ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

サン=シモン教徒セガンのパリの居住地(3)

2018年07月20日 | 研究余話
 セガンがパリで構えた居はどこなんだろうなあ、などと考え始めたのが、彼の足跡を追うフィールドワークの始まりでした。特級コレージュ時代は完全寄宿生活のはずですから、コレージュ就学を終えた後アメリカに渡るまでのほぼ20年という期間です。手掛かりは公的な文書。なんせ、日記・手紙など残っておりませんから。
 いやー、面白い。親元を離れた青年期男子。わたしと重ねてしまうという不埒なことなども考えます。私は親元を離れて結婚するまで東京及び近郊で一人暮らし。下宿を転々…。1日だけで逃げ出したり、だらしない生活にあきれ果てた大家さんが、もっとしっかりして生きていきなさい!と教訓をくださり追い出されたり。食べるものが食パンの耳だけの日々が続くこともあれば、ギャンブルで臨時収入があったときなどは豪華レストランで一人わびしいフルコース‥。
 誘惑と紛争の多い大都会は青年に多様な生き方を提供してくれます。
 で、セガンですが、新しい文書類が見つかるたびに、居が移されています。巷間に言われる「白痴の子どもを養った」というほどに「落ち着いていた居住空間」はとても考えられません。

 彼のパリ時代の最後の居住地は、彼が残した1847年刊行の著書の著者紹介ページに記されていました。添付写真の界隈ロシェ通りです。今日では国鉄・長距離発着駅サン=ㇻザール(1837年開業)からさほど遠くはありませんが、ロシェ通りそのものは閑静で高級感あふれるところです。

 1842年に結婚し翌年夏に長子誕生、・・・等、ロシェ通りのアパルトマン(世帯専用アパート)は、彼のパリ生活の中では最も長期にわたる住まいであったことが考えられます。この地で、国境を越えた白痴教育の在り方を同志と語り合い、白痴の子どもたちの社会的自立の方策をその親たち、またセガンが教育した白痴者たちと練り、社会変革の在り方を他の戦士とともに語り合ったのです。
 これらはすべて、サン=シモン教徒として「天啓」を受けた一連の行動なのでした。(終わり)

追記 2007年に始めてこの地を訪問しています。その日(9月8日)の日記からー
「27番の路線バスで終点サン=ラザール下車。キヨスクでパリ区割り地図を購入し、さっそく8区ドュ・ロシェ通りを探す。サン=ラザールから放射状に出ている道の一つがそれ。やや上り坂。
 ドュ・ロシェ通り35が、セガンがフランス時代に残している足跡の、最後の所である。せめて界隈の雰囲気だけでも、セガンとの共時を楽しむことにしよう。
 彼がこの界隈で何を思索していたのだろうか。その雰囲気だけでも体感したいと思い、足の赴くままに、周辺を散策した。ドュ・ロシェ通りと交差するド・ビヤーンフェッサンス通りは、古く立派な建築物が両側を占めている。そしておもしろいというか、歴史的にいえばじつに対比的な象徴建築物が向かい合わせているではないか。奇数列はパロワスの学校すなわち教区学校(女子)、偶数列は公教育学校すなわち無宗教学校。教区学校は固く門が閉じられていたが、公教育学校は、昼時のこと、子どもを出迎える親が群れていた。教区学校はまことに静であり、公教育学校は、フランス国旗が翻り、公的所有を誇示していた。しきりに写真を撮るぼくに、すれ違ったお歳を召したマダムが笑みを向けてくれた。「学校の写真を撮っています。」といわずもがなのことを言ってしまった。(後略)」

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