背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

蔦屋周辺の人物たち~朋誠堂喜三二

2014年05月29日 22時58分18秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 享保20年(1735)閏3月21日、江戸に生まれる。父は武士の西村氏で、その三男であった。幼名・昭茂。14歳で母方の縁戚にあたる平沢家の養子に入る。本名・平沢常富、通称・平格(平角)。平沢家は二十五万五千八百石の大藩・秋田久保田藩の家臣で、代々剣術の師範格でもあったらしい。愛洲陰流という剣術の開祖の血筋を引く家柄で、それもあってか、平沢平格は江戸住のエリート藩士として昇進していったようだ。
 しかし、硬派の剣術使いとは真反対に軟弱な気風に染まり、子どもの頃から芝居を好み、乱舞や鼓なども習っていた影響からか、成年になると、吉原通いを始めた。酒はたしなまなかったが、芸達者で評判を高め、自ら「宝暦の色男」と称していたというから推して知るべしである。文武両道というより、硬軟両股といった行き方であった。宝暦期だから、20代半ばの頃であろう。
 彼は子供の頃俳諧を馬場存義に学び、後年は夜雨庵亀成の門に入り、俳名を雨後庵月成(つきなり)と言った。蔦屋重三郎は、彼のことを「月成さん」と呼んで敬愛しているが、二人はかなり早い時期(安永以前)から知り合いだったように思われる。月成は明和6年、35歳の時すでに「吉原細見」に序文を書いているほどで、吉原ではお武家様の通人(つうじん)として知らぬ者のない名士であった。そして、蔦重が「吉原細見」を発行するようになって、安永6年から毎春序文を寄せてくれたのも、月成さんこと朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)であった。
 武士としての平沢平格は、久保田藩の渉外役を務めていたようで、他藩との連絡折衝や他藩についての情報収集をしていたと思われる。吉原を社交サロンないしは接待の場として、自藩や他藩のお偉方の案内役のようなこともしていたのだろう。社用族ならぬ藩用族である。駿河小島藩の倉橋格(戯作者恋川春町)も、小藩だが同じような役目で、二人は莫逆の交わりを結び、のちに二人とも吉原通いを生かし、黄表紙のベストセラー作家となり、安永天明期において、武家出身の戯作者の両巨頭と呼ばれるようになる。
 恋川春町は文才画才兼ね備え、黄表紙も自作自画であったが、朋誠堂喜三二は、文だけ書き、絵は親友の春町に描いてもらうことが多かった。朋誠堂喜三二は戯作者としての筆名であるが、この名は「干せど気散じ」(干上がっても気楽)のもじりで、武士は食ねど高楊枝の意味ではないかと言われている。彼は狂歌も数多く詠み、狂名を手柄岡持(てがらのおかもち)といい、狂詩を書くときには韓長齢(かんのちょうれい)と号した。また、洒落本を書くときの名は、道蛇楼麻阿(どうだろうまあ)で、ほかに、浅黄裏成、亀山人、朝東亭などがあり、真面目な号は愛洲(先祖である剣術の開祖の名からとった)、隠居後は平荷であったという。


