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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話 余話・家庭教師

2018年07月24日 | 研究余話
 セガンは白痴の子どもの家に住み込んで教育をしていたのですが、それを「家庭教師」をしていた、と言い換えることができます。この家庭教師のことを、フランス語で、(le) précepteur(プレセプトゥール)といいました。学校制度が未整備な時代ですので、子どもに教育を施したいという家庭では家庭教師を雇ったわけですが、ほとんどの場合、身柄すべてを雇う、つまり、住み込みで全日子どものしつけ、教養などを教える、高度な専門職です。もともとは、王侯のお抱え教師に端を発しています。
 今日のような、学校教育の補習、予習等にあたる家庭教師とはまったく異なる、ということになります。ステレオタイプ視されたセガンの時代の家庭教師像を図版でお示ししましょう。ちなみに、セガンの父親も、セガン自身も、学校教育ではなく、家庭教師によって人格形成をされた年月があったのです。

 なお、セガンは、子どもの成長過程を発達段階で、次のような他者のかかわりを一般論として綴っていることは、注目に値します。

乳母
里親(代親)
家庭教師
そして
寄宿学校

 セガンの子どもの成長過程に寄せる目線は、決して「普通の家庭」ではなかった、ブルジョアジーや貴族などの「富裕な家庭」であった、ということです。これは、公的機関における彼の白痴教育経験からきているのではなく―なんたって救済院等に収容された白痴の子どもは、ある意味「捨てられた」のですからー、白痴の子どもを養育することのできる経済的基盤がある家庭を対象とした家庭教師を務めていたのですから。

〇先に、フランスの古いタイプの「家庭教師」について簡略にご紹介した。セガンの白痴教育のうちの個人教育を説明するうえで必要な、その時代の職能・職種だ。
 職能・職種区分の呼称であるので、「家庭教師」に向かって、あるいは「家庭教師」自身が、「家庭教師」などは自他称しない。日本語にすれば、単に、「先生」である。しかし、先生にもいろいろとあって、小学校レベルのことを教える先生、中等教育レベルを教える先生など、教育内容や方法の区分をした、それぞれの先生呼称をする。
 それとは別に、平伏低頭すべき威厳を持ち、尊敬に値する先生は、教育段階の違いに依らず、言ってみれば小学校から大学までの先生すべてが、同一呼称となる。maître(メートル)と綴る。「主人」「親方」に相当し、わが国でかつて言われた「師の影三尺下がって踏まず」の「師」に相当する。「師事」はここから来た。絶対的服従関係にある。もちろん、それだけに、教えられたことが実り豊か、満足度というか期待度が極めて高いわけである。
 もちろん、尊称として使用されるのが一般的であることは、言うまでもないだろう。「師の影三尺踏まず」と言いながら、「師」の肩を抱く学生(輩)がいるのが常態なのであるから。

セガンのパリ時代にはパトロンがいた(3)

2018年07月23日 | 研究余話
質疑 セガンの実践の具体を語ってください。

応答 「白痴に教育は不可能だ」と理解されていたところへ、エデュアール・セガンと名乗る、まさに無名の、今風に言うと、ただの一般人が、アドリアン H.という8歳の、唖で白痴のような症状を見せている少年の教育に成功した、というニュースが、アメリカ、イギリス、そしてヨーロッパ各国に、あっという間に広がりました。1839年のことです。
 アドレアン少年は、ネコやネズミのごとくで、3秒としてじっと立っていられない、という今日でいう多動性症状を伴う知的障害児でした。セガンは彼にかかわるとっかかり実践を次のように行っています。(1843年著書より部分引用)
「私は彼を肘掛けのない椅子に座らせた。私は彼の正面に座り、彼の手と膝とを、それぞれ、私の手と膝とで挟んだ。私の手の一本は彼の腿の上で彼の二本の手を固定させ、もう一本の手は、動いて止まない彼の顔を絶えず私の正面に据えるように戻す。私たちは、食事と睡眠の時を除いて、5週間、そうし続けた。」
 こうした取り組みが語っていることは、セガンとアドレアン少年とが起居を共にしていた、ということです。時代状況で言いますと、セガンは住み込みの家庭教師をしていた、と理解できます。かなり上層階級の家庭であったことが、これで分かります。
 アドリアンに対する個人教育がいつまで行われていたのかは明確になっていません。しかし、セガンが私塾のような、しかし文部大臣公認の学校を設立したときにアドレアンは生徒の一人に加わっていますし、その後もH.家は、セガンの良き支援者、後援者であったように思われるセガンの記述も見られます。

