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ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガン話ばっかりですが‥‥セガン「亡命」説への挑戦(1)

2018年08月06日 | 研究余話

 「セガンはアメリカに亡命したそうだ。」と聞かされた。「ナポレオンIII世の弾圧を逃れるために。」へぇ、そんなに激しい戦いをした人なんだ、というのが初印象。
 で、セガン研究のさる大家から、その証拠を見つけてほしい、と。依頼というより厳命だったな。大家でさえ果たせないことをせよ、とおっしゃるのだから、よほどの暇人だ、とぼくはみなされていたわけですね。まあ、暇っちゃあ暇だったな、職場関係を除いて、組織活動一切無関係状態たから。2003年秋のこと。
 ただ、史料収集活動は面白い。フランスにわたるたびに、なじみの古書店が増えていく。お前は大佛次郎という作家を知っているか?などという思いがけない問いなども出され、名前だけは知っている、著名な文学者だ、と答えたら、ちょっと鼻で笑われたような雰囲気もあったな。あ、脱線。
 あらゆる古書店、「セガンの名と業績は知っているが、彼の著書類は、見つけるのは絶望的だな。」という。そうか、ご大家様はぼくを絶望の淵に追いやったのか。
 いんや、絶望の淵から生還してやろうじゃないか。(続く)

セガンがルソー『エミール』の影響を受けている、という。いい加減にルソー賛辞は止めましょうね。

2018年08月05日 | 研究余話
 かたくなに僕は、その論を否定する。教育論を分析すると『エミール』と通じる、という方がほとんど。しかし、党のセガン本人は、そのようなことは綴っていない。感覚主義教育論から見ると近似値にある、ことはぼくも認める。じゃあ、盛んに彼が言うサン=シモン主義理論との相関はどうなのか?と問い直すと、どなたも黙りこくる。サン=シモン主義理論についてまともに検証していないから、黙るしかないのだろう。
 もう一つ、セガンは、盛んに、生理学心理学、という。19世紀以降の華である。そして、精神医学者たちが患者分析や患者対象の実験方法として、用いた実学である。セガンは、それらを学んでいる。このことについても、セガン研究者は沈黙を守っている。
 『エミール』の枠を外して、セガンの理論と実践をとらえようとすることは、誰もしてこなかった。まことにずさんな、セガン研究だ。

セガンを生んだクラムシーは、革新的進歩的な風土であったか

2018年08月03日 | 研究余話
 クラムシーという地域で、セガンを高く評価した土地の人では、ベルナール・バルタンという前市長にしかすぎない。彼は、1980年にセガン没後100周年記念がパリで開催された折、偶然にその情報に接した、という。彼は社会党員市長であった。クラムシーの中でセガンを知ったわけではないのだった。
 それで彼は、セガンをクラムシーとして顕彰しなければいけないと思い、様々なことを企画した。まずは、セガンのクラムシーにおける実在の検証(戸籍調べ等)、そしてその顕彰。セガン実在の調査によって判明したセガン生家の保存などの顕彰活動に着手しようとした。が、市長選に敗れて、それらははかない夢のままの現実である。2012年に生誕200種周年記念シンポジウムはやっと開催されたが、現市長はしぶしぶだったという。「セガンで観光客を呼べるか」ということのみが問われたそうだ。
 セガン研究者は、クラムシーは革新的な土地柄だ、その歴史がある、と強調する向きがある。その革新性が「セガン」を生む根っこのところがある、というわけだ。
 少し、セガンと同時代の、クラムシーを見てみよう。

 クラムシーは、フランス革命以降をとっても、国政に関わる政治家、検事総長を務めた弁護士を生み 、後年のことだが、ノーベル文学賞受賞者という世界的な文学作家ロマン・ロランを生み、民衆は民衆で、フラン革命政府や第二帝政の統治に対する強力な暴動・反乱を起こす など、精神文化、抵抗・運動文化は歴史を誇るものがある。

