冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

珠玉 8

2007年07月15日 | 珠玉
瀬那は決して、蛭魔のように智謀をめぐらすことに長けている訳では無い。
その脳の働きはせいぜい十人並みだ。それでも、大切な人たちの顔が脳
裏に浮かぶと、その臆病な心が激しく鼓舞された。あの人たちにまで暗い
黄泉路を辿らせてはならない、と。そしてその中には当然、東の隣国の一
騎士の顔もあった。

昔、蛭魔が、野原の草の上に胡坐をかきながら、自分を背もたれ代わりに
して、政治に関する機密書類をペラペラと捲りながら呟いていた時、耳にし
た、当時の瀬那にはさっぱり意味の分からなかった蛭魔の、深遠に過ぎる
思考に彩られた、数々の独り言。仲間たちの生命と国の命運がかかった、
現在のこの危機に瀕して初めて、瀬那の中で、それらの耳学問の精華(の
ごく一部)が、鮮やかに花開いた。もっとも、そのことこそが、後々まで瀬那
を苦しめる主要な原因の一つになろうとは、この時はまだ、誰一人として知
る由も無かった。当の瀬那本人も含めて、である。

(あと少し、ほんの少しでいいんだ……今この瞬間にも、一秒でも長く時間
を稼いでおけば、まもり姉ちゃんやモン太たちは国外に脱出出来る……普
通の人たちはともかく、デビルバッツ部隊の皆は、絶対後で何か、理由こじ
つけられて、酷い目に遭わされるに決まってるもん。それに、この巨深の人
たちはいずれ必ず、西部や王城にも攻め込むんだろうけど、それに対しても
皆がそれぞれの国に行って西部と王城の同盟締結を提唱すれば、巨深族
を挟み撃ちに出来る……)

辛いことではあったが、今となってはもう、泥門王国自体は敗戦を受け入
れるしかなかった。繰り返しになるが、これ以上の長期戦は、兵力面から
言っても補給面から言っても、既に限界を通り越しているのである。

対する巨深はと言えば、“海”という、支配下にある国々すべてに繋がって
いる上に、大陸の三大国が傍観の姿勢を崩さぬ以上は誰にも断つことの
出来ない、広大な補給路を持っている。形勢不利と見た場合でも、一旦海
上なり己の勢力圏内なりに退いて、態勢を立て直せば良いだけのこと。子
分をどれほど増やしても、軍隊にだけは決して異民族を容れようとしなかっ
たため、大軍こそ擁していなかったが、彼ら巨深兵は精鋭揃いであり、しか
も、その兵力の少なさは、そのまま逆に、小回りがきき、カケイを中心とした
上層部の指令が、末端の一兵卒に到るまで迅速に、間違い無く伝わるとい
う利点でもあった。そして何より、一族の結束が半端無く強い。

それに対し泥門は、一般民衆と、貴族並びに一部富裕層との間で、物事
に対する意識の落差が以前から埋め難かったことに加えて、今回の巨深
族襲来に際しては、同じ義勇軍に身を置く者たち同士の間にさえ、しばし
ば意見の食い違いが生じた。純然たる指導者を欠いたまま戦いを始めて
しまった時点で、そもそも無理があったのだが、それでも初期の頃には何
とか上手くやっていたのだ。

しかし、巨深族との戦いが徐々に泥沼化してゆき、また、泥門王国の“高
貴なる愛国者たち”による物資買占め、そしてそれに続く売り惜しみも手伝
って、生活必需品や軍需品の欠乏、ひいては泥門王国の“上下間”に於け
る断絶が一段と顕著になるにつれ、アイシールド21の活躍を軸に、ようやく
真のまとまりを見せ始めたかのように思えた義勇軍は、諸々の焦燥に駆ら
れ、改めて、“寄せ集めの軍隊”という馬脚を露してしまった。そこへ件(くだ
ん)の愛国者たちの裏切りである。一溜まりも無かった。

蛭魔の所在も杳として摑めず、財政はすっからかん、指揮系統はもう、滅茶
苦茶である。そして隣の二大国から返ってくるのは相変わらず、冷ややかな
沈黙のみ。カケイの暗殺に失敗してしまった以上、泥門を完全なる滅亡から
救い、仲間たちを無事逃がすためには、最早、自分の首を取引に使うしかな
いと、瀬那は覚悟を決めたのだった。

