ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

les hosices incurables 複数の不治者救済院

2018年09月03日 | 研究余話
 パリ(セーヌ県)の救済院・施療院を統括する「パリ救済院総評議会」(略称)は、1840年11月4日、「不治者救済院でセガン氏を白痴の子どもたちの教師として管理下に置くこと」を決定した。この決定書で「不治者救済院」はles hospices incurablesと原綴されている。つまり、不治者救済院が複数存在したことを示している。
 この情報はもう少し詳しく得なければならない。
 評議会のこの決定を伝えた医療関係の新聞で、「フォブール・サン=マルタン男子不治者救済院」と「セヴル通り女子不治者救済院」との名称が上げられ、その両院にセガンが白痴の教師として雇用されることになった、と伝えている。しかし、これだけでは確定情報にすることはできない。さらに多くの不治者救済院があったかもしれないからだ。
 法的規定を見る。「パリ市の市民施療院、救済院および在宅看護に関する管理法規」に、男女それぞれ別の不治者救済院が規定されており、それ以外の不治者救済院規定はない。
 セガンの手によって「男子不治者救済院」の言葉は綴られていない。しかし、記録に登場するのはすべて男子であるから、彼が教育実践をした場はフォブール・サン=マルタン男子不治者救済院だと特定することが可能である。
 思い驕るつもりはないが、これが研究の常道的な手法だろう。その手法を発想さえしなかった大方のセガン研究者は、何たる怠け者なのだろうか。
 もちろん、現在のパリには「不治者救済院」という機関は存在しない。性格が性格だけに、限られた分野でしか、得たい情報に接することは困難だろう。しかし、ぼくのようなずぶの素人が発想し、手順を踏んで明らかにすることができたのだ。このことを強調しておきたい。
 ところで、現在のパリには、歴史案内標識がいくつも立てられている。さすが、歴史に対して謙虚な大都市のことはある、といつも思う。不治者救済院に関する歴史標識を写真で紹介しよう。まず、男子不治者救済院。10行目―11行目に情報がある。

 続いて女子。

 いずれも単なる「不治者救済院」という表記で、男女の別がない。不案内だな。
 パリの建築物は歴史定点の物語ではない。このことを痛感する。そして、女子の方は、建築物そのものが倒壊され、まったく別の現代建築物と替えられた。ここはもう、歴史をしのぶよすがさえない。残念なことだ。

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