冷艶素香

現ES21がいろんな人達から愛されていたり、割れ顎の堅物侍を巡って、藤と金の人外魔境神未満ズが火花を散らしたりしてます。

珠玉 10─改訂版之二

2009年06月15日 | 珠玉
「……と、いう訳でだ。早めに潰せそうならそれに越したことは無いし、向
こうに外交と通商の意志が有るというのであれば今後、我が国が彼らに
対し、どのような姿勢で臨んでゆくのかということを決めるためにも、今回
の泥門行きは、慎重の上にも慎重を重ねて──

ここは王城国、王立騎士団ホワイトナイツのための大聖堂。

評議場をも兼ねたそこへ、一同に会したホワイトナイツの面々は、興味津
々といった態で、騎士団長・高見伊知郎の話に耳を傾けていた。

「くりた……モガ、たひ、には、モゴモゴモゴ……ゲフッ! うむ、何として
も生きていてほしいもんじゃのう!」

戦場に於いては、泥門王国の栗田良寛に勝るとも劣らぬ怪力と、その巨
体には似つかわしくないほどの軽々とした走りで以って、目覚しい活躍を
し、進同様、“王城にその男在り”と言われるホワイトナイツの切り込み隊
長・大田原誠の、持ち込んだ山のような食料をガツガツと頬張りながらも、
いつに無く真面目な発言に、周囲の誰しもが一瞬、目を見張るも、彼らも
またすぐに、同意の首肯を互いに次々と交わしたのだった。

王城国を守ることこそが至上の使命であるホワイトナイツの一員としては、
侵略された友好国の成り行きに対し、幾ら私人としての良心並びに騎士
としての道徳感に呵責を感じたところで、王命及び議会の過半数承認に
よる援軍出陣命令が無い以上は、王臣にして公の僕として当然のことな
がら、勝手に救いの手を差し伸べる訳にはゆかなかった。

個人的には泥門王国──中でもとりわけ、尖り耳の皇太子を中心とした、
少々風変わりではあるが、なかなかに見所と骨の有る者たちの集まりに
対し、興味半分もあったが、決して悪い感情は抱いていなかった大部分の
ホワイトナイツ団員たち──その青春の日々の殆どを厳しい鍛錬と困難な
任務に費やす彼らにとって、毎年の泥門行きは半ば小旅行の如き、ささや
かな楽しみだった。

任務の一環として参加を義務付けられていた、泥門城内での国王主催に
よる諸々の堅苦しい儀式や催事が終わった後、団員たち数人ごとに順番
に与えられる自由行動日は、克己の精神で自らを厳しく律する騎士たちの、
修道僧にも似た禁欲的な人生の中に在って数少ない、色鮮やかな時間を
有する日々だったのである。

ゆえにこそ、進清十郎ほどではないにせよ、他のホワイトナイツ団員たち
の胸中とてまた、なかなかに複雑であった。

「お前たちの気持ちも分からなくはないが、それが素直に顔に出てしまう
ような者たちは、今回は連れて行けないな」

そんな部下たち全員の、口にこそ出さねどの顔を目にして苦笑しつつも、き
っちりと釘は刺す高見に、誰もが首を竦める。

「王城(うち)からの公式訪問、内実は偵察だってことは、向こうも当然すぐ
に察するだろうし、だからこそピリピリと神経を尖らせているだろうあちらに
はそういう訳で、ほんの数人しか連れて行けないからね。それも……武器
の携帯無しで」
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
「人員選抜は俺とショーグンで決める。任命にしても残留にしても、異議は
認めないから皆、そのつもりでいるように。以上!」

解散号令を受けて、殆どの団員達がガヤガヤと大聖堂を出て行く中、どう
したことか、席を動かぬ二人の騎士がいた。

「……だ、そうだよ、進? 連れてってもらいたかったらまずその眉間のさぁ、もんの凄い数の皺、
速攻で消す消す!

