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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その64ハンガリー

2016-12-18 18:05:58 | 日記

ハンガリーは、面積が約9.3万平方キロメートル(日本の約4分の1)、人口約約983万人(2016年1月、中央統計局)、中欧ヨーロッパの共和制国家です。

西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国で、首都はブダペストです。

ハンガリーの観光案内はこんな言葉ではじまります。

「ドナウの真珠とたたえられる美しい首都ブダペストを持つハンガリーは温泉、民族音楽、オペラやコンサート、美しい景観、ワインやパプリカで味付けされた料理など訪れる旅人の五感を満たす素材に満ち溢れています。

またハンガリー人は、ユーラシア大陸のもっとも西に住むアジア系の民であり、もっとも東に住み、発展を遂げた日本人を尊敬する親日家の多い人たちです。この「安らぎの国・ハンガリー」へ是非お出かけください。」

首都のブダペストが美しいのは、1867年から1918年まで大国として存在したオーストリア=ハンガリー帝国の名残なのでしょう。

また、ハンガリー共和国の国民の大多数はマジャル人(ハンガリー人)で、マジャル人はフィン・ウゴル語族のハンガリー語(マジャル語)を母語とし、ウラル山脈の方面から移ってきた民族だそうです。人種的にはヨーロッパ系ではなく、中央アジアに近いのだそうです。

因みに、マジャル人の姓名は、日本などと同様姓が名の前に付きます。

内陸国ですから海はありませんが、長さ77km、幅3〜14kmのバラトン湖は中央ヨーロッパで最も大きくまた最も有名な湖であるとも言われます。

ハンガリーの人々(一部の観光業に従事している人々だけかもしれませんが)は「ハンガリーの海」と呼んでいるようです。

ハンガリーの名を冠した曲としては、ブラームスのハンガリー舞曲集があります。その中でもハンガリー舞曲第5番はご存知の方が多いのではないでしょうか。

ブラームスは1850年代の前半に、エドゥアルト・レメーニの伴奏者としてドイツの各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからジプシー音楽(ロマの民族音楽)を教えられて魅了されました。

それ以来ブラームスは、それをハンガリーの民族舞曲と信じて採譜を続け、ハンガリー舞曲集を出版します。ハンガリー舞曲集に作品番号は付いません。これはブラームスの自作ではなく、伝統音楽の編曲にすぎないためだそうです。

現在のハンガリーの民族構成はハンガリー人(86%)、ロマ人(3.2%)、ドイツ人(1.9%)です。

当時もハンガリーにはロマ人が多く居たそうですから、ブラームスがロマの民族音楽がハンガリーの民族舞曲であると思ったのも無理からぬことかもしれません。

ロマは西暦1000年頃に、インドのラージャスターン地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへとたどり着いたとされています。

旅に出た理由は定かではありませんが、西方に理想郷を求めたなどの説があります。

ロマがヨーロッパの歴史に出てくるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることとなりました。

ドイツにおいては、ナチス党が自由選挙で国民の支持を受けて政権を獲得した後の1935年に、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行されました。

ロマの選挙権は剥奪され、非ロマとの結婚禁止、商売の禁止、学校入学の禁止、ドイツ国内での移動禁止などが主な内容で、その後ロマは強制移住や強制労働政策の対象となり、収容されたロマには優生学的な観点から、強制的断種手術が行われたそうです。

当時のドイツ政府は、ロマがアーリア系であることは知っていたのですが、アーリア主義を掲げるナチス党政権がロマ撲滅を図ったのは、ロマがドイツ人と相いれない生活習慣を持つため、「アーリア系の面汚しであり、劣った異民族の血が混じっているに違いなく、放置すればドイツ人の血が汚される」と考えたためだそうです。

ロマはユダヤ人のホロコーストと同様に虐殺の対象とされ、その虐殺はポライモスと呼ばれています。

正確な数は不明ですが、戦争中に約50万人のロマが殺害されたとされています。

戦後もロマの状況は良くなっているとは言えないようです。

スイスでは、1926年から1972年まで政府の支援を受けた民間団体「青少年のために」が1000人以上の子供のロマを親元から誘拐し、施設に収容したり、スイス人の家庭へ養子として引き渡したりしたそうです。

また、1999年のコソボ紛争では、セルビア人、アルバニア人の双方から迫害を受け、今でもそれは続いているのだそうです。

ハンガリーのお隣のルーマニアでは、185万人のロマが住んでいるのですが、ルーマニア政府は、「国内にロマはいないため、ロマに対する差別問題は存在しない」としてロマの存在自体を否定しています。ミャンマーのロヒンギャ族問題を思い起こさせます。

それに比べれば、ハンガリーに住んでいる70万人のロマの人々はまだましなのかもしれません。

ハンガリーでは、10月2日にEU加盟国が受け入れる政策の是非を問う国民投票が行われ、反対が98%を超えたそうです。もっとも、投票率が約43%で50%を超えなかったため、国民投票は無効になりました。

それに先立つ9月13日には、セルビアとの国境に有刺鉄線のフェンスを設置し、難民を締め出したハンガリーに対し、ルクセンブルグの外相が「ハンガリーは難民問題でEUの価値観を著しく侵害している」とドイツの新聞に述べました。

それに対し、ハンガリーの外相は「タックスヘイブンのルクセンブルグに言われたくない。ハンガリーには、他国の失敗による負担(難民)を負う義務は無い。」と述べたそうです。

他国の失敗とは、第二次世界大戦前後のイギリスとフランスの中東地域での支配の失敗とドイツ・イタリアによる中東への侵攻が今日の混乱の遠因となっているとの思いがあり、それは中欧諸国で多かれ少なかれ言われていることなのだそうです。

また、より当事者に近いトルコとロシアを非難する声も多いのだとか。

中欧諸国が中東難民の受け入れに難色を示しているのは、国内にロマの問題を抱えているからという意見もあります。

ロマの問題だけでも頭が痛いのに、それに中東の難民まで受け入れるのは厳しいということでしょうか。

中東の難民が第二のロマになる、

それを恐れているのかも知れません。

日本人の私には、中欧諸国におけるロマの人々への迫害や、中東難民の受け入れ拒否を非難することはできません。

日本は中東難民の内、わずか150人の留学生を受け入れるのに過ぎないのですから。

でも、海外で日本の評判は決して悪くないのです。それは、色々な国々で日本人の先達たちが残した遺産なのだと思います。

中東の紛争地域で紛争が終わったら、子供たちや大人たちに笑顔が戻る。

どこの地域でも永遠の平和は望めないのですが、人々が幸せになれば一年でも長く平和を続かせることはできるのだと思います。

笑顔を長続きさせる手助けは、日本にもできると思いたいのです。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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