「お前から自主的に首を差し出すというのは……確かに、悪くないな……」
「ええ、それに……」

深呼吸をして心を落ち着けると、瀬那は、これまでの己の見解に加え、以下
のように説明を始めた。
                       ・
                       ・
                       ・
長期的な視野から見て、また実際の戦場に立った者として、忌憚の無いとこ
ろを述べれば、泥門にとってこれ以上の抵抗は、百害あって一利なしである。
巨深は要するに、泥門を“支配”したいのであろう、ならばそうすれば良い。命
あっての物種。平和の享受も復讐も、生きていればこそ、可能となるのであり、
死んでしまえばそれで一巻の終わりである。よって現在、戦闘の続行が既に
絶望的である以上、泥門の民は、一時的に巨深族に膝を屈してでも、同胞の
命が無駄に散らされるのを防ぐことこそ、先決とすべきなのではないだろうか。

それに巨深とてまさか、人間の働き無くして、田畑から豊かな実りを得られる
とは考えていない筈。抵抗を続ける泥門の民を皆殺しにし、他の島々の人々
を強制移住させたところで、彼らがここの土地に馴染むまでには、しばしの時
間がかかるであろう。農民の友人に聞いた話だが、土地というのはその地質
を知り尽くし、その時々に応じて、そこに何が一番必要とされているのかをよく
心得ている、地元の人間に慈しませるのが、最も効率的なのだそうな。しかも
今年は戦いに明け暮れていたせいで、泥門各地の農村は荒れ放題。一度荒
れてしまった土地を復興させるには、荒れていた時間の数倍の時間を必要と
するという。来年以降の収穫がおぼつかないようでは、軍需品、とりわけ食糧
の徴発が出来ず、泥門は大国たる王城・西部攻略の足場となり得ないが、そ
れでも構わないのか? 現在でさえ心身共にボロボロであるこの国に、この上
飢饉までもたらされようものなら、今度は生き残った国民総出で、玉砕覚悟の
武力抵抗が起きるは必定。忘れないでほしい、泥門の怒りの種火はまだ、完
全に消えた訳ではないということを。

しかし、巨深の最高指導者の名に於いて、自分の先程の懇願を必ず実行に
移してくれるというなら、当座の平穏は保てよう。その後に関しては、成功す
るも失敗するも、そちらのやり方次第である。ただし、一つだけ警告しておく。
発布された公告に虚偽が発生すれば──アイシールド21の処刑後に、何ら
かの理由をこじつけて、やはり粛清の嵐を呼び起こそうとするならば──、巨
深族の支配は、ただでさえ少ない正当性を更に失い、加えて泥門の民の不
信の念を、ますます煽ることとなるだろう。たとえ秘密裏にこの自分を闇へと
葬ったところで、無駄である。己に最も近しかった仲間たちは必ずや、真実を
嗅ぎ付けよう。そのような万一の場合を想定してわざわざ、彼らが皆、寝静ま
るのを待って潜伏場所をこっそり抜け出してくる時、「泥門城へ、巨深族の中
で一番“力”がある人を、暗殺に行ってきます」という、簡潔な置き手紙をして
きたのだから。

つまり、この自分・アイシールド21の提案を飲まない限り、巨深は、“価値ある
豊かな泥門”を手にすることが出来ないということである。
                      ・
                      ・
                      ・
(う~……こんなに頭使いながら喋ったの初めてだから、つ、疲れたぁ……
蛭魔さんがよく、口は幾ら使ってもタダだって言ってたけど、こんな疲れるん
なら大赤字だよ……にしてもあの人、こんなこと殆ど毎日やってたんだから
やっぱ凄い……蛭魔さんさえいてくれたらな……あの人が旅に出ないでず
っとこの国にいてくれたなら、国王陛下がお亡くなりになった後の政局混乱
なんて起こらなかっただろうし、巨深族との戦いだって、泥門が勝ってすぐに
終わってた筈なんだ……蛭魔さん蛭魔さん蛭魔さん、どこにいるんですか?
お願いですから早く帰ってきて下さいよ……蛭魔さんならどうするだろうって、
昔のこと必死に思い出して真似してみて、とりあえずさっきの説明までは何
とかなったけど、もうこれ以上は無理……)

吊り上がった切れ長の金目が印象的な、“地獄のプリンス”の毒舌を、今日
ほど懐かしく思い、切実に求めたことは無かった。一か八かの大博打に、た
った独りで臨まねばならない、この心細さ。昔のように、蛭魔の傍らに立ち、
駆引きの傍観者に徹していられたのなら、どんなに良かったことだろう!

