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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

原稿修正作業

2018年07月10日 | 研究余話
 セガン、サン=シモン教どころではなくなってきた。尻に火がついてきた。
 既原稿「日記」及び「生活綴方」の修正作業。
 「日記」は、やはり、閉じられた教室空間だけの目線では、現実に対応できるはずはない。子どもたちはウエブ日記を発信している。たとえ教師の目に届かないにしても、教育実践の意識化には置く必要がある。子どもたちの発信のほとんどは、「発信したい」からではなく「受信してほしい」という「他者による自分への気づき」要求、すなわち、自己愛の一種。それっを、知らぬこと、とするわけにはいかない。しかし、これは、書くのに難しい。朝からうなっている。「匿名社会における自己愛の手段としての日記」。
 『生活綴り方』は、1980年代以降の研究成果を盛り込まなければならない。これも苦しいことだ。

9月16日の講演の大枠が決まる

2018年07月09日 | 研究余話
 主催者に講演内容にかかわって問い合わせをしたところ、次のような返答があった。
「セガンをコアにした障害児教育論(方法論、内容論ではなく、障害児教育を支える思想)をわかりやすくお話しいただくのがよろしいと思います。」
 これなら資料も準備できるし、ぼくのセガン論のコアを抽出できる。さあ、出発進行!以下、やり取りからーー

セガンの「戦い」の熱い思いを先生を通して感じられると期待してよろしいでしょうか。

青年が人生を切り開くための戦い…それがセガンにとっては医学の世界との戦いでした。全体的には沈着冷静な文章が綴られていますが、知的障害を持った子どもたちの生活・教育改善への思いは、それが妨げられたという怒り、そして願いを持って綴られている部分もあります。/演題から「青年期をどう生きるか」というようなことが読み取れるような表現が含まれていると、セガンの熱い思いも、語りやすいです。/よろしくお願いします。

分かりました。ますます楽しみになってきました。

結局、私のセガン研究は19世紀の青年期論を内なるテーマにしておりましたので。ただし、かっこいい青年期論ではないので、***先生を激怒させてしまったのですけれど。

かっこいいだけの人間には魅力を感じませんね。ひがみかもしれませんが、どこかウソっぽく感じてしまいます。
たぶん、セガンは躓いて、傷ついて、悩んで、隠して、偽って、でも心の奥底でやらねばならぬことに命を燃やしていたのだろうと勝手に想像しています。
そんな人だったら、生きていたらすぐにお友達になれそうです。

ありがとうございます。60分という時間の中であれもこれも、とはいきませんので、白痴教育に至る人生の遍歴、白痴教育のなかでの医学との軋轢、そして挫折、新しい世界を求めてアメリカへ移住、というような伏線を引いた話になると思います。こうした「経歴」的なことはレジメとして用意いたします。/会場の皆さんと、生きるってつらいけど楽しいね、というようなことが共有できればいいな、と思っています。よろしくお願いします。

「生きるってつらいけど楽しいね、というようなことが共有できれば」、おっしゃる通りです。

講演依頼を受ける

2018年07月08日 | 研究余話
 「SH情報文化研究会」主催者と懇談した今日、講演依頼を受けた。同主催者には、これまでの私の研究足跡などは概要で語っている。だから、それとかかわっての依頼だと判断できるが、障害児教育、セガンがキーワードになるのだろうか。同研究会のここのところの講演会(セミナー)内容から見ると、かなり異質であるようにおもう。
 こんな情報が伝えられた。
 
第76回SH情報文化研究会: 第3回アクティブラーニングゼミ研究成果発表会2018
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/02/32018--85-a4f0.html
第77回SH情報文化研究会: お仕着せアクティブラーニングは"人形芝居"~操られ上手を育てて何になる
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/04/--88-03c6.html
第78回SH情報文化研究会: 「創造性の作り方2」を中心に
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 0. 概況
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/post-5227-1.html
 1. 宮澤智美 「初めての実用システムと新企画への挑戦」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/post-5227-2.html
 2. 森下貴康 「自社ホームページの作成と販売サイトへの挑戦」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/78sh27--97-99fa.html
 3. 東 真澄 「"Eコレ"のこれまで・これから」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/post-5227-3.html
 4. 木津亜希菜 「明治時代の賃貸住宅経営」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/78sh37--99-4f9c.html
 5. 中村雄一 (なかよし学園)  「教育のあるべき形、カンボジア、ルワンダでの教育支援活動」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/78sh57--100-de9.html
 6. 飯箸泰宏 「創造力の作り方2 情熱エンジンと創造力」
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/post-5227-4.html
 7. 情報交換会(懇親会)
http://shyosei.cocolog-nifty.com/shyoseilog/2018/06/post-5227-5.html