 H.家が禁治産となることを避ける目的でアドレアンの教育をセガンに依拠したのが事の発端であったとしても、H.家は、セガンの白痴教育の広がりを支援するパトロンの役割を果たした、ということでしょうか。

セガンのパリ時代にはパトロンがいた(2)

2018年07月22日 | 研究余話
質疑 知的障害を持つ子どもの教育なら、それなりの専門的な学校があったでしょう。特別支援学校のような。セガンは、そういうところの教師を務めていたのですか?
応答 障害児教育の歴史についてお話しするつもりはありません。ご自身でお調べください。
質疑 では質問を変えます。セガンは「知的障害教育の先駆者」だということですが、その教育の具体の例をご紹介ください。
応答 まず、セガンは、どのような境遇の子どもの教育に携わったのか、についてお話ししますね。
 ちょっと不自由だなと思われるような「知的障害」者は社会の中で働くことがありましたが、症状が重くなればなるほど、彼らに対する社会の扱いは、どんどん、劣悪になっていき、一般家庭では、それとわかった段階で、殺害する、捨てる、見世物対象として売り飛ばす、などがなされていました。「それなりに育て上げる」という考えも実践もない、というのが実際のところです。
 理由は「絶対的貧困」。かの『エミール』の著者ジャン・ジャック・ルソーがわが子5人すべてを乳児院・孤児院に捨てた話は有名ですね。
 一方、まだ残る封建遺制の中で金銭的に困らない旧貴族や新興ブルジョアジーの家庭とて、知的障害を持つ子どもがおります。セガンが個人の形で教育した子どもたちは、これらの社会階層に属していたと思われるのです。要は、養育可能な家庭の知的障害を持つ子どもの教育に携わったということですね。(この項続く)

セガンのパリ時代はパトロンがいた (1)

2018年07月21日 | 研究余話
ある質疑 セガンにはパトロンがいた、という荒唐無稽なお話が出ていましたが、ちょっと乱暴ではないかと思い、質問します。具体的に、パトロンとは誰ですか?

応答 当時の学歴ヒエラルキーから見事にドロップアウトしたセガンです。19世紀フランスの精神・文化状況を描いた書物を紐解きますと、セガンのドロップアウトは別に特異なことじゃない、法学部というところは、地方のお金持ちのお坊ちゃんが親の資産をあてにしてどんちゃん騒ぎ、いや放蕩三昧、というステレオタイプで描かれています。セガンはそうじゃない!という証明などできませんので、可能性として、放蕩息子像を描いてみるのも一つの研究姿勢ですね。
 セガンは法学部を未修了、従って法学士の資格も持たない、当然、弁護士の資格など持っているはずはないわけです。しかし、1841年に結婚した実の妹の「立会人」の一人を務めていますが、その宣誓書には「弁護士 エドゥアール・セガン」と名乗っています。身内に対して見栄を張ったのでしょうね。私にも覚えのあることです。親の資産をあてにしてパリ生活を送っている身としては、かっこつけなければいけない、という強迫観念が起きるのも当然かと。
 セガンの生誕の地クラムシーの市長からセガン家の資産一覧表(取得、放棄、売却、譲渡など)をいただきました。それによると、1830年以降、急激に土地資産を失っていることが分かります。ここに、父親がセガンのパリ生活を財政的に支えていたのではないか、という類推が働く根拠があります。また、1832年、徴兵制社会ですから、セガンも徴兵されます。しかし、代替人(ランプランサ―)を供出することによって徴兵逃れが可能なシステムもありましたが、セガンの父親は、多額の謝礼を支払って代替人を供出しているのです。
 つまり、父親がパトロンであった、ということです。 (続きます)

サン=シモン教徒セガンのパリの居住地(3)

