セガンは白痴の子どもの家に住み込んで教育をしていたのですが、それを「家庭教師」をしていた、と言い換えることができます。この家庭教師のことを、フランス語で、(le) précepteur(プレセプトゥール)といいました。学校制度が未整備な時代ですので、子どもに教育を施したいという家庭では家庭教師を雇ったわけですが、ほとんどの場合、身柄すべてを雇う、つまり、住み込みで全日子どものしつけ、教養などを教える、高度な専門職です。もともとは、王侯のお抱え教師に端を発しています。
今日のような、学校教育の補習、予習等にあたる家庭教師とはまったく異なる、ということになります。ステレオタイプ視されたセガンの時代の家庭教師像を図版でお示ししましょう。ちなみに、セガンの父親も、セガン自身も、学校教育ではなく、家庭教師によって人格形成をされた年月があったのです。

なお、セガンは、子どもの成長過程を発達段階で、次のような他者のかかわりを一般論として綴っていることは、注目に値します。
乳母
里親(代親)
家庭教師
そして
寄宿学校
セガンの子どもの成長過程に寄せる目線は、決して「普通の家庭」ではなかった、ブルジョアジーや貴族などの「富裕な家庭」であった、ということです。これは、公的機関における彼の白痴教育経験からきているのではなく―なんたって救済院等に収容された白痴の子どもは、ある意味「捨てられた」のですからー、白痴の子どもを養育することのできる経済的基盤がある家庭を対象とした家庭教師を務めていたのですから。
〇先に、フランスの古いタイプの「家庭教師」について簡略にご紹介した。セガンの白痴教育のうちの個人教育を説明するうえで必要な、その時代の職能・職種だ。
職能・職種区分の呼称であるので、「家庭教師」に向かって、あるいは「家庭教師」自身が、「家庭教師」などは自他称しない。日本語にすれば、単に、「先生」である。しかし、先生にもいろいろとあって、小学校レベルのことを教える先生、中等教育レベルを教える先生など、教育内容や方法の区分をした、それぞれの先生呼称をする。
それとは別に、平伏低頭すべき威厳を持ち、尊敬に値する先生は、教育段階の違いに依らず、言ってみれば小学校から大学までの先生すべてが、同一呼称となる。maître(メートル)と綴る。「主人」「親方」に相当し、わが国でかつて言われた「師の影三尺下がって踏まず」の「師」に相当する。「師事」はここから来た。絶対的服従関係にある。もちろん、それだけに、教えられたことが実り豊か、満足度というか期待度が極めて高いわけである。
もちろん、尊称として使用されるのが一般的であることは、言うまでもないだろう。「師の影三尺踏まず」と言いながら、「師」の肩を抱く学生(輩)がいるのが常態なのであるから。
今日のような、学校教育の補習、予習等にあたる家庭教師とはまったく異なる、ということになります。ステレオタイプ視されたセガンの時代の家庭教師像を図版でお示ししましょう。ちなみに、セガンの父親も、セガン自身も、学校教育ではなく、家庭教師によって人格形成をされた年月があったのです。

なお、セガンは、子どもの成長過程を発達段階で、次のような他者のかかわりを一般論として綴っていることは、注目に値します。
乳母
里親(代親)
家庭教師
そして
寄宿学校
セガンの子どもの成長過程に寄せる目線は、決して「普通の家庭」ではなかった、ブルジョアジーや貴族などの「富裕な家庭」であった、ということです。これは、公的機関における彼の白痴教育経験からきているのではなく―なんたって救済院等に収容された白痴の子どもは、ある意味「捨てられた」のですからー、白痴の子どもを養育することのできる経済的基盤がある家庭を対象とした家庭教師を務めていたのですから。
〇先に、フランスの古いタイプの「家庭教師」について簡略にご紹介した。セガンの白痴教育のうちの個人教育を説明するうえで必要な、その時代の職能・職種だ。
職能・職種区分の呼称であるので、「家庭教師」に向かって、あるいは「家庭教師」自身が、「家庭教師」などは自他称しない。日本語にすれば、単に、「先生」である。しかし、先生にもいろいろとあって、小学校レベルのことを教える先生、中等教育レベルを教える先生など、教育内容や方法の区分をした、それぞれの先生呼称をする。
それとは別に、平伏低頭すべき威厳を持ち、尊敬に値する先生は、教育段階の違いに依らず、言ってみれば小学校から大学までの先生すべてが、同一呼称となる。maître(メートル)と綴る。「主人」「親方」に相当し、わが国でかつて言われた「師の影三尺下がって踏まず」の「師」に相当する。「師事」はここから来た。絶対的服従関係にある。もちろん、それだけに、教えられたことが実り豊か、満足度というか期待度が極めて高いわけである。
もちろん、尊称として使用されるのが一般的であることは、言うまでもないだろう。「師の影三尺踏まず」と言いながら、「師」の肩を抱く学生(輩)がいるのが常態なのであるから。