 上記記述で「革新性」「進歩性」を特徴としていえるのはロマン・ロランだけである。中央政界を中心に活躍した人たちは、時の政権に食い入った実力派である。帝政期には帝政期の政治などの舞台で、王政期は王政期にふさわしく、共和政期には共和政期にふさわしく…という実態である。庶民が強い抵抗を見せたのは、自身の保守文化を維持するための方策であった。近代化によって産業文化構造が根底から崩されてしまう、という恐れから武力で立ち上がったのであって、時代をの者を進めようとするものではなかった。
 こういったことをキチンと読み取っていないのが、セガン研究。ルソーの自然主義の舞台として最適だったというが、それは牧歌主義でしかない。

地の文としての『エミール』評価

2018年08月02日 | 研究余話
 セガン研究の、とりわけ我が国の先達たちは、セガンが『エミール』流儀の子育てを受けた(と記憶するという)セガンの体験を、絶対善とし、後の白痴教育論の下地形成をしている。だが、私は、セガンの記憶はともかくとして(絶対的記憶でない証をすることができるので)、私の『エミール』評価を端的に、時代論の中で、触れることにしよう。以下の如し(あくまでも草稿段階)

『エミール』はそもそも、庶民階層を意識して執筆された書物ではなく、ブルジョア夫人からの子育て書執筆の依頼を受けて綴られたものである。ルソーは、未来の「市民citoyen 」形成を意識してこの書を綴ったが、彼の言う「市民」には障害者、病弱者さらには老人は含まれず、また女子には「市民」形成とは異なる内容とプロセスとをその教育論に提示した。その意味からしても、我が国のセガン研究者たちがするように、つまり時代を超越した『エミール』理解のエキスをたっぷり吸った近現代の眼の下で、19世紀初頭生活にかかわる回想記から、テキスト・クリティーク抜きでクラムシーにおけるセガンの生活・環境を読み取ろうとすること自体、無謀なことと言わねばなるまい。

「セガン研究の意義と課題」…そんなこと、考えたことありません。

2018年08月01日 | 研究余話
 セガンの半生史を研究していると自己紹介をすると、そもそもそんな人、知らない、誰?というのが、まず出される反応。少しは詳しく説明しようとするけれど、あまり心を入れて話題に立ち入ろうとしない人がほとんど。「障害」の世界は自分には関係ない、というところからくる反応なのだろう。そしてご忠告をくださった方が少なくない、「教育学者(研究者)としてやることは、ほかにもっと大切なことがあるでしょうに」。後は投げ出すように、「まあ、せいぜい、頑張ってください。では。」
 こういう「世間の目」につぶされるようなことはなかったけれど、次のような会話の展開になるのが日常とあっては、いい加減、「付き合い」がめんどくさくなる。 

「あなたはどうしてセガン研究をしているのですか?」
「他にすることがないから。」
「茶化さないでください。あなたにとって、セガン研究の意義と課題(任務)は何なのですか?」
「ですから、ほかに心を入れ込むことがないから、セガン研究をしているのです。」
「・・・セガンが好きなのでしょ?その好きな理由があるのでしょ?だから研究に入れ込んでいるんでしょ?」
「好きじゃないといけないんですか?」

 19世紀に生きた人ってのは、現代に通じるところもあるようで通じないところもある。そして、ぼくに通じるところがあるようで通じないところもある。その「境界」はいったい何だろう。
 こんなことを語っては、「意義と任務」探しに懸命なお方達には、通じないんだろうなあ、と思うセガン研究のプロセスだ。

青年期をいかに生きるか

2018年07月31日 | 研究余話
「青年期をいかに生きるかー白痴教育の開拓者セガンの半生史研究」
 これが執筆を開始した論稿表題。

 「私の中の囚人』(髙文研、1982年)上梓以来、ずっとずっとこだわり続けてきた「青年期」論を「セガン」で綴る。障害児教育論ではない。

○以下は、これまでのセガン研究の常識とされていたことを、簡単にまとめたことがら。

 「ルソーの自然主義思想の影響を受けた父親によって、自然主義に則った子育てをされ、両親の愛情をいっぱい背に受けて聡明な少年期を過ごし、優れた教育方針の学校でさらに聡明さを磨き、パリという大都会に出た。末は社会のエリートである医学博士となるべく素晴らしい教育を享受したセガン少年は、その聡明さの中に社会矛盾を感じ取る知性を拓き、かの1830年革命でさらに社会性に目覚め、空想的社会主義・サン=シモン運動に飛び込み、社会矛盾を解決すべく、活躍した。
 これらがセガンの白痴教育の基盤にある。すなわち、セガンは若くして人権に目覚め、『白痴もまた人間である。教育を受ける権利がある。』といって、白痴教育を開拓したのであった。」

