冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

珠玉 9

2008年01月06日 | 珠玉
(今日も……逃げなかった。此処に、いてくれた)

毎夜、己の塒(ねぐら)と決めた宮に戻り、瀬那の姿が消えていないこと
を知って安堵すると同時に、ようやくその日一日の終わりを実感する。

「お帰りなさい」

慎ましやかな微笑と共に、小さな両手を軽く握り合わせ、※万福(ワンフ
ゥ)の礼を取って“夫”の自分を出迎える“妻”。

軽く屈められた両膝と落とした腰の動き、そして立襟に覆われてなお細
い首が、僅かに傾げられるのに合わせて、以前は自由奔放に飛び跳ね
ていた黒褐色の短い髪──戦に出るために自ら断ったのだとは、アイシ
ールド21であった彼自身ではなく、この自分が振り撒いた嘘──もまた、
もともとカケイの視線のかなり下方に在ったその位置を、更に低くした。

その髪の上から、下から、そして隙間からもキラキラと輝く、硝子や貴金
属で出来た無数の※串珠(チュアンジュー)、ふわふわとした羽毛、そし
て色鮮やかな色糸を縒り合わせて作った頭飾り──と、言う名の新たな
──が、シャラリと音を立てて揺れる。けれどもその軽やかな響きとは
裏腹にそれは、短くて不揃いな瀬那の髪を押さえ付けることを、決してや
めようとはしない。

まるで、贈り主の意図をそっくりそのまま、反映しているかのように。

「今日も一日、お疲れ様でした」

フイとあらぬ方向に顔を背けてしまったのは、その頭飾りの輝きの眩さ故
か、チクリと心を刺した罪悪感か、それとも現在の境遇に対し一言の嘆き
も、怨みも口にせぬ彼に対して感じた、言い知れない甘やかな感情の故
か……。

「ただいま、セナ……君」

ようやっと呼べるようになった“妻”の名前。初めの内は非常に苦労した。
「おい」だの「あのよ」だのと、およそ配偶者に向けて呼びかける言葉で
はなかった。

だが、それは向こうとて同じこと。

履き慣れぬ重い花盆底、挨拶時の動作に必要な平衡感覚を取る難しさ。
自分を出迎えようとする度にグラリとよろけ、戸口の段差に躓き、己の懐
にしばしば倒れ込んできた彼の、心地良い重み。

「……」
「……カケイ、君?」

彼の本心は一体、どこにあるのだろう?
巨深族の常識で考えてみても、彼自身と彼の祖国とを力ずくで奪った
この自分を、彼が、愛することはおろか、本心からの誠意を以って接し
ているとも思えない。

(たとえ……たとえ、今ではどんだけ俺がセナ君のこと、大切に想うように
なってるにしても)

カケイは知らなかった。
別に知りたいと思ったことも無かった。
だから知ろうとしなかった。
そして心の準備の無いままに囚われた。

“恋”という、理屈で説明出来ない、快く柔らかな感情に。
                      ・
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「今日は……何をして過ごしてたんだ?」
「いつもと同じです。侍女の皆とお喋りしたり、おやつ食べたり、まもり姉
ちゃんにお習字見てもらったり……」

一緒に御飯食べながら話しましょうと、差し伸べられた両手。細い骨が薄
く浮いた甲は手甲で覆われ、掌は重ねられているか、或いは伏せられて
いることの多くなったその細く小さな手指に散らばる剣胼胝や、無数の小
さな傷痕を見ることが出来る“男”は、今やこの自分だけなのだと、屈折し
た小さな幸福感に一時満たされると同時に、何も刷いていないにも拘らず、
日に日に蒼白さを増してゆく瀬那の顔色を目にしてカケイは、彼に外出の
自由を許さない、己の狭量を恥じた。

不安、なのだ。
どれだけ“枷”を付けておいても、それらをものともせず、彼はいつか、自分
の手の届かない所へ、光のように走り去って行ってしまうのではないかと。

それほど目立たないとは言え、目に付かないとも言い難い瀬那の喉元の
小さな突起は、彼こそが自分と巨深族に幾度も苦杯を喫させた“アイシー
ルド21”なのだという事実を、カケイに嫌でも思い起こさせるので、巨深族
の“女”の衣の立襟で、きっちりと覆い隠させていた。

その着付けも、瀬那自身の自主性を、鳥の翼をもいで飛翔の自由を奪うが
如くに殺ぎ落とし、どこへも行く気力が出なくなるようにと、口が堅く信用の
置ける巨深族出身の侍女たちに任せた。