それまでの落ち着いた態度はどこへやら、ブルブルと震える両手で、卓の上
に置かれた水差しの中身を茶碗に移し、瀬那が喉を湿しながら、相手の反応
をビクビクと窺う一方、対戦者たちの方はというと──

「「……」」

カケイの表情には驚愕の翳りが差し、ミズマチでさえ──知的な事柄とは
あまり縁の無い男だが、物事の本質を即座に見抜くその野生的勘の鋭さ
は、ある種の賢さと言えるだろう──緊張の面持ちを浮かべていた。アイ
シールド21が英雄と讃えられる所以は、その伝説的強さに限らないという
ことか。しかし──

「なかなかに興味深い意見を聞かせてもらった。が、こちらにはこちらの考
えが既にあるんでな」
「え……?」
「ミズマチ、こいつの世話を頼む」
「了~解、まっかせてーん☆★」

目配せだけでカケイとミズマチの間には即、計画が決められた。とりあえず
は休めと、ミズマチに再度、寝台へ押し戻されながらも、瀬那はあらん限り
の声を振り絞って問うという形で、カケイに追いすがった。一体、何をするつ
もりかと。

「これ以上、剣を赤く染めずとも、あんたが──アイシールド21が、俺たち巨
深の仲間になれば、すべて円く収まる」
「なっ……!」
                      ・
                      ・
                      ・
そして翌日、泥門城下に立てられた高札の内容、及び、地方と諸国を稲妻
のように駆け巡った情報に、驚かなかった者は一人として存在しなかった。
その内容を要約して曰く、

“か弱き女子の身でありながら、その柳の髪を短く断ち、兜でその細面を隠
し、手に銀の刃を煌めかせ、戦場に於いて獅子奮迅の活躍を見せたアイシ
ールド21なる侠女、単独で我ら巨深族の許へ罷り越し、己の首級と引替え
に救民を願い出んとす。その勇気、並びにかの者の絶代なる武技に我々は
敬意を表し、巨深族長コバンザメと軍総司令カケイの名に於いてここに、同
女の嘆願は聞き入れられ、今後汝ら泥門の民、我ら巨深族と志を共にする
限り、その生命と財産の安全は、間違い無く保障されるものとす。
泥門国王、乃至は皇太子の承認無く、泥門王国朝廷その独断によりて、国
璽の印無き降伏文書を提出、これによりて汝ら民衆義勇軍、多大なる屈辱
を被りしものなれど、汝ら自身は恥じるべきことこれ只の一つとして無く、我々
巨深族は等しく皆、汝らの勇戦に敬意を示すものなり。
なお、アイシールド21は後日、巨深軍総司令カケイと婚姻を結び、我らが同
胞と相成る予定、これ有り。”

アイシールド21の正体と真実を知る仲間たちの顔は、それを知らぬ人々とは
比べ物にならないほどの驚愕と、蒼白の色に染まった。

「「「「「「「「「「そんな……!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」
                     ・
                     ・
                     ・
東の隣国一の騎士と呼ばれる男も、また──その知らせを耳にした時、
丁度、斬馬刀の手入れをしていた彼は、思わず刃の部分を握り締めた。

泥門が敗北したという知らせを聞いた時は、まだ平静が保てた。だが今度は、
今度の知らせは──

思い詰めれば思い詰めるほど、刃を握る力は強くなっていった。心の奥に
眠らせていた、ありとあらゆる激情が、突如として一斉に目を覚まし、行き
場を求め、けれどそれをどこにも見つけられず、勢い余って皮膚を、赤く鉄
臭い体液の奔流に乗って突き破り、その噴出が激しくなれば激しくなるほ
ど、よく研がれた鋭い刃は、ますます深く、進の皮膚の内側へと食い込ん
でゆく。知らせを伝えに来てくれた親友がその傍らで悲鳴を上げたが、進
は彼の存在などもう、すっかり忘れ去っていた。

(小早川瀬那が、あの“少年”が、巨深族の男の“妻”になるだと……?
一体どういう……いや、俺はこの目で真実を確認し、彼の口からきちん
とした説明を聞くまでは、決して信じない……信じたくない、信じるものか、
信じてなるものか! たとえそれが“事実”であり“真実”であったとして
も、俺は、この進清十郎は、断じて認めん!!!)