「む……」

同期たちに輪を掛けて規則正しい生活と厳しい体作りの実践ゆえに、不眠
とはまったくもって無縁である筈のこの男にしては、何と珍しいことだと、目
の下にうっすらと不吉な色の隈をこさえている親友の、それでも食い入るよ
うに泥門行きの詳細が記された羊皮紙を見つめている厳つい肩を、桜庭春
人はポンポンと、宥めるように叩きながら、小声で注意を促した──大聖堂
に入ってすぐ正面の巨大十字架の下では、今もまだ、高見とホワイトナイツ
の特別顧問である庄司軍平・通称「ショーグン」が、打ち合わせを続けてい
たからである。

「言われずとも……分かっている……」

だが、本人は極力抑えた口調のつもりでいても、その低い呟きの、目に見
えぬくらい微細な綻びの数々から、血膿のように滲み出る激情の欠片たち
に気付かないほど、桜庭は愚鈍な男ではなかった。

「すべては泥門に着いてからだよ。瀬那君本人がどういう考えなのかも
分かんないのに、お前一人がグルグルしてたってしょうがないだろ」
「そう……だな……」

けれど、今回ばかりは──事の有様と“彼”の心の有様の双方が、自分の
望むような形をしていなかった時、果たして己は相手を責むることなく、それ
を潔く受け入れることが出来るだろうか?
                      ・
                      ・
                      ・
「王城から……使者?」

その日、カケイと瀬那がその緊急報告を受け取ったのは、その日のカケ
イの執務時間を疾うに過ぎ、夕餉も済ませた後、二人で雑談をしている
時だった。

雑談とは言ってもその内容は幅広く、しかしまがりなりにも“夫婦”とされ
る者同士の間で交わされるものとしては、まったくもって情緒に欠ける上、
ちっとも噛み合わない、ちぐはぐなものばかりだった。

どちらも、その日に自分が見聞きした事を話すという点では同じであった
が、カケイの側からは主に、その日に裁決したり、刷新した官たちに諮っ
ている最中の政事(まつりごと)に関する、硬い内容の一辺倒。

瀬那の側からは他愛も無い日常のささやかな出来事の数々──例えば
庭園に何とかの花が咲いた、瀑布に虹がかかっていた、書庫で本を取ろ
うとしたら、書架が老朽化していた上、目的の本が高い所にあり、無理を
せずに梯子を使えば良かったものを、それを取りに行くのを億劫がり、横
着しようとしたために本の雪崩が起きて大変だったとか、取るに足らない
ような話ばかり。

これでお互い、よく会話を続ける気になれるものだと周囲は思っていたが、
当の本人たちは大して気にする風でもなく、それは何故かと言えば──

まずカケイの場合だが、彼の場合は要するに、話の内容そのものよりも、
“瀬那に話を聞いてもらう”という“行為”こそが、最も重要な意味を持
っていた。

諸々の案件について、実際にどのような結論が下るのかということに関し
ては、現在では国王という存在こそ消えてしまったが、巨深に降った泥門
の官たちを交え、彼らの醸し出す、かつての泥門王国の朝議の雰囲気が
次第に色濃くなりつつある、評定の場で決まることとなっている。

しかし、カケイが目指しているのは巨深族の指示の下、一糸乱れずに動
く軍事連邦であった。有用でさえあれば、どの民族の、誰の意見であろう
と、躊躇すること無く取り入れてゆくつもりではあったが、それはあくまで
も、巨深族が頂点に君臨するという前提の下に、他の諸民族が平等且つ
公平に扱われることを意味する。

“巨深に従う者には庇護を、逆らう者には死を”

共存はしても、他民族を同等であるとは見做さないという、この一点をどう
にか覆そうと、躍起になった泥門人たちが、どれほど周到な根回しと巧妙
な作戦を以って向かってきても、たとえ“つま”が泥門のアイシールド21で
あるという搦め手を攻められたところで、これに関してだけは、たとえその
“つま”自身が──今となっては何にも代え難い存在となった瀬那本人が
何かを言ってきたとしても、カケイは絶対に譲歩するつもりは無かった。

なまじ頭の良い男であるだけに、カケイ自身、大陸の進んだ知識・深遠な
思想・優れた文物などに対しては既に、大いに感銘を受けていたのだが、
同時にまた彼は、素朴な同胞たちが、かつての豊かさの名残が未だ息づ
く文化国家の残照に、易々と魅了されてゆく様を目の当たりにして、人口
の上では少数派の自分たちが徐々に牙を抜かれ、征服者としての現実と
は真逆に、精神的には取り込まれていってしまうのではないかという懸念
も抱いていた。

ちょっとでも気を抜けば、たちまち泥門式の物事のやり方に流れてしまい
そうになる自分自身への叱咤を始め、一族の者たちにも常日頃から意識
上の喚起を促さなければならないことに加え、巨深族の独自性及び同一
性を維持する必要にも日々、幾度となく駆られ──正直なところ、カケイの
苛立ちは日に日に増してゆくばかりであった。