2018年07月20日 | 研究余話
 セガンがパリで構えた居はどこなんだろうなあ、などと考え始めたのが、彼の足跡を追うフィールドワークの始まりでした。特級コレージュ時代は完全寄宿生活のはずですから、コレージュ就学を終えた後アメリカに渡るまでのほぼ20年という期間です。手掛かりは公的な文書。なんせ、日記・手紙など残っておりませんから。
 いやー、面白い。親元を離れた青年期男子。わたしと重ねてしまうという不埒なことなども考えます。私は親元を離れて結婚するまで東京及び近郊で一人暮らし。下宿を転々…。1日だけで逃げ出したり、だらしない生活にあきれ果てた大家さんが、もっとしっかりして生きていきなさい!と教訓をくださり追い出されたり。食べるものが食パンの耳だけの日々が続くこともあれば、ギャンブルで臨時収入があったときなどは豪華レストランで一人わびしいフルコース‥。
 誘惑と紛争の多い大都会は青年に多様な生き方を提供してくれます。
 で、セガンですが、新しい文書類が見つかるたびに、居が移されています。巷間に言われる「白痴の子どもを養った」というほどに「落ち着いていた居住空間」はとても考えられません。

 彼のパリ時代の最後の居住地は、彼が残した1847年刊行の著書の著者紹介ページに記されていました。添付写真の界隈ロシェ通りです。今日では国鉄・長距離発着駅サン=ㇻザール(1837年開業)からさほど遠くはありませんが、ロシェ通りそのものは閑静で高級感あふれるところです。

 1842年に結婚し翌年夏に長子誕生、・・・等、ロシェ通りのアパルトマン(世帯専用アパート)は、彼のパリ生活の中では最も長期にわたる住まいであったことが考えられます。この地で、国境を越えた白痴教育の在り方を同志と語り合い、白痴の子どもたちの社会的自立の方策をその親たち、またセガンが教育した白痴者たちと練り、社会変革の在り方を他の戦士とともに語り合ったのです。
 これらはすべて、サン=シモン教徒として「天啓」を受けた一連の行動なのでした。(終わり)

追記 2007年に始めてこの地を訪問しています。その日(9月8日)の日記からー
「27番の路線バスで終点サン=ラザール下車。キヨスクでパリ区割り地図を購入し、さっそく8区ドュ・ロシェ通りを探す。サン=ラザールから放射状に出ている道の一つがそれ。やや上り坂。
 ドュ・ロシェ通り35が、セガンがフランス時代に残している足跡の、最後の所である。せめて界隈の雰囲気だけでも、セガンとの共時を楽しむことにしよう。
 彼がこの界隈で何を思索していたのだろうか。その雰囲気だけでも体感したいと思い、足の赴くままに、周辺を散策した。ドュ・ロシェ通りと交差するド・ビヤーンフェッサンス通りは、古く立派な建築物が両側を占めている。そしておもしろいというか、歴史的にいえばじつに対比的な象徴建築物が向かい合わせているではないか。奇数列はパロワスの学校すなわち教区学校(女子)、偶数列は公教育学校すなわち無宗教学校。教区学校は固く門が閉じられていたが、公教育学校は、昼時のこと、子どもを出迎える親が群れていた。教区学校はまことに静であり、公教育学校は、フランス国旗が翻り、公的所有を誇示していた。しきりに写真を撮るぼくに、すれ違ったお歳を召したマダムが笑みを向けてくれた。「学校の写真を撮っています。」といわずもがなのことを言ってしまった。(後略)」

サン=シモン教徒セガンのパリ居住地(2)

2018年07月19日 | 研究余話
 パリ古文書館に蔵されていた一通の公教育大臣による視学長官に宛てた諮問文書に添え書きされていた一文にセガンの居住地を示す記述がある。セガンは公教育大臣に、自分が開発した教育方法を実験するための教育施設の開設を許可してもらいたい、と請願していた。公教育大臣はその請願(直訴だなあ)に応えるべく視学長官に審査機関の設置ならびに審査を要請した。権力関係で言えば、命令を下した、というべきだろう。この命令文書の欄外に、「セガン氏の住所ラ・ショッセー・ダンタン通り41」という記述が含まれている。1839年9月6日付文書。
 さて、同所はどんなところか?まずは古いパリの写真から。

