背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その30)~「諸家人名江戸方角分」(2)

2014年05月19日 15時35分15秒 | 写楽論
 大田南畝(蜀山人)の手筆の奥書には、歌舞伎役者の瀬川富三郎の著とあります。この瀬川富三郎というのは三代目で、写楽がモデルにして描いた二代目瀬川富三郎(?~1804)とは違う人です。三代目瀬川富三郎は、人名事典によると、
 
 瀬川富三郎3代)(?-1833ごろ)
 3代嵐三五郎の門から3代瀬川菊之丞に入門。文化11年(1814)江戸中村座で3代富三郎を襲名。若女方をつとめた。天保4年ごろ死去。前名は瀬川浜次郎。俳名は路梅。屋号は浜村屋。
「歌舞伎俳優名跡便覧」(国立劇場調査記録課・編)によって補足すると、
上方役者の嵐三五郎門下で、若い頃は嵐松之丞といい、寛政9年正月「役者渡初」江戸の巻、若女形の部に初出。その後、江戸に来て(あるいは留まって)、三代目瀬川菊之丞(1751~1810 写楽が絵を描いた名女形)に再入門、瀬川松之助となり、次に瀬川浜次郎と改名。享和元年11月、江戸市村座紋番付には浜次郎の名が見える。文化11年11月に三代目瀬川富三郎を襲名。その後、天保3年(1833)正月「役者舞遊問答」江戸の巻まで名が見える。

 つまり、この人は、上方出身で、寛政9年(1799年)以降に三代目瀬川菊之丞に再入門して江戸に住み、女形として通した役者だったようです。生年歿年は不明。

 中野三敏氏の著書「写楽」によると、この瀬川富三郎は、浜次郎時代から大田南畝と面識があり、桃花亭という狂名で狂歌を詠み、狂歌撰集に選ばれたこともあるとして、それを立証する文献の引用まで載せてあります。それは良いとして、ここからの中野氏の論法は独断的で強引極まりないものです。三代目菊之丞の葬儀で、南畝が瀬川浜次郎と会話を交わしたという書簡があることから、それだけで「南畝の奥書は十二分の信憑性を持つものと断定出来よう」と言うのは学者らしからぬ専断です。また、「諸家人名江戸方角分」の収録人員1077名のうち、狂歌師が394名も載っていることから、「これは著者が狂歌壇の一員であって初めて可能であり、また納得のいくことでもあるわけで」と論を進め、さらに彼の狂歌が撰集に2首あるだけで「富三郎が浜次郎時代から歴とした狂歌師の一人として認められた存在であった」と決めつけ、「諸家人名江戸方角分」に狂歌師富三郎の名前がないことを、「編者ゆえの遠慮か、自家の手控えとしての性格によるものであろう」と推断。「旁(かたがた)もって著者を富三郎とすることは動かぬものと思われる。そして該書著者を富三郎とする時、内容の記載に関して興味深いことがあらわれてくるが、それが当面の写楽に関する事柄である。ただし、後文に譲る」と書いています。
 結局、写楽について何が興味深いことかと言えば、なんのことはない、この三代目瀬川富三郎が、先代富三郎や師匠菊之丞から、写楽の謎を聞いていて、阿波藩の士分の能役者であるという身分を隠すために、あえて通称を記入しなかったということなのです。
 さらに、式亭三馬も斎藤月岑もこの「諸家人名江戸方角分」を見た可能性が高いとして(三馬は大田南畝から写本を借り、月岑は石塚豊芥子から借りて)、写楽が八丁堀地蔵橋に住むというこの情報をもとに、三馬の、写楽が江戸八丁堀に住むという補記が書かれ、斎藤月岑の、阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛という補記も、そこから調査して得られた事実を記したというわけです。
 中野氏の著書「写楽」は、私に言わせると、学者的な慎重さも学問的な良心も欠いた、独断専横的な本です。この人は、ただ、「諸家人名江戸方角分」の中で写楽斎の記載を自分が発見し、国学者村田春海の隣家に能役者の斎藤与右衛門が住んでいたことを突き止めたという功績を世に広めたいがために、「諸家人名江戸方角分」を金科玉条のものとして、根拠薄弱な推断を重ねています。