「手柄岡持」 北尾政演(山東京伝)画、狂歌本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』より

 いろいろな名を持つこの平沢平格は、天明期には秋田藩留守居役筆頭にまで昇りつめ、120石取りであった。留守居役というのは、江戸藩邸を取り仕切り、幕府や諸藩との交渉を行う実務上の最高責任者である。公務のかたわら、30数作の黄表紙の書き上げ、次々とヒット作を飛ばしていったのだから、すごいものである。
 戯作の最初は安永2年(1773)、金錦佐恵流(きんきんさえる)の名で著した洒落本『当世風俗通』(恋川春町画)である。そして、恋川春町はこの本に刺激され影響を受けて、安永4年に黄表紙ブームの開幕を飾る大ヒット作『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』(鱗形屋版)を自作自画したと言われている。「金々(きんきん)」というのは当時の流行語で、金ピカで豪華なこと、贅沢な遊びを指し、金々先生は当世風の伊達男を意味し、朋誠堂喜三二の仇名でもあった。
 朋誠堂喜三二は、安政6年、43歳から黄表紙を書きまくるが、奇想天外な大人の童話、歌舞伎の筋書きをもじったパロディ、当時の政治に触れた問題作などに、都会人らしい洒落、滑稽、ナンセンスを盛り込み、巧緻な構成は他の追随を許さず、彼の代表作は十指にあまるとされている。
 昔話の「かちかち山」と歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をないまぜにした『親敵討腹鞁(おやのかたきうて はらづつみ)』(1777)をはじめ、『桃太郎後日話(ももたろう ごにちばなし)』(1777)、『鼻峯高慢男(はなみね こうまんおとこ)』(1777)、『案内手本通人蔵(あなでほん つうじんぐら)』(以上すべて春町画、鱗形屋版)、『見徳一炊夢(みるがとく いっすいのゆめ)』(重政画 1781)、『一流万金談』(政演画 1781)、『景清百人一首』(重政画 1782)、『長生見度記(ながいき みたいき)』(春町画 1783)(以上すべて蔦屋版)が主な代表作である。
 ウィットに富んだ面白い題名が多い。『桃太郎後日話』『見徳一炊夢』の2作だけ、私は絵を見ながら読んでみたが、後者は傑作である。
 安永9年以降、朋誠堂喜三二の黄表紙は、ほとんどすべて蔦屋重三郎が発行しているほどで、喜三二は蔦重にとって最高かつ最大の協力者であった。
 ほかに喜三二は、滑稽本『古朽木(ふるくちき)』(西村伝兵衛版 1780)、咄本『百福物語』(春町らと合作、伏見屋版1788)も残している。
 喜三二の最終作となった黄表紙、天明8年(1788)正月発行の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』(喜多川行麿画、蔦屋版)は、前年から始まった老中松平定信の改革を鎌倉時代に移してユーモアと隠喩を込めて描いた問題作であり、発売されるやいなや爆発的な大ヒットとなった。馬琴もこの本について、「古今未曾有の大流行にて……赤本の作ありてより以来、かばかり行はれしものは前代未聞の事なりといふ」(「物之本江戸作者部類」)と書いているほどである。しかし、幕政を茶化していると取られかねない内容でもあり、政治問題へと発展する恐れもあったため、喜三二は主家から命じられ、戯作の筆を断つことになってしまう。
 蔦屋重三郎も喜三二もこれほど重大な事態になるとは予想もしていなかったであろう。まさに晴天の霹靂であった。重三郎にとっては、喜三二の断筆は大きな打撃だった。
 『文武二道万石通』は、短期間に再版を何度も重ね、問題になりそうな箇所は初版に修正を加えたことが現在では分かっている。この本は、発禁にもならず、重三郎も処罰を受けなかったが、寛政期に入り、幕府の取り締まりは厳しさを増していく。これについては回を改め述べるつもりである。
 朋誠堂喜三二はその後公務に励みながら、手柄岡持の名で狂歌だけは詠み続けたという。彼の家庭や妻については不明であるが、長男の為八が平沢家を継いで、同じく留守居役を勤めたことが知られている。
 平沢平格、文化10年(1813)年5月20日、死去。享年79歳の大往生であった。戒名は法性院月成日明居士。墓は東京都江東区深川三好町の一乗院。歿後翌年の文化11年(1814)には狂文集『岡持家集 我おもしろ』が刊行されている。

*参考資料
 朝日日本歴史人物事典、ウィキペディア、「日本古典文学大系 黄表紙洒落本集」(岩波書店)所収の解説(水野稔)、同書付録・月報18掲載の「喜三二と春町」(濱田義一郎)、「江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集」(現代教養文庫)
 なお、『見徳一炊夢』『文武二道万石通』は「日本古典文学大系」に、『桃太郎後日話』『一流万金談』は「江戸の戯作絵本(一)」に収録されている。




蔦屋重三郎(その3)

2014年05月29日 06時34分07秒 | 蔦屋重三郎とその周辺
 江戸時代は本の制作・卸売・小売が未分化だった。版元(板元、現在の出版社)は、問屋でもあり、小売店も持っていた。そして、印刷・製本業者である板木屋(彫師)、摺り師仕立屋(表紙屋ともいい、今の製本所である)等を下請けに抱えていた。
 出版販売する本の種類によって版元は二系列に分けられた。書物問屋地本問屋である。主に京大坂の版元から出された、いわゆる「物之本」(硬い本)すなわち和漢の学術書等を出版販売する業者が書物問屋で、地本すなわち地元の江戸の大衆娯楽本である草双紙類(赤本、黒本、青本)、洒落本、噺本、浄瑠璃本、長唄本、そして浮世絵などの出版販売をする業者が地本問屋であった。書物問屋と地本問屋を兼ねる大手の版元もあった。たとえば、京都に本店があり、江戸日本橋に支店を持っていた仙鶴堂・鶴屋喜右衛門がそうであった。
 江戸時代中期に株仲間といわれる同業組合ができるが、書物問屋の株仲間が幕府に公認されるのは享保年間で、地本問屋の方はずっと遅れて寛政2年である。ただし、地本問屋にも株仲間はあり、仲間同士の取り決めや約束を定め、違反したものには制裁を加えたりしていた。今で言う著作権というものはなかったが、板株(いたかぶ 版権)や販売権というものはあった。
 また、海賊版を作った版元は、被害者が奉行所に訴えれば、吟味の上、お上から処罰が下った。安政7年1月に鱗形屋孫兵衛が罰せられたのも、身内の徳兵衛が大坂の版元からすでに出版されている「早引節用集」(コンサイス国語辞典といった本)を重版し、勝手に鱗形屋から売り出したからであった。
 蔦屋重三郎は、版元として初めて吉原細見を出した時、板株を持っていなかったため問題となり、吉原の妓楼玉屋山三郎の口利きで、やっと紛糾を収めたと言われている。
 天明3年9月、重三郎が一流版元の居並ぶ日本橋通油町へ進出する時は、地本問屋の丸屋小兵衛の店を買い取ってそこへ本店を移したのだが、丸屋が持っていた版元の権利一切も買い上げたとのことである。トータルでいくら支払ったかは不明であるが、相当な金額であったことは確かだろう。また、その際、問屋有力者のだれかの斡旋があったと思われるが、それが鱗形屋孫兵衛なのか、それとも最大手の鶴屋喜右衛門(通称鶴喜)なのかは分からない。鶴喜は、日本橋通油町に店を構えていたが、その斜向かいに移転してきた蔦屋重三郎と親しく接し、なにかにつけて助力を惜しまなかったようだ。