もっともその中に、婚儀の数日後、突然やってきたかと思うと、正門から堂
々と「開けなさい!」と、巨深の猛者たちを一喝し、もう一人の小柄な少女
と共にまったく臆すること無く、且つ勝手知ったると言わんばかりに城内を
ズンズンと足早に進み、あっという間にカケイを始め、巨深族指導層の人々
が住まう、かつての後宮区域まで辿り着くと、“彼”についての第六感だけ
が異常発達でもしているのか、半刻も経たない内に可愛い幼馴染の居場
所を突き止めた、「マモリ」(と、いう名前に、カケイには聞こえた)なる娘を
入れておいたのは、カケイの瀬那に対するせめてもの気遣い(の、つもり)
だった。

「あんた、一体何なんだ!? 突然来たかと思ったら……」
「それはこっちのセリフよ! 頼みもしないのに勝手に戦を仕掛けてきて!
国中を滅茶苦茶にされただけでも許せないのに、しかもその上よくも、よく
もよくも瀬那まで……!!!」
「瀬那ー! どこー!?
「あれ、まもり姉ちゃん、鈴音!?」
「瀬那!」
「やー、瀬那ぁぁぁ!!!」
「……?」


すったもんだの挙句、瀬那のとりなしにより、二人の闖入者たちは瀬那付き
侍女として認められた。

「あの、カケイ君、まもり姉ちゃんと鈴音のことは、僕に任せてもらえません
か……?」


泥門の残党から送られてきた間諜だろうという事は、明白過ぎるほど明白
ではあったが、“妻”の秘密を守れる女手は正直、多ければ多いほど有難
いという実情、そして何より──自分を見上げてくる瀬那の、結婚後初めて
目にする、本心からの懇願の表情と、自分とミズマチに説得を試みたあの
日のそれにも似た、真摯な口調に心突き動かされてカケイは、瀬那の言葉
を容れた。

初夜の翌朝から始まって毎日、何らかの決意を秘めた凛とした顔で窓の
外を見つめていた少年。細く、また薄いその背中と、未だ稚さの抜け切ら
ぬ、だが微かに愁いを帯びた横顔を目にする度、憐れみにも似て遣る瀬
無く、しかし不思議に柔らかな思いをそぞろ感じて、この自分が──屈強
なる眷族を従えた現世の海王よと、あまねく島々は言うまでもなく、今や
王城、西部、神龍寺の三大国に於いてさえ知らぬ者はいないとまでに驍
名を馳せている、このカケイが──、密やかな溜息さえついていたことを
思えば、その溜息の小さな元凶がずっと抱いていたのであろう、見知った
者に傍にいてほしいというささやかな願いくらいは、叶えてやっても良いと
──いや、叶えてやりたいと思ったのだ。

娘二人には監視を付け、いざとなれば文字通り“切って捨て”れば良いの
だから、と。

「……いいだろう」
「あ、有難う……!」

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瀬那が二人に何を言ったのかについては、当事者たちを除いては、誰も
知る者はいなかった。が、瀬那から説得を受けた後のまもりと鈴音は意
外にも、厳重な監視の目にも文句を口にせず、また他者の不審を招くよ
うな言動は厳として慎み、彼女らにとっての“諸悪の根源”であるカケイ
に対しても、冷ややかな眼差しこそ消えなかったが、とにかく、喧嘩腰の
態度で接してくることだけは無くなった。

“マモリ”と“スズナ”は巨深族の他の者たちとも上手に付き合い、中でも
不思議なことに、彼女ら二人はとりわけ、同性たちから好意と尊敬を勝ち
得ていた。

まもりなどはその多方面に渡る有能さにより現在、城全体の女官長のよ
うな立場にまで出世(?)している。やはり瀬那の幼馴染だと言う鈴音も
また、その人好きのする明るい性格や、どこから仕入れてくるのか、城の
内外を問わぬ愉快で、しかし罪の無い噂話や、買い物に得する情報を沢
山知っていることから、女たちから引っ張りだこの存在となっている。

カケイ自身もまた、彼女ら二人のお陰で、巨深の民が泥門の人々から、
仲良くとまではゆかずとも、過剰且つ過激な排斥に遭うことも無く、日々
の暮らしに必要な物資・情報を入手することが出来るようになったことに
ついては、ホッとすると同時に、感謝にも似た気持ちが湧きかけていた。

これまでの戦と違い、戦勝後の略奪を欲しいままにすることは、カケイを
中心とした一族の上層部から、「背いた者は極刑に処する」と固く禁じら
れており、本拠の島々に凱旋帰国することもしばし叶わず、慣れぬ異国
の土地での生活に四苦八苦して、終戦後の方がより大きな心身の消耗
を余儀無くされていた、多少粗野ではあるが、純朴な侵略者たちにとって、
このようにまもりと鈴音はすぐ、無くてはならない存在となっていった。