 「諸家人名江戸方角分」は、ほんとうに瀬川富三郎という歌舞伎役者(狂歌師)が、文化14年から文政元年にかけて作成あるいは編集したものなのでしょうか。これだけの情報収集が、歌舞伎の舞台にも出演している役者にはたして出来たのでしょうか。
 中野氏は、「諸家人名江戸方角分」には参考書があったということを書いています。
 文化12年9月、版元の西村宗七から発行された扇面亭扇屋伝四郎編「江戸当時諸家人名録」という本です。これは、全221名のいわゆる「雅人」をイロハ順に並べた人名録だそうです。学者と画家と書家が中心で、それに詩人、歌人、篆刻家が加わったもので、俳諧師、狂歌師、戯作者、浮世絵師は除外されています。が、この人名録は大変売れたようで、文政元年、さらに文政三年に改訂版が出ています。
 「諸家人名江戸方角分」は、「江戸当時諸家人名録」の初版本の収録者をそっくり取り込み、さらに狂歌師394名と俳諧師(連歌師)61名、浮世絵師57名、戯作者33名を加えた上に、いわゆる雅人の文化人を約280名追加し、さらに地区別に配列した厖大で画期的な人名録だったといえます。こういう人名録が1年やそこらで出来たとは思えませんし、瀬川富三郎がいくら多くの狂歌師を知っていたとしても、一人で作成するのはとても無理です。
 また、この「諸家人名江戸方角分」が出版されたとすれば、参考にした「江戸当時諸家人名録」よりも売れたにちがいなく、再版もされるはずです。それが、なぜ、原本も再版本も残っていないのか、出版する前に許可が下りず結局出版できなかったのか、いろいろ考えてみるわけです。が、もし後世の、狂歌にも俳諧にも美術にも詳しい雑学家が、日数をかけて編集して、私家版として作ったとするならば、制作可能だと私は思うわけです。まあ、私の推論はひとまず置くとして、先を進めます。

 大田南畝の奥書には、文政元年7月5日に竹本氏が写本を持って来たとあります。
 文政元年(1818年)といえば、南畝が山東京伝の「追考」を添えて「浮世絵類考」三部作を完成させ、奥書を書いた年です。「浮世絵類考」で南畝の手筆の奥書のある原本は現在未発見です。写本によって、奥書には、「右追考 山東京伝手書本 文政元年戊寅六月晦日 七十翁 蜀山人」と書いてあったと知ることができるだけです。「諸家人名江戸方角分」の写本を南畝が入手するのは、その5日後です。もちろん、三馬の補記はこの時点では書かれていないので、南畝の「浮世絵類考」は原初段階(専門用語では「うぶ」)のままです。
 「諸家人名江戸方角分」には、浮世絵師の人名と付記が数多く載っています。浮世絵師の分類ではなく、画家に加えた浮世絵師も何人かいるので、ざっと数えると50数名になります。ここには古い浮世絵師は入っていませんから、「浮世絵類考」原撰本にある当世浮世絵師の20数名の倍以上になるわけです。
 主だった浮世絵師を、「江戸方角分」と「浮世絵類考」の記述を比較してみると、「江戸方角分」の方が住所も俗称も号も断然詳しいことが分かります。
 たとえば、当時大家の名をほしいままにしていた豊国は、
「江戸方角分」では、地名の中橋にその名前を記載した上で、

 豊国  号一陽斎 上槙町 倉橋熊吉

 とあります。
 「浮世絵類考」では、「錦絵をよくす 墨と紫ばかりにて彩色の錦絵をかきはじむ 歌舞伎役者の似顔をもよく画けり」とあるだけで、号も住所も俗称も書かれていません。
 のちに(文政4年までに)三馬が補記を付け、

 三馬按 豊国号一陽斎 芝神明前三島町ノ産 俗称熊吉 委クハ別ニ記ス 門人アマタアリ

 と書き加えます。
 三馬は浮世絵師のことも戯作者のことも大変よく知っていたことは間違いありません。浮世絵師に関しては、瀬川富三郎という上方出身の歌舞伎役者とは比べものにならないほど、三馬は知識豊富だったはずです。
 三馬の補記は文政元年から文政4年までに書かれたことは確かですが、「江戸方角分」が先にできて、それを参照して三馬が補記を書いたとはどうしても思えないのです。私は逆だと思います。「江戸方角分」の編者は、三馬の補記のある「浮世絵類考」を参照したにちがいありません。
 豊広についての記載を比べてみましょう。
「江戸方角分」には、芝場の地名にその名があります。

  豊広  歌川 号一柳斎 増上寺片門前 (俗称空白)