かと言ってミズマチを始めとする気の置けない──置けなさ過ぎる巨深の
者たちでは、相談相手としてはまったくの役不足。論議の途中で話の腰を
折られて脱線なんぞというのは日常茶飯事、そして話はとんでもない方向
へと飛躍して──最悪、コバンザメを除いた騒ぎの元凶全員にカケイが鉄
拳を喰らわせ黙らせて、その日一日が終了といった、まったくもって不毛な
結果に終わりかねないのである。

頭と筆を用いる仕事に関して、同胞たちも彼らなりに努力しているとはカケ
イも認めるところであったが、如何せん、やはり彼らの魂は自由な大海原と、
風雲渦巻き血飛沫飛び散る戦場(いくさば)に属するものであり、その真価
もまた、其処に於いてこそ、最大限に発揮されるものであった。

先祖代々受け継がれてきた戦士としての勘と、これまでに生き抜いてきた
数多の激戦の中で培ってきた経験こそが最も重んじられ、一族の決断と命
運を左右する中に在って、感情(激情)に盲目的に従うこと無く、即物的思考
引いてはの即断即決の有利性に囚われること無く、必要とあれば時として
それらに抗い、同時にまたそれらを御し得る冷静且つ論理的な思考を持つ
カケイのような存在は、巨深族の中に在っては特殊なのである。

しかしその聡明さと向学心が仇となった結果として、カケイは独りで己の思
考を整理し、新たな考えを構築する時間を捻出しなければならなくなった。

独り言が多くなるということもあり、周りから奇異の目で見られぬよう、必然
的にそれは夜となる。だが、しばしば物事に深くのめり込み過ぎる性質(た
ち)である己のこと──何に対してでもという訳ではないが──、数多の考
えを重ねたところで結局、いつまで経っても思考の輪環に鋏を入れることが
出来ないまま、未決裁案件が執務室の卓上はおろか、床の上にまで小山
を成して、正に足の踏み場も無いといった状況を作り出してしまう可能性も
大いに有った。

ゆえにこそ、“つま”──「瀬那」という、己にとって最高の聞き手の存在は、
正しく天恵と呼べるものであり、現在のカケイにとっては最早、あらゆる意味
に於いて必要不可欠の存在となっていた。

「へぇ……」
「あ、何かそれ分かるかも」
「本当に?」
「どうして、だって○○○なんじゃないの?」


頭の切れる人間というのは往々にして、物事をすべて己の物差しでのみ計
ってしまいがちだ。大多数の凡人を置いてけぼりにして行ってしまうその思
考は後にしばしば、争いの火種ともなる。

無知の知とでも言うのだろうか。詳細を何も知らない、凡庸な知性の持ち主
──それも庶民出身の──であれば、誰もが当然不可解に感じるであろう
疑問をカケイは、瀬那を通じて初めて知り、若しくは再認識し、そして何度も
盲点を突かれたのである。

だがそのお陰で、戦う以外の事柄に関してはお世辞にも呑み込みが速いと
は言えない部下たちへ、彼は、今後のことについての話をする際、以前にも
増して簡潔で分かりやすい説明と、根気良く何度も言い聞かせることを心掛
けるようになってゆき、結果としてそれは、同族たちのカケイに対する尊敬と
信頼の念を深めることとなった。

また、瀬那の視点、即ち被支配者たちの視点に着想を得てカケイが実施させ
た政策の数々が、民生面で目覚しい成果を挙げていったことは、新しく部下
となったかつての泥門王国の官たちを始め、泥門の人々の心中に今なお残
る蟠りや鬱屈の更なる融解に、大層役立った。巨深族と泥門人の軋轢は目
に見えて減ってゆき、新たな支配者たちの中心に在るカケイに対する巷での
風評もまた、未だ好意や尊崇とまではゆかぬものの、

「ふむ、流石アイシールド21を娶るなんぞと大それたことをやってのけただけ
のことはあるわい」
「そうだ、あのアイシールド21が、自分に相応しくない奴にいつまでも唯々諾
々と従っている訳が無い」
「城の女たちから流れてくる噂だと、それなりに仲睦まじくしているらしいぞ」