 この写真はセガンが居住していた時のままではない。残念ながら。正面に立つサン・トリニテ教会は1860年代の建築物。だから、この写真は現在のそれを映していると見た方がいいだろう。次は現在写真。初文と賑わいを見せている。デパートあり映画館ありの繁華街。古い時代とはずいぶん異なる雰囲気だ。

 次の写真はサン=トリニテ教会を背にして通りを写したもの。写真説明に従うと、セガンは道路右側列建築物のいずれかに住んでいたことになるが、番地41というのはどのあたりになるのd老化。道路終わり番地が59なので、建築物戸口の数を探せばわかるかもしれない。いずれにしても、高級な集合住宅だと判断できる。この通りのいずれかに、セガン実践のパトロンH氏が居を構えていた、というのが私の現時点における仮説である


 
 

サン=シモン教徒セガンのパリ居住地(1)

2018年07月18日 | 研究余話
 セガンのフランス時代は1850年以前。旧パリという都市に住まいを定めていた。彼の居住するところは一か所にとどまらない。旧パリ時代のパリの通り名地写真を入手できたので、それを、居住年代はバラバラに提示することになるが、サン=シモン教徒セガンの「謎」も「事績」も、多少迫ることができるかもしれない。
 まず手始めにサン=ドゥ二通り。

 関係地図

 セガンが在籍した法学部学籍簿に記載された居住地の一つがサン=ドニ通り374である。現在のパリを歩いて該当地を探し当てる努力をした。「旧サンドニ通」という表示に惹かれてサン=ドニ門まで歩き、さらにその外つまりファブール・サン=ドニを歩き回ったが徒労に終わった。この写真と地図をその時に入手していれば、行動が少しは変わっただろうか。
 このままでは判然としないが、セガンが、この通りのいずれかのアパルトマンに居住していたわけである(届け出)。当時のパリ2区。
探し歩いた2007年9月のサン=ドゥ二通り関係写真。


 そして巨大なサン=ドゥニ市門


サン=シモン教徒の「ミッション」を追え (7)

2018年07月17日 | 研究余話
 1830年ごろから始められたサン=シモン教伝道の第一の場所は、パリ・ソルボンヌ教会前庭であった。教会の反対側道路を隔てたところに、セガンが極めて優秀な成績を収めた記録が残る、特級コレージュ・サン=ルイ校がある。
 広場は、現在でも、様々な団体による各種パーフォーマンスが催されており、行きかう人々の足をしばしば楽しませている。サン=ルイ校は「監獄」の異名を持ち、現在もなお、超エリート予備軍を輩出する名門校として存在している。

ソルボンヌ構内(パリ第1大学)の大聖堂院ファサード

ソルボンヌ広場に面した大聖堂ファサード

セガンが在籍した旧特級コレージュ、サン=ルイ

 もう一か所で伝導が行われたrue de Grenelle-Saint-Honoré, n0 45.は現行パリにはない住所。 1868年当時の地図と写真を見つけた。(パリ大改造前) ルソー通りとサントノレ通りとをつなぐ短路。現在はルソー通りの一部を構成している。しばしばパリ歩きをしたところだ。懐かしい。


 次のように説明されている。
GRENELLE-SAINT-HONORÉ (RUE DE). Commence à la rue Saint-Honoré, nos 158 et 164 ; finit à la rue Coquillière, nos 17 et 19. Le dernier impair est 53 ; le dernier pair, 48. Sa longueur est de 271 m. — 4e arrondissement, quartier de la Banque.
Après l’achèvement du mur d’enceinte de Paris, sous Philippe-Auguste, le quartier où se trouve aujourd’hui cette rue fut construit rapidement. Un chemin hors Paris longeait le mur de cette enceinte et portait le nom de Guernelles, en raison d’un propriétaire qui y demeurait. À la fin du treizième siècle, une rue bordée de constructions avait remplacé l’ancien chemin. Des titres la nomment tantôt rue de Guarnelle, Guarnales, et enfin de Grenelle. — Une décision ministérielle du 25 ventôse an XIII, signée Champagny, fixa la largeur de cette voie publique à 10 m. En vertu d’une ordonnance royale du 2 février 1843, cette largeur devra être portée à 12 m. Les maisons nos 1, 3, 7, 19, 41, 43, 45, 47, 49 et 51 sont alignées.
(出典:Charles Marville › Vues du Vieux Paris

