背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その25)~<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説

2014年05月16日 18時44分08秒 | 写楽論
<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の根拠は、以下のことです。
 
 第一に、時代考証家・斎藤月岑(げっしん1804~1878)が、天保15年(1844年)春までに数年間かけて再編纂した「増補浮世絵類考」の中にある写楽についての補記。
「俗称 斎藤十郎兵衛 居 江戸八丁堀に住す 阿波侯の能役者なり」
 
*「江戸八丁堀に住す」というのは式亭三馬の補記にあったものですが、俗称が斎藤十郎兵衛で、阿波侯すなわち徳島阿波藩・蜂須賀侯の能役者というのは、斎藤月岑が初めて「浮世絵類考」に書き加えたことです。月岑は、江戸時代後期の著名な考証家であり、「江戸名所図絵」「東都歳時記」「声曲類纂」「武江年表」など江戸時代の諸事万般に関して厖大な著作を残した人ですが、そんな月岑が写楽について阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛と書いたことは信頼できるはずだと言うわけです。
 明治から昭和30年代までは、斎藤月岑がこの補記を書いたことは分かりませんでした。月岑の「増補浮世絵類考」は、明治24年(1891年)「温知叢書」第四巻(博文館)に収録され、公刊されましたが、そこにはこの補記がなく、月岑のこの増補の後に編纂された「新増補浮世絵類考」(龍田舎秋錦編、慶応4年)にはこの「阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛」が書かれてあったので、「新増補浮世絵類考」にある補記として知られていました。
 それにしても、明治から大正にかけては「浮世絵類考」自体の研究が進んでいなかったので、写楽=能役者斎藤十郎兵衛は定説扱いされ、疑ってかかる研究者はほとんどいなかったようです。「SHARAKU」を著し、写楽を世界の三大肖像画家として激賞したドイツ人のクルトから、昭和18年に発刊された集大成本「東洲斎写楽」によって写楽を美術史上に位置づけ、写楽が描いた絵を詳しく解説した吉田暎ニまで、写楽について書いた著者のほとんど全員が、写楽=阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛を前提にして論述していたといえます。ただ、この斎藤十郎兵衛の実在がなかなか明らかにならず、生没年も経歴も不詳で、写楽という絵師の実体はまったく摑めませんでした。
 大正時代の終わりから写楽の絵そのものの研究は進んでいくのですが、一方で浮世絵師の唯一の手引きといえる「浮世絵類考」の底本を作れという強い要請があり、「浮世絵類考」の数多くの写本の検証が進み、昭和16年になってようやく仲田勝之助の校訂編集になる岩波文庫版「浮世絵類考」が発行されます。これで、「浮世絵類考」の成立と変遷の輪郭がある程度明らかにされるのですが、岩波文庫版「浮世絵類考」は、浮世絵師についての研究の道を大きく拓いた一方で、類考の記述が疑問符だらけであることを公表することにもなり、とくに写楽に関しては、大きな疑問符を投げかけることになりました。つまり、写楽と同時代に生きて、版元の蔦屋重三郎と親しくしていた大田南畝(「浮世絵類考」の原撰者)も山東京伝も式亭三馬も写楽について俗称も経歴も明かさず、写楽が消えて約半世紀経ってから初めて、写楽=能役者斎藤十郎兵衛が書き込まれたことに対し、強い疑惑が生じることになりました。
 その後戦争をはさみ、昭和30年代に入り、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説が否定され、写楽別人説が続々と現れ出すわけです。
 斎藤月岑が「増補浮世絵類考」に、写楽の俗称が斎藤十郎兵衛で、阿波侯の能役者と書いていたことが判明したのは、昭和38年(1963年)、「近世文芸 資料と考証」2号・3号(七人社 板坂元編)にケンブリッジ大学所蔵の斎藤月岑自筆本「増補浮世絵類考」が収録され発行されてからです。しかし、偉大な考証家の斎藤月岑がこの補記を書いたことが分かっても、その根拠がまったく分からず、疑惑は募るばかりで、その結果、写楽別人説は百花繚乱咲き乱れ、写楽は誰かという議論がオーバーヒートしていきました。
 戦前まで定説に近かった<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説は、昭和40年代にはほぼ完全に否定されるところまで行ってしまったのです。
 
 しかし、昭和50年代に入り、急に風向きが変わりました。
 そのきっかけになったのは、昭和51年、当時九州大学の助教授だった近世文学研究者の中野三敏(みつとし)氏が「諸家人名 江戸方角分(ほうがくわけ)」という冊子に、重要な記載があることを発表したことです。これが、<写楽=能役者斎藤十郎兵衛>説の第二の根拠になりました。(中野氏は、論文集「近世の学芸」、続いて朝日新聞のコラム、さらに「浮世絵芸術」49号に発表)

 「諸家人名 江戸方角分」は、江戸中期のいわば「住所別タレント名鑑」といった一覧表で、歌舞伎役者の三代目瀬川富三郎が編集し、文化14年ごろに刊行したものです。大田南畝のもとにあったその写し(一覧表を冊子にしたもの)が国立国会図書館に所蔵されてあり、その冊子の八丁堀に住む著名人のところに以下の記載がありました。(実際は縦書きです。画像参照のこと)

             地蔵橋
「×  
      号写楽斎
   

*「 は死亡、× は浮世絵師の表示記号。通称と俗名が空欄になっています。



 これで、写楽斎という浮世絵師が八丁堀の地蔵橋あたりに住んでいて、死亡したことが判明しました。
 もう一つ、中野三敏氏は、重要な資料を提示しました。それは、この写楽斎という浮世絵師から二人置いた前のところに、著名な国学者の村田平四郎(春海 1746~1811)の名前がありますが、実は、村田春海の家の隣りには阿波侯の能役者が住んでいた、ということを明かにする資料でした。

 *参考文献:内田千鶴子「写楽・考」(三一書房1993年)、中野三敏「『諸家人名江戸方角分』考」(『浮世絵芸術』49号所収 1976年)、中野三敏「写楽」(中公新書 2007年)