背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その11)~写楽別人説

2014年04月28日 23時38分04秒 | 写楽論
 東洲斎写楽というのは、いったい誰なのか?
 
 この謎に多くの著名人や研究者が答えようとして、思い思いにいろいろな説を発表してきました。中には、あっと驚くような説もあり、世間を騒がせました。
 写楽=北斎説、写楽=歌麿説、写楽=豊国説、写楽=円山応挙説、写楽=司馬江漢説、写楽=谷文晁説、写楽=山東京伝説、写楽=十返舎一九説などなど。
 写楽と結び付ける相手が有名であればあるほど、話題性があって、一般の人たちの注目も集めたようです。写楽と結び付ける相手が地味で知らない人だと、面白くないのか、あまり騒がれませんでした。
 蒔絵師とか秋田蘭画の絵師何某とか歌舞伎役者とかもあり、写楽=蔦屋重三郎説もありました。
 現代の日本人で写楽の有名な絵を知らない人はほとんどいないでしょうし、写楽が謎の人だということもみんな知っているのだと思います。だから、写楽の謎を明かすといった本が出ると、多くの人が興味津々になって買い求めたわけです。しかし、それもほんの一時的な現象で、結局最後には、どれもこれも、専門家や知識人たちからコテンパンにやっつけられ、引っ込んでしまいました。最近は、浮世絵研究者たちも、うんざりしたのか、新説を黙殺するようになってきました。
 写楽探しの熱も冷めてきたようです。写楽=能役者斎藤十郎兵衛説が復活し、定説化したようなムードになっているからだと思います。

 写楽が誰かということに関してはこれまで私も少しは関心を持って来ましたが、実を言うとただ傍観しているだけでした。遅ればせながら、最近になってようやく、それぞれのいわゆる「写楽別人説」も一応調べてみようかと思っている次第です。
 私の知る限り、マスコミも取り上げ、写楽ブームが一般人の間にも盛り上がったのは、昭和50年代だったと思います。



 今、私の手許に雑誌「太陽」の昭和51年(1975年)2月号がありますが、「写楽 謎の絵師」と題した特集号です。松本清張の写楽についての講演が収録されているほかに、写楽研究者たちの寄稿文や対談が載っていて、読み応えのある内容です。10日ほど前に、40年ぶりに再読しましたが、すでに亡くなった人が多く、昔日の感を覚えました。松本清張、戸板康二、粟津潔、瀬木慎一、由良哲次、坂東三津五郎ほかですが、みんな写楽について熱っぽく語っていました。ただ、この頃は、写楽=能役者斎藤十郎兵衛説がほとんど見向きもされず、写楽別人説も十数種類出て、混乱している最中でした。
 昭和60年代に入り、梅原猛が「写楽 仮名(かめい)の悲劇」(新潮社 昭和62年5月発行)を出して、写楽=豊国説を主張しました。この本は多分ベストセラーになったのではないでしょうか、当時私も買って読みました。(再読した感想は前に書いたとおりです)
 また、浮世絵研究者だった高橋克彦が小説「写楽殺人事件」を発表して、有名になったのもこの頃だったと思います。私は、この小説を含め高橋克彦の小説は一つも読んでいませんが、彼が書いた「浮世絵鑑賞事典」(創樹社 昭和52年7月発行)の解説は、愛読した覚えもあり、先日本棚から引っ張り出して、目下拾い読みしています。
 平成に入ってからも、篠田正浩が映画『写楽』を作りました。ただ、この映画を私はまだ観ていません。ほかにも写楽を題材にした小説やテレビ番組はあったような気がします。私が最初に取り上げた石森史郎氏の小説「東洲斎写楽」は、平成8年(1996年)6月発行です。ご本人は、あまり売れなかったとおっしゃっていますが……。
 おととい、神保町の古本屋で、雑誌「太陽」の平成23年(2011年)5月発行の「写楽」特集号を買って、ざっと目を通してみました。執筆者が若返り(知らない人ばかり)、内容も一変していましたが、熱が冷めて、まったく面白くなくなっていました。受け売りの知識のオンパレードで、まるで教科書でも読んでいるような内容でした。

 それで、振り出しに戻るのですが、石森さんのほかにもう一人、写楽に関する本を書いた方と最近私は個人的に親しくなりました。(このブログの第1回に触れましたが……)
 「写楽を追え 天才絵師はなぜ消えたのか」(イースト・プレス 2007年1月発行)の著者、内田千鶴子(ちづこ)さんです。彼女は、明治以来ずっと定説とされてきた写楽=能役者斎藤十郎兵衛説を信じ続け、新たに発見した資料によって、この説の信憑性を一歩押し進めた写楽研究者です。千鶴子さん(私はそうお呼びしています)との不思議な出会いについては、次回に書きたいと思います。



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