そして、その彼女ら二人を自分たちに紹介してくれたのは、“マモリ”と
“スズナ”を通じて泥門城下の住民たちに話を通してくれたのは誰なの
──と、頭を働かせれば自ずと、如何にかつての宿敵とは言えその
並外れた武勇、それに相反して小柄で儚げな容姿と控えめな、恩着せ
がましさの欠片も無い態度と謙虚な物腰のおかげもあって、名を“セナ”
と言う、カケイの新妻に対する猜疑の目は次第に和らいでゆき、ついに
はカケイの人望を更に強化するまでに到ったのである。

「なあセナ君、……とか~~って、泥門には何かいいの無ぇか?」
「ああ、それなら……」


時には瀬那自身が、カケイ以外の巨深の有力者たちから、巨深の支配
に要らざる口出しをと謗られぬ範囲で、カケイに助言や、人材紹介をする
こともあった。

特に、脚が少々不自由ではあるが、抜群の腕前を持つ鍛冶屋の存在は、
今後の巨深軍の武器増産にとって、大きな強みになると思えた。

また、巨深の将来を担う子どもたちに、武技のみならず学問も身に付けさ
せて、一族の今後更なる発展に寄与させたいと考える親たちにとっても、
また巨深の指導者層にとっても、現在行方知れずの皇太子が考え出した
と言われる泥門王国の義務教育制度は、正に願ったり叶ったりであった。
飛び抜けて優秀な学力を示した子どもたちについては巨深族の子、泥門
の子であるに関係無く、瀬那が「皇太子様を除けば泥門で一番、頭のいい
人なんです。それに先生向きの優しい人柄ですし……」と、カケイに推薦し
た、広い額が特徴的な元・宮廷書記官が、より高度な教育を施すことにな
った。

巨深族が海神の使いと崇め奉る馬、それも主を失った良馬が数多く存在し
ていたことは、巨深族の戦士たちを狂喜させた。陸戦の割合が増えてゆく
と予想される今後に備える意味からも、馬術、引いては騎馬戦法を学びた
いと考える者は多く、彼らは泥門城の馬場で、やはりカケイから相談を受け
た瀬那の推薦により、鈴音が引っ張ってきた、右頬に十字傷の有る強面の
男の教えを受けることになった。

最初はムスッとして、いかにも不貞腐れた風の彼だったが、助走を付けて
飛び跳ねてきた鈴音に頭を勢い良く叩かれ(はたかれ)、彼女から無言で
ある方角を指し示されると、一瞬、何か、呑み下し難いものを無理に嚥下
するような表情をし、次の瞬間、突如としてキビキビとした積極的な指導を
開始した。

鈴音が示した方向に在ったのは泥門王国全盛時代の後宮区域にして、現
在の巨深族の、実質上の内廷。鈴音に釣られてそちらに視線を投げた時、
常に揺れ動いていて完全なる静止というものは決して有り得ない馬上から、
どのような距離に在る物事でも、その細部まで鮮明に映すことが可能な彼
の視界にどうやら、彼を物分かり良くさせる“何か”、若しくは“誰か”が、飛
び込んできたらしかった。

以来、男の教え方は非常に論理明快で分かりやすいものとなり、その評判
を聞き付けたカケイが、興味本位で馬場に足を運んでみれば、成程確かに、
彼が目の当たりにした光景は、この十字傷の男はかつて相当の教育、のみ
ならず正規の軍事教練をも受けたことがあるに違い無いと、カケイの切れ長
の双眸を瞠目、そして刮目させるに十分なものだった(もっとも、その時に男
から向けられた、刺すような眼差しもまた、気にならなかったと言えば嘘にな
るが)。

廃墟の中に新たな家を建てたいと望む泥門の民と共に、旧支配層の家々
を接収出来る程の地位にはない巨深族の人々は、見上げる程の巨体で
はあるが、大層人の良い大男を中心とした、力自慢や、高所作業に向い
た猿のような身の軽さ、或いはその過去は曲芸団の芸人だったのかと誰
しもに思わせる柔軟な肢体(と、ノリ)が自慢の、それこそ曲芸団か雑技団
のような人間たちが住む、下町の一角へ列を成した。美術・造形学に関し
て鋭い感性を持つ眼鏡の男と、大工の心得も有る件の腕利き鍛冶屋の連
携指導により、なかなかの家が出来上がると専らの評判となっていたので
ある。場所が人通りの多い下町であったことから、そこはいつしか、工務請
負だけでなく、情報屋・口入れ屋としての機能をも合わせ持つようになって
いった。