「浮世絵類考」には、
  
  豊広  豊春門人也 張まぜ 小さき一枚絵 墨絵など画けり

 とあるだけですが、三馬の補記は、

 三馬按 豊広 号一柳斎 俗称藤次郎 当時芝増上寺片門前ニ住ス 寛政ノ末ヨリ草双紙ヲ画ク 当時ニ至ルマデ読本ノ挿絵 数多画ケリ 伝は別記ニ譲ル

 どうでしょうか。「江戸方角分」の編者が三馬の補記をそっくり採用しているとしか思えません。
 もうこのくらいでいいでしょう。
 「諸家人名江戸方角分」についての私の結論は、これは後世の作で、大田蜀山人の奥書も、著者の瀬川富三郎も、竹本氏という人物もでっち上げです。ただし、内容的には大変面白く、便利で役に立つ労作だと思います。

 最後に「諸家人名江戸方角分」の写楽の記載箇所の画像をもう一度掲げておきます。



 通称も俗称も空欄なのは、意図的に隠したのではなく、編者が作成時には分からなかったからだと思います。
 したがって、「諸家人名江戸方角分」は、斎藤月岑が「増補浮世絵類考」の稿本をほぼ完成させる天保15年(1844年)以前に作られたのではないかと思います。前回のブログの最後に、石塚豊芥子と達磨屋五一が臭いと書きましたが、これは早計なので保留にしておきます。


写楽論(その29)~「諸家人名江戸方角分」

2014年05月19日 08時10分26秒 | 写楽論
 さて、一番問題なのは、三の(1)の瀬川富三郎(三代目)編「諸家人名江戸方角分」(ほうがくわけ)にある八丁堀に住む浮世絵師(死亡)の「号写楽斎 地蔵橋」の記載です。
 私の意見から言いますと、この記載もそうですが、この「諸家人名江戸方角分」という冊子自体も、いかがわしいものに思えて、仕方がありません。後世の偽作のような気がするのです。

 「諸家人名江戸方角分」の写本については、中野三敏氏の「『諸家人名江戸方角分』考」(『浮世絵芸術』49号所収 1976年)と「写楽」(中公新書 2007年)に詳しい検証と説明があります。また、「諸家人名江戸方角分」は現在、国立国会図書館が所蔵していて、近代デジタルライブラリーで閲覧できます。私は全部プリントアウトしてみましたが、見開き80枚で、序文から奥書まで計157ページの冊子です。それと、東京教育大学(現・筑波大学)図書館所蔵の「東都諸家人名録」という写本は、タイトルは違いますが、この「諸家人名 江戸方角分」を書写したもので、同じものだそうです。
 「諸家人名江戸方角分」の写本は冊子になっていますが、序文によると本来、一枚刷り大判の一覧表だったようです。しかし、実際どういう形で出版されたかは不明です。また、この原本は、現存していません。この写本は、大田南畝→(某氏)→達磨屋五一→林若樹と持ち主が転々と変わって、昭和35年に国会図書館にたどり着いたものです。
 「諸家人名江戸方角分」は、寛政・享和・文化期の江戸の文化人の住所別一覧表といったもので、総数は約1000名に上ります。諸家(文化人)というのは、編纂者の区別に従うと、学者、詩人、画家、書家、本歌師、連歌師、俳諧師、狂歌師、戯作者、浮世画、篆刻家で、それぞれ表示マークが決めてあります。これは人名の頭に付記するもので、同じ人に複数のマークが付いていることもあります。住所区分は40余りで、日本橋から始まって、江戸城を西に廻り、さらに北へ行って東部へという方向で地名を上げ、そこに人名を列記しています。
「方角分」という題名もこの表記方式から付けたものです。
 選んだ文化人は、現役のほかに故人もいます。故人にはマークが付いています。寛政期に亡くなった有名人でも、その家が残っていて、遺族が住んでいる場合には掲載しています。たとえば、蔦屋重三郎は寛政9年に死去していますが、馬喰町の先頭に、狂歌師のマークと故人のマークを付け、「唐丸」の名前で載っています。

 この写本には大田南畝(蜀山人)の手筆の奥書があり、こう書いてあります。

此書歌舞伎役者
瀬川富三郎所著


文政元年七月五日竹本氏写来
        七十翁蜀山人




 画像を見てもらうと分かりますが、蜀山人の奥書の最初の3行と年月日・署名がページをまたいでずいぶん離れて書かれてあり、蜀山人の署名の後には押印がありません。
 また、右ページには広い余白があり、蜀山人の奥書の反対側の下に達磨屋五一の方形の朱印が押されています。
 そして、朱印の左側に年月と蜀山人の署名がありますが、位置関係がどう見ても不自然です。

