 ということで、セガンの知的障害教育論のもっとも重視されるべき労作教育の誕生を用意したのは、パリ北部郊外にある元修道院を再編活用した男子不治者救済院であった、と判断することができよう。我が国はもとより国際的なセガン研究史では全く検討されてこなかったところである。
 私が批判的に取り上げた先行研究の代表書物は、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流ー研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年)。

セガンが構想した「庭園学校」の原型?

2018年08月28日 | 研究余話

 上記図版(地図)は、パリ、フォブール=サン・マルタン男子不治者救済院。ここは1849年から陸軍病院として利活用されるので、地図が描かれたのはそれ以前。男子不治者救済院という名称機関になるのは1802年。半世紀に満たない存在でしかない。そういう意味でも、大変珍しい図版となる。セガンが「白痴の教師」としてパリ救済院総評議会によって雇用され、ここに配属されたのは1841年10月。彼は同時に、女子不治者救済院にも配属されたが、そちらで母Tらいていない。その理由は不明だが、セガンは「私には能力がなかった」とだけ綴っている。男子不治者救済院での勤務は1日4時間だけであったと、セガンは言う。こうした事情を解明することも、今後の作業で必要だ。
 ところで、「1843年論文」ー男子不治者救済院を経てビセートルで雇用されたが、再雇用のための審査用として、セガンが自主的に綴ったと判断できる、科学アカデミーの年報に発表されたもの―に、白痴教育のための施設設備構想が綴られている。活動によって目的化された各部屋のほかに、「・・・・樹木に囲われ動き回るのに快適な幅のある散歩道の付いた広い中庭と、垣根付きのブドウ畑…」「スコップ、鶴橋、一輪手押し車を使って掘り返す空地」「飼育小屋」などの活動空間の必要を綴っている。
 上記平面図から、これらを想起することは不可能ではない。ここが、もともと修道院施設であったことから、これらは修道士の自活に必要な生産・労働の活動が前提になっていたはずだ。
 セガンは、修道士たちの共同生活に、共同教育の可能性を認めてもいる(1846年著書)。

 渡米後に、公表された「庭園学校構想」(1875年著書)の原型がここにあるのだろうか。ちなみに、1846年著書にも「庭園」敷設の必要性が強調されている。

Somewhere in Time ver. Seguin no.2 白痴学校創設

2018年08月27日 | 研究余話
私:セガンが白痴学校を創設したと言われていますが、公文書のような当事資料が残されているのですか?
H:フランス医学界から追放されたセガンをフランス医学界に復権させた医学博士がそう言っているのですから、間違いないでしょう。
私:その人はセガンと同時代人なのですか?
H:違いますよ。フランス下院議員でもあり、その人の提案した法案の中に、白痴学校創設のことが述べられています。
私:当事資料ではないわけですね。
H:ほんと、あなたは疑い深い人だなあ。もっと謙虚になって歴史をごらんなさい。

 2003年にセガンについてご案内いただいたころのやり取り。その当時、私は、H氏はフランス語文献を読みこなしておられるものと信じ込んでいたのだが‥‥。
 この御方の「謙虚」という意味は、「偉い人が言っていることに間違いがあろうはずはない。」という意味そのものなのだと、やがてわかる時が来る…。

☆フランス近代初期の情報ツールについて。
フランスはポスター。情報発信者が印刷物を壁にベタベタ張る。聴衆はそれらを読んで情報判断をする。文盲者には識字者が読み聞かせる。その場で聴衆の間で議論が始まる。壁新聞。権力者側は独自の掲示板を持ってはいるが、壁新聞方式。

Somewhere in Time ver. Seguin

2018年08月23日 | 研究余話
下の添付写真を含む機関写真についての私の小論をご覧になって…
Dr.T ここへは2度訪問しましたよ、70年代ですが…。(書簡で。セガン研究の文脈内)
ヘチマ頭男 (心のつぶやき)この機関がセガンと密接にかかわった時期があると理解している人は、ただお一人だと思っていたけど、その方でさえ訪問はしたことがないとか。それをT先生はすでに70年代に訪問しておられる…。それにしては書きものに残しておられないよなー。

Dr. T 精神病者を繋ぎ止めておく鎖石が、当時はありましたね、今はどうかは知りません。(書簡で)
ヘチマ頭男 (心のつぶやき)ここは1世紀以上の間陸軍病院だし、その前の半世紀ほどは養老院が主体だったしで、鎖石は必要なかったんじゃあないかなあ…
Dr. T あなたはセガンがサルペトリエール院で実践していないと虚説を述べているようだけれど、この写真の機関でセガンが実践していたと、あなたは述べてますね。あなたが間違っていますよ。(書簡で)


 2011年にいただいた書簡。ああ、T先生は、このセーヌ川右岸で当時はパリ郊外にあった「男子不治者救済院(男子養老院)」を、相も変わらず、セーヌ川左岸の巨大女子精神病院サルペトリエールだと理解しておられるのだなあ。
 まあ、窓の格好は、両機関、よく似ているし巨大です、規模はまったく違いますけれどね、建築年代がほぼ一緒ですからね。
 これが「男子不治者救済院」の平面図だ!ブラボー!!!