 安政7年、8年の蔦屋の出版点数が激減したことはすでに述べた。出版物というのは編集制作に3ヶ月から半年かかるので、蔦屋のピンチは安政6年の半ばあたりから安政8年の半ば頃までの約2年間であった。その原因は、蔦屋が援助を受けていた版元の鱗形屋孫兵衛の経営破綻であったことは間違いない。
 鱗形屋は安政4年から毎年10数点出版していた黄表紙が、安政8年には7点に減り、安政9年には無くなってしまう。その2年後の天明2年にはまた黄表紙を出版し始めるが、鱗形屋の経営者が変わり、建て直しをはかったように思われる。しかし、これは一時期だけの復活で天明期の半ばに第一線から退き、寛政初めには廃業している。
 鱗形屋にとって定番の「吉原細見」は、安永9年正月に発行したのが最後で、安永10年(天明元年)は蔦屋版「吉原細見」が1点、天明2年以降は蔦屋が「吉原細見」を独占し、春と秋の年二回に発行することになる。鱗形屋は蔦屋に「吉原細見」のほかにも黄表紙ヒット作の版権(板木も含めて)を売ったと思われる。恋川春町の「金々先生栄華夢」「高慢斎行脚日記」、朋誠堂喜三二の「鼻峯高慢男」などは寛永6年、蔦屋から再刊されている。

 安永9年(1780)、重三郎は一気に出版点数を増やす。この年の蔦屋からの発行本は全部で約15点(黄表紙が8点)である。そのうちの半数は、正月発行分だろうから、前年の秋からは編集制作に取り掛かっていたはずである。ということは、安政8年の夏までには出資者を見つけ、出版の資金繰りがついていたのだろう。3年ほど前からすでに版元間で黄表紙(当時はこれも青本と呼んだ)の販売競争が激化していたが、重三郎は、鱗形屋に代わってその競争に加わることを決断し、売れっ子作家の朋誠堂喜三二と専属契約のような約束を結び、喜三二に執筆を依頼していたはずである。また、北尾重政には挿絵を依頼し、愛弟子の北尾政演山東京伝)とも知り合って、彼の早熟した才能に期待をかけていたと思われる。
 この年、蔦屋が出版した朋誠堂喜三二の黄表紙は次の3作が知られている。
「鐘入七人化粧(かねいりしちにんげしょう)」(朋誠堂喜三二作、北尾重政画)
「廓花扇観世水(くるわのはなおうぎかんぜみず)」(朋誠堂喜三二作、北尾政演画)
「竜都四国噂(たつのみやこしこくうわさ)」(朋誠堂喜三二作)
 他の作者による黄表紙は、5点ある。
「虚言八百万八伝(うそはっぴゃくまんぱちでん)」(鳥居清経画)の作者・四方屋本太郎正直は、大田南畝ではないかと言われている。そうだとすれば、重三郎は南畝とも親交関係を結んでいたことになる。
「夜野中狐物(よのなかこんなもの)」(北尾政演画)の作者・王子風車は、山東京伝になる前の筆名で、画を描いた北尾政演も京伝のことだから、これは、彼の自作自画の黄表紙である。「通者言此事(つうとはこのこと)」(北尾政演画)には作者名がないようだが、これも彼の自作自画かもしれない。
 この年の出版目録に洒落本が2点あるが、「一騎夜行(いっきやぎょう)」の作者・志水燕十(1726~86 しみずえんじゅう)は、絵師鳥山石燕門下の高弟で、絵よりも文筆に才を振るった人物だが、彼も重三郎を支えた一人であった。
 
 重三郎の活躍期は安政半ばから寛政半ばまでの約20年であるが、時流に乗る巧さ、企画の斬新さ、販売方法の大胆さといった才覚に加え、重三郎の人脈作りの能力は著しいものがあった。重三郎の社交性と人柄が大きく物を言ったのだろう。重三郎は吉原で顔がきくことを利用し、著名な作家や画家たちを吉原に招き、接待して、人間関係を広げていく。
 出版社は、文章を書く人間の才能と、絵(挿絵、漫画)を描いたり、デザインをしたりする人間の才能に依存する業種である。才能を見出し、才能を発揮させることができなければ出版社は発展しないが、出版社の社長はその才能を引きつけるだけの人間的魅力と人心掌握術を備えていなければならない。重三郎は、その二つを十分に持ち合わせていたにちがいない。