嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

『粕川のほとり』3 川沿の歴史をたどると 田畑俊夫

2009年04月07日 | 七郷地区

  川沿の歴史をたどると
 暮らしの安定を願い、そこに住み田畑をつくった、苦闘の祖先の息づかいが、谷から肌で感じられる。
 むらの始まりには二つある。思い思いに土地を拓いて居を定めるか、ある計画(開拓)に基づいて行うかである。
 条里集落、名田集落など。また、江戸時代の新田村、明治時代の北海道の開墾村などがあげられる。集落の歩みを景観から見て分かりやすいのは計画開墾の場合である。
 これは一つの意志のもとに、あるまとまった土地が拓かれた場合、そこにはルールが読取られるからである。そうしてそのルールが読取られるその範囲が、その開墾の広さを知る大体の目安にもなる。
 これは開墾に限らず共有山を家毎に分けて持った場合などにも同じ事がいえる。
 こうした規則性は水田よりも畑の方がわかりやすい。畑はあらかじめ分割して拓くことができるからである。水田は水を張るために水平面を作り出さねばならず自然的な条件が強く作用される。
 地図をみて、嵐山町(旧七郷村)粕川(市野川の内川)の流域をみると、多くの堀が枝状にはいりこんでいるのがわかる。この堀の奥には、それぞれ水田かんがい用のため池(地元ではノマとよんでいる)が構築されてある。ため沼の構築年代がわかるのは、江戸、明治に入ってから築造されたもので、碑も立ってある。この地域は水田にしろ拓けるところは拓きつくしたところであって、谷間に造られてある数多くの小さいため沼は、最初から計画されて、造られたものは僅かであると聞いている。
 水田に水を引くのに便利な湧水(清水)の出るところに、その水量に見合うだけの水田が拓かれて、ため池に水を蓄えて安定させ、安定させた分だけかんがいするのと、初めから計画的にため池を造るのでは水田の形が違ってくる。計画的な水田は一枚一枚に水路を伸ばすべく整然とした形をもっているが、湧水(清水)を引いて拓いた水田は当初の都合をそのまま受けつぎ、畦ごしの田あり小水路ありできわめて不揃いになっている。
 伝えられるところによるとため池の中には五百年以上も前に造られたものもあるといわれる。古いものはいつの時代に造られたか不明である。
 比企丘陵の中の、とくに嵐山町、滑川町、小川町、東松山市にかけては中世の城館跡が数多くあり、古くから高度な土木技術が導入されていたことも考えられることから、この地域内の沼は中世、あるいは古代までさかのぼるかも知れない。
 昔から人間は川のほとりに住みつき、川の流れとともに生きてきた。と同様にこの丘陵内に住んだ祖先達も、沼を造って水田を拓いて、丘の畑によって暮らして来たのである。集落の歩みを考えると、昔、この谷に住みついた人達は思い思いに谷水を沼にため、山際に家を建ててそこに居を定め、そこから土地を拓いた。そうして家々はひとつの連合をつくって自衛を図り、また生活の区切りや慰労を兼ねた祭りやお日待ちを生み出し今日まで伝統として受継ぎ遺している。
 飛地、ここに集落があるが、遠くの方を拓いた名残りである。どこの家でも恵まれた場所にあったのではなく、拓き残しの場所を開墾したものと推し測られる。
 初めの集落は自立性の弱い傍系家族、作男、下働きの女などをかかえた家父制的な地主のいくつかのグループが集まって出来たものであって、個々の農民はこのグループのいずれかに隷属的に含まれていた。
 集落に屋敷という家号があるのは、この家の先祖が本家の祖から土地を貰って、ここに住居を構えたのだと聞くが、屋敷と呼ばれる家は今でも旧家が多い、本屋敷、新屋敷、前屋敷の家号が今もむら内に相当ある(既刊『嵐山町誌』「村の成立過程」参照)御屋敷様はその人の名前を直接指さず、貴人に対する礼であった。
 つぶれ屋敷といわれるところをみると氏神、井戸、壕がそのまま今も残っている。集落の開拓当初よりの人の家が現在まで絶えずにずうっと続いている例は少ないのでないかと思う。家族が絶えたり、破産して家人が出てゆき、空家になった場合、その家のつきあいや、墓守り、あるいは借金などをそのまま受継ぐ形で他から新たに人が入り、その家督を継いだのだということを耳にする。
 家が絶えて、人が出ていっても墓はそこに残っている。新しくあとを継いだ家は新たに墓を作る。前の墓はやがてどのような家の墓であったかも忘れ去られてしまう。土地の古老がさりげなく語った。
 「あの墓かい、うちの墓では無いんだが、うちが守りをしていて、盆にはきれいに墓掃除して、線香、花をあげて、菩提を弔っている」と、この御仁は仏心の深い、土地を愛している人で敬服した。
     大塚基氏編『粕川のほとり』(1989年)7頁~10頁


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