 画面右の青いのはサン=マルタン運河。
 「中庭」のほかに、ジャルダンがあることが確認される。
 セガン実践の奥外部について、これで実感的にとらえることができるだえ王。
 セガンが構想した「庭園学校」の下地だろうか。43年論文の末尾をもう一度きちんと読み返したい。

フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院

2018年08月22日 | 研究余話
 セガンがパリ救済院総評議会によって「白痴の教師」として雇用され、11人の男子を対象とした教育実践を行った場、男子不治者救済院については、実際に何度も現地に足を運び、中にも入って時代をしのぶよすがを探してきた。しかし、交流センターとしての機能を持っている現機関の内部構造をしっかり把握することは困難である。
 いったい、元の修道院はどのような全体構造を持っていたのか、不治者救済院として強制転換させられた結果、どのような構造になったのか、示す文献とは全くであわない。2013年に、パリ歴史博物館にリトグラフ絵が展示されていたので、ようやく、おおよその建築外観構造が分かった。しかし、それ以上はわかっていない。
 今日、1850年以前のパリ地図を眺めていて、これまでとは違った「発見」があった。
 添付アドレスにリンクされているパリ地図に、うっすらと、平面図を読み取ることができる。http://paris-atlas-historique.fr/resources/$C3$A9volution+1790_1850.pdf
 もっともっと検索を続けようではないか。
(該当地域拡大図)

1830年革命で功労のあったセガンの次なる姿は…

2018年08月21日 | 研究余話
 特級コレージュの抑圧の「檻」の隙間から市中に飛び出した「猿」は、天下国家の戦いの渦中で果敢に戦い、胸に吊した三色の綬の先に功労賞メダルを下げた「人間」となった。そして、「人間」は元の「檻」に戻ることなく、新しい世界に参入することになった。親によって敷かれたレールの上を走ってきたが、その先を約束されているグラン・ゼコールへのレールを外れ、すでに得ていたバカロレア資格を利用して、法学部へと方向を変えた。それは親に対する明示されたセガンの意思表示であったろう。グラン・ゼコールではないとしても、親と同じ世界の医学部でないところに、セガンの強固な意思が見られる。法学部登録(入学試験による選抜などはなく、登録制である)は1830年11月5日となっている。
 ただ、法学部でのその後の修学軌跡を見ると、それは、本当に。心定めた新しい世界では無いと思われる。新しい世界との出会いの直感、それは、革命翌日にパリ市庁舎の壁に貼られた一枚のポスターとの出会いにあった。
「栄光の3日間」の翌日、7月30日、新しい立憲王政が出発準備をしていた。サン-シモン教家族の「至高の父親」であるバザール(Bazard)、アンファンタン(Enfantin)がフィリップ立憲王と面談し、新国家の指針を提案している。それは、彼ら2名の署名入りポスターとしてパリ、オテル・ド・ヴィル他、市中に張り出された。つづられている文言がセガンの胸にしみこんできた。「これだ!」

フィールドワークの面白さ

2018年08月21日 | 研究余話
 ぼくのセガン研究は、「○○(「セガン」を含め人名が入る)がそう言っていたから、そうだ」という、清水寛らの先行研究で多用されていた伝聞史を基本にするのではなく、その当時の確実性の高い史料に基づいて記述すること。昨日ここで紹介した、「1830年革命」で勇猛果敢に戦ったセガン像をリアルにしてくれた褒章者名簿の「発掘」などは、その一例。
 フィールドワークの面白さである。徒労に終わることが多いので、面倒でもあるけれど。
 今日は「裁判記事」を探し出さなくっちゃ。

1830年革命史料

2018年08月20日 | 研究余話
 1830年セガン18歳、特級コレージュ、サン=ルイ校在籍。この年の7月末に、復古王政を倒し立憲王政を樹立させた「7月革命」が起こされた。これにセガンが確かに参加した証となる文献を、どこかにやってしまったかと、半ばあきらめていたが、今日、ようやく見つけた。やれやれ、史資料実証性を保てるぞ。褒章者名簿の一部(公的資料)

 これで一気に、セガン「第二の誕生」を綴ることができる。