この時の進にとってみれば、肉体の一部損傷など、些細なことであった。
かの少年とその祖国の窮状に対し、己の属する騎士団の規律と自らの
自律の下、固く耳を塞ぎ、自分の本心をも見て見ぬ振りをしてきたことに
対する──自分の選択は、客観的に見ても主観的に見ても間違っては
いなかったと、頭では理解し過ぎるほどに理解していたのだが──やり
場の無い怒りや、どうにも止められない自責の念といった心の傷は、肉
体が受けたそれよりも遥かに重傷で、もっと大きな苦痛を伴った。

何にも増して、己のこの苦痛を更に上回る痛みと苦しみが、彼があの小さ
な体と、それよりもずっと大きな優しさと勇気を兼ね備えた、白玉の如き心
を苛んでいるのではないかと思うと──

「……っ!」

居ても立っても居られなかった。
                      ・
                      ・
                      ・
“彼女”は、介添の目を盗んで素肌にこっそりと、手ずから結んだ白い佩玉
の無機質を、そっくり吸収したかのように、ひんやりと滑らかで、そして生気
の感じられない風情をしていた。全体的に小作りで、繊細華奢なその体付
きとも相俟って、精巧に作られた人形だと言われたら、多くの者がそれを真
に受けただろう。何とまあ、最近のカラクリ人形は、涙まで流せるようになっ
たのかと、驚きながらも。
                      
花嫁衣裳の赤は“彼女”に、吉慶などではなく、戦場で流し、流された血を、
嫌でも思い出させた。布地に織り出された、泥門王国の聖獣・蝙蝠が──
ビエンフゥ、福に変わるとはよくも言ったもの。自分の目には赤でなく、己の
心のそのまた深淵、そこに広がる闇より深い、罪の色をして見える翼手類。
その仔は母の乳を飲んで育つ、四つ足の獣でありながら、両の前肢に長く
伸びた五本と五本、計十本の指、それぞれとそれぞれの間に広がる飛膜を
使い、鳥のように空を飛ぶ。そのことから、所変われば品変わり、東の隣国
では、情勢に応じていとも簡単に変節する、裏切り者の代名詞でもある──
甲高い嗤い声を上げながら、軽やかに舞っている。忌わしい、血の海を。

そして、花嫁の宝冠・鳳冠(フォングアン)に惜しみ無くあしらわれ、また顎
の先端まで届く立襟で、未だ隆起の目立たぬ喉仏を隠された細い首から、
平坦に近い胸を通り、薄い腹までを飾る二連の長い首飾りの形も取り、そ
の上、赤地に色とりどりの糸で美しく刺繍がされた柔らかな布鞋・花鞋(ホ
アーシエー)ではなく、布製部分には小粒のものを幾つも縫い付けて吉祥
の図案を成し、ただでさえ厚い鞋底の裏には更に、白蝶貝を使った螺鈿細
工の施された、木製の高い台座まで据え付けられた、履き慣れぬ者にとっ
ては走ることはおろか、歩くのもやっとの花盆底(ホアーポンディー)にまで
見られる、まさしく花嫁の頭の天辺から足の爪先までを、赤と共に彩る、乳
白色の輝きも──これすべて皆、鮫人(こうじん)の涙の結晶である──
どれほど煌びやかであろうと、所詮は豪華な拘束具に他ならなかった。

自分の心身を雁字搦めにしている、鮮血の呪縛と真珠のくびき。自分一人
だけなら、簡単に逃げられる。けれど、それは即ち、清楚な光輝を放つ無数
の珠(たま)が──罪の穢れ無き、無辜の魂(たま)が、鮮血の色をした晴
れ着に含まれている以上の、“赤”で染められることを意味する。

(それだけは駄目だ、絶対に!)

仕上げに鳳冠の上から被せられた蓋頭紅(ガイトウホン)で、可憐な囚われ
人は、完全に視界を遮られた。“彼女”は最早、夫となる男の手を取らぬ限り、
どこへも行くことは出来ない。

(“僕たち”は負けた。巨深族の支配を受ける。でも、奴隷になった訳じゃない。
……この大きな人は、巨深の中で一番“力”があるし、誰からのものであって
も、優れた意見には素直に耳を傾けてくれる。少なくとも、半分は僕の提案を
受け入れてくれた。蛭魔さんが戻ってきてくれるか、この国を僕たち泥門人の
手に取り戻す方法を思い付くまでは、どんなことがあっても……どんなことをし
てでも、この人の心を、僕に繋ぎ止めておかなくちゃいけない……)

だが、どれほど強く決意を新たにしても、滂沱として流れ出てくる紅涙だけ
は如何にしても、止める術を、瀬那は持たなかった。滑らかな頬を伝い落ち、
服地を染み透ったそれは、白い佩玉までをも僅かに濡らした。