などといったように、“つま”を媒介として彼は徐々に、しかし着実に、多くの
人々と、新たな人間関係を構築しつつあった。

しかし、雨降ってようやく地固まりかけてきているそこへ──
                      ・
                      ・
                      ・
「しかも文官たちじゃなくてホワイトナイツが……? それって宣戦布告の間
違いじゃねえのか?」
「いえ、王城国は思う所有って騎士団を派遣するとのことに御座います。しか
もこちらの懸念を見透かしてか、人数はホワイトナイツの中から十数人、それ
も丸腰で行かせると、わざわざ明言してきておりまして……」
「その上でまだ断るようなら、うちの側に友好心が無いってことにされて、俺
たちがまだ次の戦に進める状態じゃない内に開戦、か……」
「御意」
「素手でも十分強ぇ、一騎当千の斥候どもを受け入れたら受け入れたで、巨
深の心臓部として、今の泥門の復興はどの程度まで進んでんのか、戦端開
かれたら即、応戦出来そうな状態かどうか、隅から隅まで調べられて……く
そっ、しかも手の込んだこと考えやがるぜ……“丸腰の使者”って名目で来
られるんじゃ、陰でこっそり始末する訳にもいかねえし、それどころか五体満
足で王城に帰してやんなきゃ、“大陸と諸島の平和のために”野蛮で凶暴
な夷狄はやっぱ早めに潰しとけってか……! ったく、自分で言っててますま
す腹立ってきた……あぁっ、畜生!」

バンッ!

カケイの大きな右の拳が強く左の掌に打ち付けられる音に、瀬那は思わず、
ビクリと身を竦ませる。

「御明察の通りかと。加えてまた……」
「西部だろう?   泥門領内は緘口令で抑えられるとしても、ホワイトナイツの
特殊任務ってだけで、どこの国でも相当な話題になる。ましてやそいつらが
巨深に降った(くだった)ばかりの泥門から戻ってこなかったりしたら、尚更だ」
「……やはり、“単なる”使者を斬るような野蛮な民族の横暴は、自国の平
和の為にも捨て置けぬなどと、言いがかりを付けられるでしょうね……」
「あぁ、最悪それで王城と西部が手を組んで、挟み撃ちにされるって可能性
も否定出来ねぇ」

戦いに勝つ度、広がってゆく領土、増えてゆく財、強化される兵力。しかし勝
ち戦の潮に乗っているとは言え、その勢いだけで巨深が挑んでゆくには、王
城と西部はあまりに格が違い過ぎた。加えて海の民なら誰でも知っているこ
とだが、“潮”の動きに変化は付き物である。

よってカケイ自身、不本意極まり無いことではあったが、果たすべき真の目
的のためにも現在は、巨深族の事実上の指導者的立場に在る自らが率先
して隠忍自重し、また主戦派が大半を占める一族の者たちに対し、しばらく
の間は両隣の二大国家と穏便に付き合ってゆかねばならないという状況を、
どう説明すれば納得させられるかということについて、早速頭を回転させ始
めなければならなかった。何しろ武力だけでは太刀打ち出来ぬどころか、ま
ずその武力からして巨深は未だ、王城国と西部自由同盟──二国とも、伊
達に“あの”神龍寺と何百年にも渡って併存してきていない──、そのどち
らか片方の足元を揺るがすことさえ、覚束無いのである。

実際、カケイの危惧は、当たらずと言えども遠からずといったところであった。
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「王城がわざわざ危険を冒して一番乗りしてくれるって話だから、俺たちも続
いてお邪魔させてもらおうかねぇ」

国中総出の復興作業でまだ色々バタバタしてるとこだろーし、“俺たちみた
いな”
客が一度に来ると向こうさんも大変だろうからねぇと、中肉中背と長身
痩躯の間に分類されるであろう身体を、揺り椅子の上で大きな伸びをして解
すと、男は机の上に置いてあった投げ矢を一本取り、手の中でシュルリと器
用に回してみせた。

「お邪魔……ってキッドさん、どっか行くんですか?」
「うん、そろそろ泥門の様子見に行ってもいいかなって。もう戦は終わってる訳
だし、今ならちょっと強めに交渉しても、ドサクサに紛れて結構大きな要求して
も通るんじゃないかな~?って。ま、欲張り過ぎは禁物だけどね。あんま期待し
過ぎっとロクなことになんないから」
「何か……姑息で卑怯な感じがして、俺は好きじゃないですね、そうゆうの。だ
って結局それって、他人の弱みに付け込む訳でしょう?」
「うん、清廉潔白な行動だとは俺も全然思ってないよ」
「でもそれが政事なんですよね」
「……陸ってホント、物分りいいよねぇ」

カッ!