 蜀山人の筆跡は癖のあるものですが、最初のページに地名をずらっと二段に並べて書き込んであるところと、本文中の書き込みの数箇所も蜀山人の手筆だと判定されています。中野三敏氏は、これらを蜀山人の真筆だとしてまったく疑っていませんが、蜀山人の偽筆は相当出回っていたので、偽筆の可能性もあるかと思います。
「諸家人名江戸方角分」は大田南畝の「南畝文庫蔵書目」には載っていないとのことですが、そのことについて中野氏は著書「写楽」でこう書いています。なお、(イ)本は国立国会図書館所蔵の「諸家人名江戸方角分」の写本、(ロ)本はその再写本とされる筑波大学図書館所蔵の「東都諸家人名録」のことです。また、(ロ)本には蜀山人の奥書の写しの後に「右諸家人名録横山町三丁目 両裏ぬしより借写置もの也」と書いてあり、石塚豊芥子の蔵書印が押してあるとのこと。

「(イ)本は蜀山の手択ではあるものの、蜀山の印記なく、また『南畝文庫蔵書目』にも見えぬゆえ、一時的には蜀山の手許にあったもののすぐに離れて両国横山町三丁目の両裏ぬしか、もしくは蔵書印に明らかな如く日本橋四日市の達磨屋の手に落ちたらしい。両裏ぬしなる人物と達磨屋とが別人であることは一応その住所の違いが証明していると言えようが、さて、蜀山の手を離れてひとまずどちらに落ちついたものなのか、そこまでは今量りかねている」(中野三敏著『写楽』98ページ)

 中野三敏氏は、著書「写楽」で「江戸方角分」の内容の検証を実に詳しくしているのですが、前提となる大事な点では決めつけが激しく、信じたことは疑わないところがあり、蜀山人の奥書を絶対に真筆だと信じているわけです。(斎藤月岑の写楽について補記も、写楽斎=東洲斎写楽も間違いないと断言しています)

 中野氏の著書を読んでいると、ある部分は細かすぎるほど綿密に書いているのですが、重要な部分の検証がまったく欠落しています。私が気になるのは以下の点です。
 「諸家人名江戸方角分」の著者瀬川富三郎の名も、「江戸方角分」の成立時期を推定する年月(文政元年7月5日)もこの奥書以外にはどこにも記されていないこと。
 「諸家人名江戸方角分」は、筑波大学図書館所蔵の「東都諸家人名録」がその再写本であるとするならば、写本は一冊しかこの世に存在しないこと。もし原本が出版されたとするならば、当時の文献でこの人名録のことに触れた記述があると思うが、中野氏ほか誰からもその指摘がないこと。
 大田蜀山人の手許に竹本氏という人が作成したこの写本が文政元年7月5日に届いたとして、蜀山人は48の地名を早見表のように2ページにメモ書きし、さらに奥書を記して、綴じ直したわけです。それをなぜ間もなく手放したのか、これも分かりません。中野氏は、すぐに日本橋四日市の達磨屋の手に落ちたらしいと書いていますが、達磨屋五一が珍書屋を開くのは嘉永3年(1850年)で、五一が生まれたのは文化14年(1817年)、中野氏が「諸家人名江戸方角分」が制作されたと定めたのと同年です。この写本が蜀山人の手に入ったとき、達磨屋五一は2歳です。
 中野三敏という人は、どうしてこうもいい加減なことを書くのか私には理解不可能です。
 石塚豊芥子のことは、前に紹介しましたが、1799年生まれなので、達磨屋五一よりは一回り以上年長ですが、彼が、この写本の写本を入手するのも、ずっと後年のはずです。つまりこの写本は、15年から20年間、蜀山人の手を離れ、どこにあったのでしょうか。しかも、蜀山人の手筆の奥書があり、これほど便利で役に立つ本が、一冊しか写本されず、30年後に達磨屋五一の手に落ちたというのも不思議な話です。
「浮世絵類考」の写本の数とは雲泥の差です。

 石塚豊芥子と達磨屋五一の二人は親しい間柄だったようですし、江戸時代の珍書・希書の収集家であり、雑学にも通じています。狂歌や過去の狂歌師のことも詳しかったはずです。これはあくまでも私の推測ですが、この「諸家人名江戸方角分」という写本は、この二人の共同作だったのではないでしょうか。蜀山人の奥書も偽筆で、瀬川富三郎の名も、文政元年七月五日という日付もデタラメだったのではないでしょうか。ただし、内容は当時に即して正確で、狂歌師や浮世絵師をたくさん載せて、人名録として奇抜で面白く便利なものを作ろうしたことは確かです。