(進さん、他人から強制されたものではあるけど、それでも僕は、この道を
行くことにしました。そして、そう決めたことで初めて、貴方に対して抱いて
いる“想い”は、友情とも、走りの好敵手に対するものとも違うものなんだっ
て、自覚しました。ただ単に哀しいとか怖いとかで流れてるんじゃないって
自分でも分かってるこの涙が、その根拠です。けど、僕の恋の始まりは同
時にまた、そのおしまいでもあったみたいです。……でもたとえこの先、僕
と貴方の進む道が、二度と交差しなかったとしても、この想いが消えること
だけは、決して無いでしょう。唇を重ねるどころか、貴方に抱き締めてもらっ
たことすら無い、そもそも僕の一方的な片恋なんですけど……それでも、一
度はあの世に足を踏み入れそうになったあの瞬間まで一途に、進さん、貴
方を想い続けたことは、ちっぽけなこの僕が、出せる限りの大声で、足が他
の人たちよりちょっと速いってくらいのことなんかよりも、ずっとずっと、世界
中に向かって誇れるものだと、自分では思ってます。気付くのが遅くて、貴
方に伝えられなかったけど、だからこそこの想いは、瑕[きず]付くことも、穢
れることも無く、貴方が僕にくれたあの佩玉みたいに、綺麗なままでいられ
たんです。この想いこそ、僕の、これから生きてゆく上での原動力。さあ、笑
顔を作らなきゃ……)

過去、片手で数えられるほどしか見たことの無い、進の穏やかな笑顔を脳
裏に思い浮かべ、服の上から佩玉を結んだ辺りを素早くなぞり、自分を勇気
付ける。程無くして瀬那は、目的達成の第一段階に突入出来た。
                       ・
                       ・
                       ・
「哀しいんだろ? 何で笑う? おかしな奴だ」

涙で縞模様を描いた顔に、健気な笑みを小さく浮かべた瀬那を見つめなが
ら、カケイは、これまで生きてきた人生の中で、誰に対しても抱いたことの
無い、優しい気持ちが自分の中に湧き起こってくることに、大層戸惑ってい
た。

「変なのはお互い様ですよ、まったく、敵方の男をお嫁さんにするだなんて
……」

小首を傾げ、悪意は無いけれど、揶揄するような表情を閃かせ──己の意
志と選択に基づいて作り出された、もう、泣き人形のそれではない──、や
り返してきた瀬那の片頬の涙の筋を、カケイは長い指で拭ってみようとした。
すると、その指先を瀬那は、ギュッと摑み(小さな握り拳の中から、ニュッと、
カケイの長い指の先端部分と根元がはみ出ているのは、何とも滑稽な眺め
ではあったが)、そのまま強く自分の頬に押し当てた。

ドクン

また、だった。彼に手当てをしてもらった時のように、またもや左胸の鼓動が、
常よりも速く、強くなる。

アイシールド21との結婚など、泥門王国を巨深族にとって支配しやすくする
ための、単なる方便に過ぎない筈だった。自分と同じ“男”に対して欲情を
抱く趣味など、俺は持ち合わせていない──自分で自分に何度もそう言い
聞かせてきた筈だ。

(この“アイシールド21”の正体を知って、前よりももっとこいつのことばっか
考えるようになったのだって、こんな、ガキみたいに小さな奴だったってこと
が意外だったのと、倒し甲斐のある強敵に出会った時の、あの快い興奮、
しかもその中でも最高最大のやつを、どうせなら出来るだけ長くこの楽しみ
たいからだった筈だ。そりゃ……まあ、腕が立つって以外にも、結構面白い
こと色々言うし、喋ってる時の声聞いてると何か気持ち良くなってくるし、あ
と、あいつの目、何かこう、凄く惹きつけられるっていうか……って、何考え
てんだ、俺は)

挙式の後は、適当な場所に幽閉し、頃合を見はからって殺してしまうつもり
だった。

なのにどうして、この少年の唇が、こんなにも蠱惑的に見えるのだろう?

相手の装飾品をむしり取り、赤い晴れ着を乱暴に破る己の手の性急な動き
は、まるで、見知らぬ他人のそれのように感じられた。けれど向こうから差し
伸ばされて、掌の大きさも五指の長さも違い過ぎる手と手が絡み合わさった
時に感じられたものは、紛れも無い歓喜、そして快楽だった。
                      ・
                      ・
                      ・
こうして、需要と供給は一致した。だが、“真実”ではなく“現実”の上に成り
立つ均衡というのは、往々にして、僅かな刺激で容易く崩れるものである。
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