乾いた音を立てて、投げ矢は見事、壁に掛けられた的のど真ん中に命中した。
すぐ傍に山と積まれた樽の一番上に、見事な水平感覚でもって座りながら、分
厚い書類の束を捲っていた銀髪の少年が、ヒュウと口笛を吹く。

「お見事」
「アリガト」

投げ矢を手放した、少し荒れてザラリとした掌をヒラヒラと振り、男は称賛に応
えた。

「あ、そんでその物分りのいい子は一緒に着いて行きますんで、宜しく」
「おや」

今の泥門に、この俊英な少年の興味を引くようなものが果たして残っていただ
ろうかと、男は無精髭の目立つ顎を軽く抓んで考え込む。

「巨深の軍事機密なんかはまだまだとても探れるような状況じゃないと思う
けど?」
「あ、いや、そういうことじゃなくてですね、ちょっと……その、昔の友達の安
否を……」
「お友達?」
「ん~……友達って言うか、弟分……みたいな? 最後に会ったのはもう、六
年以上も前になりますけど」
「へぇ……陸に弟分、ねぇ……こりゃ意外と言うか何と言うか」
「どーゆー意味っスか?」
「いやいや、気ィ悪くしたんならごめんよ。たださ、そんなに時間経っててもま
だ覚えてるなんて、よっぽど可愛い弟分だったんだろうなって」
「可愛いっつーか……何か、放っとけない奴だったんですよ。どうにも要領が
良くなくって、しょっちゅう悪ガキどもにいじめられてたりして……。そこで本人
がやり返しゃいいもんを、そいつの幼馴染たちがよってたかって庇うもんだか
ら……」

昔を思い出したのか、いつもはキリリと引き締まった口元に淡い苦笑を浮かべ
ると、年に似合わぬ賢さと胆力を湛え、硬質の輝きを放っていた緑の双眸もま
た、春の新緑の如き柔らかさを帯びる。

(あれまあ、そんな顔も出来たんだねぇ……でも昔の友情を懐かしんでるって
言うにはちょいと、情感が籠もり過ぎじゃないかい?)

日焼けによる傷みのせいで、本来の光沢はやや薄れ、銀と言うよりは白に近
い髪を持つ、目の前のこの利発な少年が、祐筆見習いとして己に付き従うよう
になってから、未だ半年ほど。それでも彼の語る“二週間だけの弟分”とよりは、
ずっと長い時間を共にしてきたと言えるだろうに、男が少年の年相応の表情を
目にしたのは、実に今日が初めてであった。

「うちの期待の新人君に、これからも皆の期待を裏切らずに大活躍してもらうた
めにも、その幼馴染君にはぜひ元気でいてもらいたんもんだねぇ……」
「……っ! キッドさん、それは……」
「ごめんよ、意地悪を言ってるつもりじゃあないんだ。けど、一応、覚悟はしとき
なよって話。俺の言いたいこと、分かるよね、陸?」
「分かって、ます……」

隣国の各地で繰り広げられたという激闘。老若男女問わずの夥しい数の犠牲
者の中に、件の弟分の少年が入っていないという確率は、入っているという確
率よりも、グンと低い。たとえ生きていたとしても、一生引き摺るような大怪我
をしているかもしれないし、今後の人生へ常に暗い影を落とすような、心の傷
を負ってしまった可能性だとて有る。

もしそんなところへ、かつての兄貴分が「よっ、元気か?」などと、気楽な風に
やって来たりしたら、特に政情に通じているとはとても思えないあの弟分の事、
何が兄貴分か、何が弟分か、何が友達だと、涙ながらに詰られるのは必至だ
ろう。

それでも生きて、生きてさえいてくれたなら、と、陸と呼ばれた少年は思うのだ。

彼が──瀬那が、生きてさえいてくれたならば、これからどんなことでもしてや
れるし、もう誰にも傷付けさせたりはしない。そうだ、いっそ西部に移住させよう。

(兄貴分としてのプライドにかけて、二度とあいつに……瀬那に、涙を流させる
ような真似はしない……ああ、今度こそ、絶対にだ!)

珠玉 10─改訂版之一

2009年06月15日 | 珠玉
夢と、知りせば。

「……小早川、瀬那?」

少年の顔は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

(どうした、何かあったのか?)

