背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その16)~フェノロサと小林文七と岡倉天心

2014年05月04日 04時36分36秒 | 写楽論
 写楽も含めて浮世絵に対する再認識と正しい評価への端緒を開いた人物は、日本人ではなく、米国人のアーネスト・フェノロサ(1853~1908)でした。そう言って間違いないと思います。
 フェノロサは、明治11年(1878年)に来日し、東京帝国大学で講義をした、明治政府のお雇い外国人の一人です。岡倉天心も坪内逍遥も彼の講義を聴き、影響を受けた日本人でした。とくに、岡倉天心(1863~1913)は、フェノロサの通訳として彼に同行し、関西の古い寺や神社を回って、美術品の調査にあたりました。フェノロサも岡倉天心も明治政府の文部行政にかかわり、日本の美術振興に貢献した人物で、とくに指導者のフェノロサは、日本の美術全般に対し、日本人の目を見開かせてくれた啓蒙思想家で、日本美術界の大恩人と呼ばれています。東京美術学校(今の東京芸術大学)の創立に尽力したのもこの二人です。


アーネスト・F・フェノロサ

 私はもちろんフェノロサの名前も、また彼が日本で何をしたのかくらいのおおよそ知ってはいたのですが、彼が書いた文章も講演筆記もまったく読んだことがありませんでした。
 先日、フェノロサが緒論を書き、浮世絵の解説を口述した「浮世絵展覧会目録」(1898年=明治31年4月発行)を通読してみました(英文の和訳です)。そして、彼の浮世絵に対する愛着と造詣の深さに驚きました。
 この100ページほどの冊子は、浅草の画商で浮世絵の蒐集家でもあった小林文七(1861~1923)が、上野で浮世絵の展覧会を開いた時に作ったものです。小林は、かねてから親交の深かったフェノロサに、展覧会の出品作241点の時代考証を依頼し、作品を年代順に並べて、絵師の流派別分類からその画風、一点ごとの絵の解説まで口述してもらい、それをまとめたのでした。フェノロサはこの頃、すでに米国に帰国し、ボストン美術館の東洋部長に就いて、収蔵品(浮世絵は1万点収集されていたとのこと)の整理にあたっていたのですが、小林がフェノロサを日本に招聘したようです。フェノロサは、ニューヨークで世界初の浮世絵展覧会(1896年)が開かれた時、その監修と目録作成をしていました。
 この小林文七という人もたいした人物で、浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展覧会を開いたり(明治25年11月に日本初の浮世絵展、明治31年に肉筆画の浮世絵展)、蓬枢閣という出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心の大著「葛飾北斎伝」、フェノロサの大著「An Outline of the History of Ukiyo-ye」など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術界をリードした民間の大プロデューサーでした。浮世絵を含め収集した美術品を海外に売ったりもしました。とくにフェノロサには、ギブ・アンド・テイクで多くの美術品を献呈したようです。


飯島虚心「葛飾北斎伝」復刻版

 小林文七は大正12年3月63歳で亡くなりますが、彼の死後、9月1日に関東大震災が起り、土蔵に保管してあった小林の厖大な浮世絵コレクションがすべて焼けてしまいました。地震が起こった時、暑い日の昼時だったので、土蔵の小窓を開けておいたのが燃え落ちた原因だったそうです。写楽の貴重な版下絵9点(相撲絵の下絵)が灰になってしまったのは、この時でした。現在はその写真が残っているだけです。
 さて、「浮世絵展覧会目録」の話ですが、緒論でフェノロサは、浮世絵がこの20年間に海外流出した状況と日本人の浮世絵認識の低さを嘆き、浮世絵こそ日本の驚嘆すべき特殊で独立した平民美術であると評価します。そして、多色摺り木版印刷の世界に類のない技術の高さと浮世絵の審美的優秀さを賞賛し、また日本人にとっては浮世絵が考古的価値を有するものだと述べます。

「浮世絵は他に記述せられざる事実の無双の倉庫なり。風俗、衣服、結髪法、模様の流行、室内の装飾、市街の景況、また過去の人心が田舎の風景に対する感情は、完全なる浮世絵の蒐集によりて知るを得べし」