これら一連の出来事と時を同じくして、「アイシールド21が女だったなんて、
嘘だ!」という、巨深族内部だけでなく、泥門城下からよく聞こえてきた疑
惑の声も、徐々に下火となっていった。

実際、美少女かどうかはさておくにしても、瀬那の濃い琥珀色の双眸にジ
ッと見つめられて平静さを保っていられるものがいたとすれば──籠の鳥、
或いは深海魚にも似た彼の現況を考えれば、所詮これは、仮定に過ぎな
いが──それは、命無き無機質の存在であったに違い無かった。

男も女も子どもも、動物たちさえもが我知らぬ内、引き寄せられてしまうのだ
──カケイの奥方の瞳、その奥深くに秘められた優しさと、強さと、たった一
滴ではあるが大粒の哀しみ、そしてそれらが渾然一体となって醸し出す、不
可思議な艶に。
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                       ・
                       ・
ギュ

「……」
「あの、カケイ、君……お腹、空いてなかった? お風呂の用意をしてお
いた方が良かったですか?」

無言で自分の両手を強く握ったまま、それらを凝視している“夫”たる人。
自分の気の利かぬ対応が彼の機嫌を損ねてしまったのかと、瀬那の表
情が怯えを孕んだ。

「! す、すまねぇ……違うんだ、その……」
「?」
「な、何でもない! 飯食おうぜ!」
「はい?」

差し出された両手が瀬那の本心であったならば、どんなに嬉しいだろう?
だが、願望と現実を一緒くたにしてはならない。

(いつか裏切られたと勝手に思い込んで、辛くなるだけだ……)

言い聞かせようとしても、もう一人の自分は現実を正視することを嫌がった。
どうせ“夢”なら、その“夢”から目醒めたくはない、と。
                       ・
                       ・
                       ・
(カケイ君を幸せにすること、それが結局は皆のためになる)

彼の幸福のために、出来ることはすべてしよう。

(僕が彼にあげられるもの、してあげられること、そのすべてを、カケイ君に
……)

たった一つ、既にある人にあげてしまった、“心”を除いては。

(だけど、だけど……)

瀬那は朧げながらも知っていた。
それは本来、たった一人の相手に抱くべきものだとも知っていた。
けれど新たに知ってしまった。
そして瀬那の理性は徐々に、けれど着実に、あってはならないことを、どう
しても認めざるを得ない情況に追い込まれてきていた。

この、恐ろしいまでに相手に惹き付けられる不可思議な感情もまた、“愛”
なのだろうか?

「は……っ……」

光源は月明かりだけしか無い閨の中、暗い故に本来の健全な色よりも
仄白く浮かび上がった細い二本の腕。その最先端、長きに渡った戦場
生活のせいで、ギザギザに欠けてしまった十枚の桜貝が、広い背中に
幾筋もの傷を付けてゆくが、当の負傷者はどうやら、まったくと言って良
い程、痛痒を感じていないようであった。

むしろ加害者の方こそ、押し寄せてくる激情と快楽の大波に、いつ丸呑
みにされても不思議でない状態にあったが、こちらはこちらで、その危機
から逃げようとするのではなく、逆に自分の方からも立ち向かってゆくこ
とで、何とか溺死を防いでいた。

「カケ……イ、く……ん……」

目的が明確である以上、快楽に忠実になることに対し、瀬那は嫌悪感や
羞恥心、罪の意識を抱く必要は無い筈だった。加えて肉の悦びは、一時
的とは言え、瀬那の脳内を真っ白に──何も思い煩う必要が無いように
してくれる。

それなのに。

(ずっと……忘れていられたら、いいのに……何も、かも)

ふとした瞬間には再び、例の懊悩が、瀬那のうっすらと上気した頬をスル
リと撫で上げたかと思うと、荒々しく頻繁に上下する、薄く平坦な胸の辺り
に絡み付いてくるのだ。

或いは瀬那は、生真面目に思い悩むことこそ、しなければ良かったのかも
しれない。運命の渦潮は望む者を導き、欲しない者を引き摺るのだから。

ましてや彼の懊悩は、「運命」の一言で括られるだけでなく、瀬那自身も
相応の覚悟を決めた上での選択により、もたらされたものである。

だが、その懊悩をなかなかに克服出来ぬことこそまた、瀬那がセナであり、
そしてやはり瀬那たる所以でもあった。
                       ・
                       ・
                       ・
密着してくる薄い少年の身体。そよ風のように軽く、如何様にも変化して、
深く、深く、どこまでも自分を受け容れてくれるそれが己に与えてくれる悦
楽は、過去にカケイが戯れで、或いは動物的本能による原始的欲望とそ
れに伴う熱を発散させるためだけに抱いた女たちから得たものとは、桁違
いのものだった。