『山芋』の真実2 生活綴方 簡単なまとめ

2018年07月16日 | 研究余話
 地域規模の大きさ、影響の強さなどから言えば,北海道綴方教育連盟、北日本国語教育連盟が代表的な組織であった。また、各地各組織の同人誌や指導文集は相互に寄贈交換され、教師の教育実践・教育理論の質を高めることに資している。これは植民地を含む我が国戦前の生活綴方運動の残した大きな遺産である。
 『大関松三郎詩集 山芋』(寒川道夫編集、1951)、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』(無着成恭編集、1951)、『土は明るい-一四歳少年の生活記録』(宍戸秀男作品、小鮒寛解説、1952)は、いずれも、前期中等教育発達段階の詩・文であるが、たんに教育の「証言」に留まらず、戦後教育を進めていく上での確かな指針となった。それは、通学しつつ貧困地帯の生産労働に従事する少年たちの明日を展望しきれない苦しみも綴られているが、現実を逞しく生き抜く生活力の描写が、同時代を生きる人々に勇気と励ましを与えた。
 (参考文献)
滑川道夫『日本作文綴り方教育史』国土社、1977-1983。川口幸宏『生活綴方研究』白石書店。野地潤家編『作文・綴り方教育史資料』桜楓社、1986。太郎良信『生活綴方教育史の研究』教育史料出版会、1990。

 論述の中心主題を抽出すれば、以上のようになる。

『山芋』の真実

2018年07月12日 | 研究余話
 生活綴方史で名作中の名作として扱われてきた大関松三郎詩集『山芋』(寒川道夫指導)は、戦前生活綴方の中でも珠玉の成果として、戦後、語り継がれ、教科書等にも掲載され、大いに学ばれてきた。
 しかし、それは寒川先生の手になる贋作である、という研究が太郎良信氏(たろうらしん・文教大学教授、日本作文の会)によって発表された(1996年、山芋の真実 教育史料出版会)。寒川先生ゆかりの人々は悲しみに沈み、また激怒し、反論・反証の行動に出たのは当然であった。
 『山芋』という少年詩集が戦前の教育実践の精華かどうか、という検証で言えば、ぼくも、戦前の数多くの諸史料には見いだせない、という立場を取り続けてきた。だから、「戦後に発表された(にしか過ぎない)作品」だと。しかし、太郎良氏の論説は、そこを踏み台にし、寒川教育実践全体についての論評に及んでいるかの印象を読者に与える。太郎良氏に対する反論・反証の立脚とするところは、踏み台論から始まっているのではなく、実践全体の論評から始まる。そして寒川人格否定・攻撃だ、という立場を導いた。
 この辺りから、ぼくは、戦前生活綴方史研究から遠のき始めているので、論争の渦中にはいない。しかし、胸につかえるものがあるのは事実。
 今回の原稿書きは、これに及ぶか、及ばないようにするか。正念場だ。ぼくの立場はあくまでも、戦前の諸史料には、松三郎の詩集『山芋』の幹の部分作品(詩)を見出せない、だから「『山芋』を戦前生活綴方教育の成果そのもの」だとは実証しえない、という立場を貫くしかないのだろうな。

 数年以上にわたって務めた研究会・研究集会のコーディネーター・司会者として、それらの研究協力者であり研究助言者であった寒川道夫先生から、直接お教えをいただき(70年代以降をどう教育者として生きるか、詩を教えるとはどういうことか、戦前から何を学ぶか、など)、また、研究集会で同宿の際、風呂場で背中を流しあう語りもしたことで、先生の背中にくっきりと残る拷問の痕を知る身としては、「真実」を綴ることが、寒川先生への「恩返し」だと思う。虚妄に走り、嘘をつくことはしたくない。