以下は参加者情報

第76回・・・3大学合同のため参加者は約80名でした。マスコミ関係者ものぞきに来ていました。大学の教員と事務職、社会人教育関係者、システムハウスの経営者などが中心で、昔の教え子ものぞきに来ていました。
第77回・・・明治大学内の研究会(エクスターンシップ教育実践研究会)と共催だったため、明大関係者が多く、地方で行われた実践教育のため受け入れ先の農協・町役場の職員、このイベントに参加した学生たち、イベントにボランティア参加しただ大学の教授・准教授が混じっていました。元世界銀行副総裁だった日下部ご夫妻(飯箸のお友達、大学の1年上の先輩)も参加されました。
第78回・・・松戸で開催され、当社のスタッフや元スタッフの発表が多かったので、参加者はやや偏っており、中村雄一さん(テレビでは教育実践家のコメンテーターとしてよく登場する方、松戸市在住)の発表もあったので、そのご家族(奥様+お嬢さん2名)も参加されました。第77回の時にご参加くださった日下部ご夫妻と大岩元慶応大学名誉教授も参加されました。セカンドスクールとして有名なTENTOの教室運営者の澤田女史も来てくださいました。

 参りました。まったく未体験ゾーン。

続・閑話休題 白痴教育の道に入るまでのセガンの心は?

2018年07月07日 | 研究余話
 サン=シモン教徒となり、その直後の1831年5月13日に、7月革命への功労を褒章授与されたセガンの足取りは、やはり、不明である。セガンはサン=シモン教徒として、どのような具体的な活動を行ったのであろうか。そのことについては。伝導講義を検討することで多少の類推は可能だと思われるが、今は、とりあえず、「発見された」彼の論稿の存在などから、セガンの内面を探ることにしたい。

1.1832年8月、成年男子の義務であった徴兵に応じるため、徴兵検査を故郷で受けている。しかし、徴兵逃れをしており、1833年11月まで彼の姿を史資料的には確認できない。すがたを見ることができるのは法学部への再学籍登録手続きのためである。徴兵逃れを可能にしたのは父親の働きによるが、それにセガン自身の意思が加わっていたのかどうなのかは、不明である。徴兵検査は絶対に逃れる方便はなく、徴兵を逃れる公的な手段は存在しているから、何とも推測ができないのである。サン=シモン家族として共同生活をし、教義学習を進めていたのであろうか。この時期、サン=シモン教義書が年次刊で出され続けている。
2.セガンの名を見るのは、1836年8月、新興新聞寄稿した「芸術評論」である。調査によればセガンは、単著「芸術論」を出版する準備をしていた。広告が出されているから、相当練られた芸術思想を持っていたと推測される。これもきちんと分析する必要がある。台頭していた社会ロマン派に組したのかそうでないのかは、重要な視点となろう。
3.秘密結社運動に参加していると、これまで理解してきたが、その真偽を確立しなければならない。

 「芸術評論」執筆直後に、「死を覚悟するほどの病」に罹り、それから立ち直って白痴教育の道に入る。

閑話休題 セガンのごく初期パリ時代の心は?

2018年07月06日 | 研究余話
 セガンがサン=シモン教徒になった。それはどういう契機からなんだろう、としばしば考える。サン=シモン教徒になる前のパリでの足取りをたどってみる。セガン自身が綴っていないので、探しうる記録から判明していることは、
 1829年8月18日 サン=ルイ王立コレージュ〈特級コレージュの1校〉 第4次席賞受賞
 1830年7月革命参加
 1830年11月5日 法学部学籍登録(バカロレア有資格者)
 1831年5月9日 サン=シモン家族の第3位階に列せられる
 1831年5月13日 7月革命への功労を褒章授与される。