 この過大評価、ご都合主義的セガン論は、既刊の拙著2冊で、懇切ていねいに、実証的に、本質的に、批判し、歴史上のセガンの実像を浮かび上がらせた。「青年期的なこと」を綴るつもりであったのだが、「セガンに何か問題があるというのですか!」という強いお叱りを受け、引っ込めざるを得なかった。弱っちいねぇ、俺。

 それにしても「青年期」を論じることは「何か問題がある」と理解されたお方は、「青年の味方」として学生たちにとても人気のある(あった)人なのだ。まやかしの「青年期論者」だよなあ。

○既存の支配的精神との葛藤は、その後の時代の精神の主流の基盤を創成する。ーーーー
 『嵐が丘』(1847年)『ジェーン・エアー』(1847年) ブロンテ姉妹の文学作品。前者が姉の創作。個人の好みで言えば、『嵐が丘』はややこしくて単純脳のぼくには理解不能だった、今もそうかな。ただ、両作品とも、「新しい人間像」を提出しているらしい、と強く感じ、読みふけった。小学校教師で、「道徳が白墨を持っている」と揶揄されていた母は、そんなぼくの姿を強く嘆いた。「ちゃらしい」(嫌らしい)と。
 両作品発表1847年の前年、セガンは大著『白痴の精神療法、衛生と教育』を発表(おそらく自費出版)。「白痴のマグナカルタ(大憲章)」と称される書である。「白痴には教育も社会化も不能である」という世評を完全に覆した。ただ、当時のフランス社会では歓迎されることはなかった。
 世代的には、セガンがやや年上だが、姉妹と同世代を構成している。

最後の大挑戦を!

2018年07月30日 | 研究余話
 新日本出版版『知的障害教育の開拓者エデュアール・セガン~孤立から社会化への探究』(2010年)の大改訂版執筆を決意し、細君にその旨を告げた。
 「死ぬ前に、どうしても、セガンをもう一度論じたい。」
 すでに旧版第1章は大改定記述を済ませ、第2章は増補改訂中。
 細君は、読む人いるの?と心で思ったかもしれないけれど、口に出さずにしばし目線をぼくに留めていた。今朝のこと。

 なお、『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)の「セガン」の章のリライトにも及ぶことになり、結局、私のセガン研究の集大成を果たそうという希望を持っている。

セガンがサン=シモン教と出会ったと推測されるポスター

2018年07月29日 | 研究余話
1830年7月30日 ポスター (『サン=シモン主義の歴史』82ページより)

 「未来の子どもたちよ、汝らに栄光あれ、汝らは過去を乗り越えた。だが、汝らは、一つ事に身を捧げてきたために、産み出す秩序、結合を知らない。汝らは、戦うこと、打ち壊すことはしてきたが、結合すること、建築することに、思い至ることがなかった。封建遺制が死し、、すべての生得的特権が、例外なく、打ち壊され、代わって、誰もがそれぞれの能力に応じ、それぞれの労働に応じて報いられるようになる・・・・。」