 そして、フェノロサは、まさにこの細かい社会風俗的な差異と美的傾向の変化を精密に比較検討することこそ、浮世絵の製作年代を特定する決め手になると力説します。それを彼が実行して、それぞれの作品の年代を特定したのがこの目録だったわけです。フェノロサの年代特定は、享保3年、明和2年、宝暦7年、寛政元年といったように非常に厳密なものです。ここには、フェノロサの考証学的美術研究の方法論が示されていて、日本の美術研究者は彼の方法論をその後見習っていくことになります。
 フェノロサは、春信、清長、北斎を高く評価していて、写楽はあまり好みでなかったようです。写楽の役者絵はこの展覧会ではなぜか1点しか出品されていなかったのですが、フェノロサの解説を引用しておきます。(よく写楽の本に引用されていますが……)

「第百九十一番 写楽板物 演劇図 一面 寛政六年頃
写楽は寛政間に出でたる荒怪なる天才なり。其人物は醜陋なる甚しければ、必ずやただ少数の感動を惹きしなるべく、米国の蒐集家は之を嫌忌すと雖も、仏国の其々蒐集家は写楽を頌して浮世絵最大家の一人と為すに躊躇せず。写楽の作は醜陋を神とし祭れるにて、従て又衰頽中最も衰頽せるものなり」



 展示された絵が何であったかは分かりませんが、写楽の絵についての一般論を述べています。また、もとの英語は分かりませんが、文中の「荒怪なる天才」=strange genius,「其人物は醜陋なると甚しければ」=because his portrait is too ugly(or indecent) だったのではないかと思われますが、「醜陋を神とし祭れるにて」と「衰頽中最も衰頽せる」は、誤解招くようなひどい訳文です。訳語が大袈裟すぎるので、これを引用する写楽研究者は、ぜひ注釈も加えてもらいたいと思います。梅原猛氏などは大変な曲解をしています。あの人は、明治時代の誤訳の多さを知らないのでしょうか。
 要するに、フェノロサの口述は、「写楽は人物を醜悪に描きすぎたので、きっと少数の人たちしか感動しなかったのだろう。(中略)写楽の作品はその醜悪さにこだわったため、すぐに衰微してしまったのだと思う」といったことなのでしょう。
 フェノロサは、写楽の絵を寛政6年と特定しています。女形役者の髪形や笄(こうがい)を見て、決めたのではないかと思いますが、すごいことだと感心しました。写楽の作画期を寛政6年から7年と特定したのは、フェノロサだったわけです。浮世絵研究の第一歩は、フェノロサから始まったと言えると思います。
 それと、写楽の絵は、明治半ばには、アメリカ人は好まず、フランス人が好み、最大の画家の一人だと評価していたことが分かります。
 フェノロサと岡倉天心は、明治18年(1882年)から翌年にかけて、美術学校設立のために、欧米視察を行っています。フランスではいわゆるジャポニスム(日本趣味)の真っ最中で、フェノロサはフランスで浮世絵の収集家や愛好者が多いことを知り、また天心は、フランスの画家たちが浮世絵を賛美していることを知って、勇気付けられたとのことです。天心は、帰国後、日本美術そして日本文化の復興へ向けて、本格的な活動を始めます。


岡倉天心

 ただし、岡倉天心は、浮世絵の版画技術と美しさは認めたものの、その享楽性を好まず、日本美術に高い精神性と理想を求めました。「東洋の理想」(The Ideals of the East with Special Reference to the Art of Japan)(原書英文 1903年 ロンドンにて発行)では、こう書いています。

「かれら(江戸庶民)の唯一の表現であった浮世絵は、色彩と描画においては熟練の域に達したが、日本芸術の基礎である理想性を欠いている。歌麿、俊満、清信、春信、清長、豊国、北斎などの、活気と変通に富むあの魅力的な色刷の木版画は、奈良時代以来連綿としてその進化をつづけてきている日本芸術の発展の主幹の経路からは外れているものである」(講談社学術文庫より)