 特級コレージュはエコール・ポリテクニクなど高等専門学校(グランゼコール)の、いわば予科である。そこで非常に優秀な成績を収めていたのだから、いずれかのグランゼコール進学は間違いのないこと。しかし、7月革命参加を挟んで、法学部に籍を置いている。これはどういうことなのか?某氏が言うところの「人権意識に目覚めた」?そんな理由はあり得ない。法学部=人権意識などという「方程式」はあるわけはない。
 ひょっとして、コレージュを退学処分にあった?在籍者名簿をどうしても探し出すことができなかったので、それから明確にすることはできないのだが、「監獄」の異名を持つ同コレージュゆえ、それがないわけではない。ただ、7月革命時には学校は休暇に入っているはずだから、「監獄」の監視束縛から逃れるのはそう困難ではない。
 もう一つ考えなければならないのは、グランゼコールへの進学は何らかの事情で取りやめることになったとして、なぜ医学部ではないのか、ということだ。バカロレア有資格者だから登録さえすればよい。いわゆる「入学試験」はない。彼の弟も医学の道に進んでいることを考えると、医学部に進まなかったことの方が不思議なのだ。それで私は、父親とは別の道を進むという「青年期的人生選択の苦悩」があったのではないか、と仮説し続けてきているのだが、これも実証できることではない、本人が綴っていない限り。
 ただ、革命参加とサン=シモン教への入信とは、セガンの主体においては連続するものであったであろうとは、推測しうる。サン=シモンは革命手段による社会変革を肯定していないので、その弟子たちの総意として7月革命参加があったのではなく、「急進派」とも呼ぶべきものたちが武器を持って立ち上がっている(褒章は受けていない)。セガンはそこに接点を見出したのではないか。
 セガンはサン=シモン教運動に、どのような「使命」を見出したのだろうか。法学部は強い怠学傾向にあったようだから、サン=シモン教こそがセガンの生きる道に定められたのだろうことは間違いあるまい。
 

サン=シモン教徒の「ミッション」を追え (6)

2018年07月05日 | 研究余話
 ルシェヴァリエの演説は、リズミカルに、格調高く、ソルボンヌ広場に集った未来志向の若者たちの耳に届く。現在の同広場は、サン=ミッシェル大通りに面しているが、この当時は少し大通りから離れ、四方が建物に囲まれ、ソルボンヌ大聖堂前に位置していた。教会前広場である。
 演説は、若者たちの耳朶に心地よく響いたに違いない。
「我々は、哲学を持たないカトリックでもなければ、民主主義者を有しない王政主義者でもなければ、共和主義者のいない政体論者ではない。」
 1830年革命がなされた。しかし、カトリックが主導するフランス社会、立憲王政を継承すると新立憲王フィリップ王は宣言したが、実質的に民主主義者に対する弾圧が準備されつつあるときの動き、共和主義者無き共和制とも揶揄されるような政治動向。若者たちの革命に寄せた期待はことごとく夢に散るような現状にあって、サン=シモン教は、その現状をはっきりと批判し、口にする。そして、次のように、現状改革の具体を述べる-
「私は諸君らにいう:土着の宗教、統一政府、コミューン立法権、風習、教養、独自の制度をと。」

サン=シモン教徒の「ミッション」を追え (5)

2018年07月04日 | 研究余話
 ソルボンヌ広場に多くの生徒が集まり、サン=シモン教参事会メンバーのルシェヴァリエの演説に聞き耳を立てた。Jules André Louis Lechevalier (1806 –1862) はセガンとユゴーの丁度間の年の生まれ。まだ20代半ばのエコール・ポリテクニックに在籍中の超リート青年である。パリの名門コレージュの生徒たちにとっては憧れの存在であったに違いない。
 ルシェヴァリエの口から地球規模の人類史が語られ、その発展史と共に矛盾の存在が語られる。彼は、現代史における人類の二極対立を次のように説明する。
圧制者と被虐者
特権門閥と被追放一族
征服者と被征服者
生まれながらにして王の人と生まれながらにして臣下の人
封建領主と農奴
主人と奴隷
有産者と無産者
 二極対立を解消しなければならない。どういう立場で、どのように?