 セガンは、1830年7月革命に積極的に参加した。それによって立憲王フィリップから褒章を授与されている。このことをぼくの語りから知った「セガン研究者」S某氏は、「革命への参加によって人権に目覚めたのです。」との歴史評価を下された。セガンは人権主義者だったから白痴教育に携わった、という説以外には、考えようとはしないお方らしい。
 じゃあ、なぜ、革命に参加したのか?それを断言できる史料は存在しない。ただ、「監獄」と異名をとる特級コレージュに在籍中の革命騒ぎであることが、ある程度、類推させるセガンの記述はある。1875年著書に「コレージュ・アンリIV」校のことだと前提し、同文記述末には、「これはフランスのコレージュすべてに当てはまることだ」と追記していることがある。100数十人を一堂に収める寝室で、就寝消灯後、生徒たちが暴れる、秩序無き様態を作り出す、という。常日頃の管理に強い抑圧を覚えている将来のエリートたちは、管理によって鬱屈したものを、一種の破壊活動で、晴らそうとする。セガンは言う、その彼らが週末に各自の家庭に帰る、ないしは家族面会があるとなると、望まれる礼儀・秩序正しい言動をとる、と。セガンはその無秩序な状況にある生徒たちを「野生の猿」とまで形容している。
 革命騒ぎは、生徒たちにとって、まさに機を得た出来事である。社会騒乱に加わること、破壊活動に参加すること、そのことで社会全体にうっぷん晴らしをする。それは、組織もなければ展望がしっかりしているわけでもない。青春の気が湧きたつ社会現象だ。生徒たちは、革命騒ぎが収まれば、元の「監獄」に戻る。将来が保証されている「監獄」へ。
 その「革命騒ぎ」の最終日、パリの目抜き通り―サントノレ通り他の主要な通りーに、バザールとアンファンタン署名入りのポスター(上記)が張り出された。そこには「革命騒ぎ」後の社会展望が記されている。セガンはそれを目にしたのだろう。暴動的行動から秩序的行動へ身を預ける選択を、「監獄」にではなく、サン=シモン教に帰依する選択をしたのだ。
 1830年革命で人権に目覚めた、のではない。
 1830年革命で秩序ある社会建設ーサン=シモン教を哲学とした共和制社会建設―の一員となることを選択したのだ。

水田水脈発言、ヘイト行動に思うこと

2018年07月28日 | 研究余話
 私の知る限り、フランスの19世紀(いまから200年ほど前)半ばまでは、知的障害者に対する社会観念は、後の時代に社会主義者あるいは民主主義者として高く評価されることになる文学者ウージェーヌ・シュー曰く「もはや人間でもないかといって動物でもない存在」、同じ世代の文学者ヴィクトル・ユゴー曰く「伝説の生き物」「驚くべき怪獣」「恐ろしい人間」(すべて、同一対象に対する呼称)と書き表した。また、医学博士〔とりわけ、哲学的にはルソー主義者の精神医学者〕たちの共通概念は「動物的人間」である。知的障害教育を切り開いた一人セガンは「動物の最後の仲間」という形容もしている。
 現実社会が求める有用性・有効性を持たず、現実社会とのコミュニケーションが成り立たないとみなされた知的障害者たちは、公権力の手で狩り出され、監獄に生かさず殺さずして閉じ込められ、医療実験の格好の材料とされ、民間の手に掛かっては「見世物」としてさらけ出され、私人の手に掛かっては終生密かに閉じ込められるか、闇にまみれて捨てられるか、殺戮されるか、の処遇を受けていた。すべて「社会の到達尺度(文明)」からの判断のもとである。

 「社会の到達尺度(文明)」観が画一的であり変容性が許されない社会では、間違いなく、上記の19世紀フランス的な「知的障害」観に染まり、人々を、難なく、排除・排斥・抹殺・見世物対象とすることだろう。暴力的にせよ精神的にせよ。私たち身体障害を持つ高齢者に、すでにその気配が押し寄せている・・・・。

「セガン」にかかわる「家庭教師」話題 - 私もしつこいね

2018年07月25日 | 研究余話
 私がセガン研究で語る「家庭教師」は、19世紀半ば以前における中・上流階級の、その「家庭・家系」に必要とされた人格形成の重要な手段であった。セガンは、こんな流れで、育ちの自己経験を綴っている…。
 乳母の子守歌ー里親のおとぎ話ー家庭教師の入門古典 
 この後は、特権階級家庭であった彼の身を飾るにふさわしい寄宿学校(コレージュ*)に進んでいる。
 *このコレージュは現存しており、出版物によると、「良家の子弟のための学校」と性格付けされている。

閑話休題2題
1.セガンの父親がその博士論文の扉ページに記した献辞より
「我が代親、我が師、我が最良の友、ドゥルイエの医師E. D. ベルトラン氏に、我が感謝の意を表して。」
 つまり、セガンの父は里親のもとに預けられたが、その里親が「家庭教師」の役割も担っていた、ということを示している。長い年月にわたる共同生活者である。
2.サン=シモン主義の祖サン=シモンは、家庭教師による厳しい教育を受けていた。ある日、家庭教師の仕打ちに立腹したサン=シモンは、コンパスで家庭教師の尻を刺し、そのまま家出した。それから放浪して広く深い学識を得たという。なんだか、ルソーと似てますな。