沼と堀と堰
沼(溜池)の水が田から堰、そして又田へと、ここ粕川畔水田のかんがい水路は走る。集落の水田開発のあゆみをこの堀が語りかける。今はそれを塗りかえるかのようにコンクリート水路に変わろうとしている。過去の痕跡は旧粕川にのこされている。
沼の水は堀を通り上の田から下の田へと次々に潤してゆく。各々の水田が一杯になると堀の水は粕川へとそそぎ、そして下流の市野川に流れていくのである。
沼のひとつひとつ、それ自体はおのおの独立した水源で、それぞれひとまとまりの水利単位戸成っている。こうなると水路が走り抜ける集落の協力なしには昔からの水路の維持が出来なくなり、水を通しての集落の人達との繋がりはこみ入ったものとなってくるであろう。
また逆に耕作者とのつながりが広くなってゆく下地がなければ、広域にわたる水利施設は造り得ず、そこには結合したひとつの意思が必要である。
沼周辺の背後の山はそこに住んでからの燃料、肥料の供給地である。そして谷づたいに形づけられた一つの生活領域ともいえる。
いくすじもの谷の口を通り越して走る粕川の堰から見た集落の景観は素晴らしい領域である。
水田とはそこに労力と荒れ地さえあれば、いかようにも拓くことが出来るというものではない。どこからどのようにして水を引くのか、そのことをぬきにしては開田は考えられない。
だからこそ水のつながりはそのまま人との繋がりと重なっていく。
水田にはその取水施設や手段に地域性や時代性が見受けられる。そして、水田の多くは一枚一枚に名前が付けられている。名前といってもそこを作っている家か、せいぜい集落のみに通用する呼称である。
かっすい期には水を引く権利をもたぬ、後から割込む形で拓かれた田は後々まで不利な条件を背負っている。
水利とは変わりにくいものであるが、沼の水から堰へといった取水施設全体の大もとからの変化があればそれを期にして大きく変わることがあるのも事実である。
大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)23頁~24頁
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