サン=シモン教徒の「ミッション」を追え! (3)

2018年07月03日 | 研究余話
 この作業の前提を忘れてはならない。サン=シモン教全体の主義課題である。あまりにも有名な次のスローガン。

Toutes les institutions sociales doivent avoir pour but l’amélioration du *ort moral, physiques et intellectual de la classe la plus nombreuse et la plus pauvre.
Tous les privileges de la naissanse, sans exception, seront aboli
A chacun selon sa capacité; à chaque capacité selon ses œuvres.

あらゆる社会制度は最大多数の者ともっとも貧しき者のしっかりした道徳 身体及び知性の向上を目的としなければならない。
生まれながらにして持つすべての特権は、例外なく、廃止される。何人もその能力に応じて、それぞれの労働による能力に応じて。

 サン・シモン教の本格的布教活動は、1831年,参事会メンバーのルシェヴァリエによるソルボンヌ広場での1月20日木曜日の「授業」を第一歩とした。「すべての学校の大部分の生徒で構成された大勢の集まりでのものであった。」と記録されている。
 その内容柱は次のようであった。
 フランスの現在の状況-民衆の一般的動向におけるサン・シモン教の位置-サン・シモン教の創設と普及-開始する授業の新しい性格-加入する人たちの使命

 




サン=シモン教徒の「ミッション」を追え (2)

2018年07月02日 | 研究余話
 ユゴーの『レ・ミゼラブル』の学生蜂起(1832年)のバック・グランドとして、マリウス(法学部学生)が群衆に演説をしている場面がある。あの演説場面はユゴーが仮想したのではなく、当時のプロパガンダ方法の重要な一つであり、行動を誘引するのに、非常に有効であった。
 さて、サン・シモン教はどのようにして広められていったのであろうか。
 もちろん、有識者を対象とした雑誌、新聞など活字媒体、次いでリトグラフ・版画などの視覚媒体、そして街頭ないしは屋内演説会。最後は、字が読めなくても理解される。典型的な大衆向けの方法だろう。
 昨日扉写真を示したサン=シモン経典の冒頭は、次のようにある。
「参事会メンバーのカルノーとルシェヴァリエールによってなされた教育内容(授業)
 週に1回2カ所で。それぞれ、ソルボンヌ広場で木曜日1時半から、グレネル・サントノレ通り45で土曜日夜8時半から。」
 街頭演説会が有力な方法として採用されている。別の文献で述べられている次のことの具体の形であった。「サン=シモンは死去した。浴びせられた数々の不快の念、軽蔑、侮蔑といったものを師は甘んじて受けてこられたが、その中に師の崇高な教義があることを確信持って崇拝するわれらは、その教義の布教に身を捧げるものである。われらはこの偉大な伝道が特に重要であると思うが故に、様々な妨害があるであろうが、それらに打ち勝たねばならない。」

サン=シモン教徒の「ミッション」を追え!(1)

2018年07月01日 | 研究余話
 セガンはサン=シモン教徒である。1831年5月9日、サン=シモン教「家族」の第3位階に列せられた。
 同「家族」のヒエラルキーは、教皇、続いてコレージュ(幹部会)、さらに第2位階、第3位階、予備位階(入信希望者)となる。セガンのアメリカ時代に綴られた回想記録に、次の人々の名が登場するが、教祖サン=シモンを除いて、すべて有力なサン=シモニアンである。
「サン・シモン著『新キリスト教』、今は亡き使徒オランド・ロドリグによる口述と文書による個人授業、議長ビュッシェ 著『歴史学』、カルノとシャルトンの『百科全書誌』、ピエール・ルルーとジャン・レノウの『大衆向け百科全書』。サン・シモンを除き、これらの人々と私は親しく交流を持った。そしてそれらの書物・雑誌は、私が理論医学の諸原則の奥義に分け入っていくための手がかりを得る、活用源なのである 。」(Edward Séguin:Origin of the treatment and training of idiots, American Journal of Education, t. II, pp.145-152. 1856. より。この文献の全訳は、拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い』幻戯書房、2014年、に収めた。)これらの人々のほかに、ぺレールきょうだいは良き実践的理論的同伴者であったようだ。
 さて、サン=シモン教徒として、セガンが何を使命として背負ったのか。サン=シモン教の教えの中からそれを知ることにしよう。次は教義書扉写真である。