(やべぇ……溶けちまいそうだ……)

自己抑制が日に日に効かなくなってきていることを、彼は既に自覚していた。

「ふ……っ!」

最初は、(潜在的にその気[け]があったということなのだろうか)と、自己嫌
悪に悶々としていたが、では瀬那以外の男を見て劣情を抱くのかと自問自答
すれば、答えは腹の底から込み上げてくる嘔吐感だけだった。

恋情の欠片を肯定し始めた最初の頃は、瀬那の勇気と才智に惹かれた
のかと思っていた。だが日々を共に過ごす内、普段の彼は決して、剃刀
のように犀利な人間ではないということが、徐々に分かってきた。

力の戦場と頭脳駆引きの戦場を離れた、普段の彼はむしろ──これこそ
が本来の姿であったようだが──、愚鈍とまではゆかないにしても、少々
抜けているくらいである。しかし、そのせいで醒めた気持ちになったかと言
えば、そのようなことは決して無く、むしろそれ故に“可愛い”とさえ思うよ
うになったのだから、恋に囚われた人間の感情というものは分からぬもの。

(ずっと傍に……一緒にいたい、離れたくない)

我ながら陳腐な願いを抱くようになったものだと、自分でも苦笑を禁じ得な
かった。

また、それほど賢くない代わりと言っては何だが、それ故にこそ、瀬那が
全身全霊で自分の一挙一動を追い、自分の意に沿おうとしてくれている
のがよく分かり、尚且つ嬉しくもあった。下手に才走っていたり、打算的で
あったりする女たちよりも、余程誠実な少年。なればこそ幼子のように甘
やかし、その願いをすべて叶え、喜ばせてやりたいと思うようになったカケ
イだった。

「セナ君……次、どうしてほしい?」

いつもは鋭利に過ぎて近寄りがたさを感じさせる、深い蒼眸に、思いもかけ
ぬ、海蛍のような優しい光が灯る。冷徹そのものであった低い声音にもいつ
しか、柔らかさが入り混じるようになっていた。

何よりもその、日に日に激しさを増す一方の情熱と共に滴り落ちてくる汗で
艶(えん)に濡れた、熱く逞しい肉体に翻弄されていた最中に見た蜃気楼。

(ああ、やっぱり……!)

垣間見た己の心の裏側に、改めて慄然とする。

(僕は……進さんも、カケイ君も、二人とも……)

何も知らなかった無垢の身体に刻み込まれた快楽の爪痕は、負傷者本人
の予想を超えて、遥かに重く、甘く、膿んでいるようだった。

心がその疼きに痺れて、引き摺られてしまったほどに。

そして極限の状態に置かれなければその存在を意識出来ない己の心、
即ち目には見えない“魂”なる不確かな存在と違い、今、この一瞬一瞬
をも着実に生きているのだということを、左胸に在る臓器の小さくとも確
かな鼓動によって常時、ハッキリと己に知らせてくる“身体”は、疑いの
余地一片だに無く、“瀬那”という一人の人間がこの世に存在するに当
たって、絶対に無視出来ぬ“存在”であった。

心だけではこの世に存在出来ず、身体だけでもまた自己の存在を確立
出来ないが故の凄絶な苦痛に、瀬那はもがき苦しんだ。

「や……嫌……! 苦しい、助けて!」
「セナ君?」
「怖い……」

快楽が過ぎて、一時的な錯乱状態に陥ったのだろうかと、悪夢にうなさ
れている子どものような表情の瀬那を見て、カケイは自分の激情を反省
した。

「ごめんな……今日はもう、セナ君の嫌がることはしねぇから……」

最初の日みたく強引なことも、誓って二度としない、だからもう泣かない
でくれと、小さな背を撫でさする。

(……あったかい……)

カケイの大きくて温かな掌の感触に、広く逞しい胸板の力強さに、瀬那は
堪らず縋り付き、その存在にもっと包まれたいと願って、名を呼んだ。

「カケイ君、カケイ君、カケイ君……!!!」

思えば蛭魔が姿を消し、進と会えなくなってからというものずっと、己に対
し、甘えと涙と立ち止まることを禁じてきた日々だった。

(もう、離れられない……この、温かさから……)

ピンと張り詰めていた何かが、瀬那の内部でプツリと切れ──そして彼の
意識は、深海の穏やかで優しい闇の中へと沈んでいった。

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