最後に会ったのは一年ほど前であったろうか? 毎年の再会はいつも
必ず、少年がその大きくつぶらな瞳をパチパチと瞬かせ(しばたかせ)、
そしてホワリと口元を綻ばせたのを見計らってから、自分が彼に声を掛
けるのが常であった。

(だが、今のお前はどうしたことか)

陽光に煌めいていた琥珀の瞳からは、以前ほどの生気が感じられなか
った。無骨な己の、さして面白くもないであろう話の一つ一つに、いちい
ち大きく反応し、嬉しい時には控えめながらも、その小さな口元に、精一
杯の喜色と朗らかさを湛えた笑みを浮かべる彼であった筈なのに。

「………、……。……………。…………………。…、…、…、…………」

その上、生きて再び会えたことを心から喜んでいるのであろうその気配
もまた先程から、痛い程にひしひしと感じられるにも拘らず。

「何故だ、何故お前の声が聞こえない?」

もどかしく思い、男は手を伸ばす。手の先と先とが触れ合って──掴ん
だその手、その指の温もりを通じ、彼と自分ならば声に出さずとも、互い
の“思い”と“想い”は相手に伝わると、男はそう信じて疑わなかった。

しかし──

「!」

男の──進清十郎の“思い”と“想い”は、冷たく、優しく、哀しく、柔らか
い……白絹の長袖、それと同じ色の手甲、そして一対のそれらが軽く握
り締める、やはり白の手巾に、静かに拒まれた。

進の考えは、決して間違っていた訳ではない。ゴツゴツとした、数え切れ
ないほどの剣胼胝が現れては潰れ、皮が幾重にも厚くなったその逞しい
手が、つい一年ほど前までは「小早川瀬那」という名前しか持たなかった
市井の少年の、ささやかながらも穏やかな幸福に満たされているのであ
ろう生活感が滲み出ており、野の花が精一杯咲き誇るが如くにいつも開
かれていた小さな掌に、“触れられた”のならば──次に進を訪れた情
況は温もりにこそ欠けてはいようが、確かに彼の心を満たしていただろう。

しかし──

「……これ、は!?」

掴んだと思った小さな手には、血肉の温もりも感触も無く──否、それど
ころか進の目に映るのは、不自然な形に握り締められた己が拳のみだっ
た。進の手に包まれている筈だった少年の手は、淡雪のように音も無く、
忽然と消えてしまったのだ──相手の手を掴んだ形のままの、進の手だ
けを残して。

コツリ、コツコツコツ……

驚きのあまり思わず凝視した先には、微かに首を左右に振る少年の、年に
添ぐわぬ静謐な、そして進がこれまでに見たことも無いような、哀婉な表情
があった。

昔、彼が慌てふためく度に淡紅色に染まった頬は今、白磁とまではゆか
ずとも、その象牙色の肌に血の気は薄く。

外を走らなくなったのだろうか、黒褐色に日向の匂いと温かさのみを帯び
ていた跳ね髪と両目は、頭上の清麗な桎梏のせいも有ろうが、艶と黒味
を増し、異香(いこう)を仄かに漂わせ。

コツリ、コツリ、コツコツコツ──

涼やかに響く玉響(たまゆら)の瑟音(しつね)は、髪の上へ白い菊の花と
共に留めた、鮫人の涙の連なり。

聞こえるか聞こえないかの衣擦れ、その音源を捜せば其処には、二度と
は戻れない、失われた美しき昔日に彼へ手渡した、しかし時間(とき)とは
異なりて、色褪せること無かった己が心。与えたその日にはよもや、これ
ほど想い募る日が来ようとは、想像だにつかなかった。

けれど、如何に頭(つむり)へ珠を挿し、腰に玉を佩こうとも。

(そうか、この違和感は……)

少年がまとう白衣(びゃくえ)は、喪失を悼むためのもの。

己へと向けられた数多の、狂おしいまでの想いに包まれて──其は宛ら、
人の魂の舞うが如き──その輝きはあまねく周囲を優しく照らしてはいる
が、光たちの拠り所となっている彼自身は、小柄な体を素服(そふく)に包
み、その頬には透明な雫が止め処無く流れていた。

「……っ瀬那、小早川瀬那っっ!!!」

男の頬にもいつしか、細くも熱い流れが生じていた。
                      ・
                      ・
                      ・
「進、さん……」

伸ばした手指はむなしく虚空を掴むばかりで。

「進さん、進さん、進さんっ……!」

有明の月は海へと沈み行き、人の夢──儚い逢瀬は終わりを告げる。

「進さん……苦しいんですか? それとも悲しい? 困ってるの?」

泣き顔など、一度たりとも目にしたことの無い、自分の知る限り心身共に
誰よりも強いだろう彼が落涙するなど、余程のことに違い無い。あまり良い
夢ではなかったような気がするが、あの人が本当に苦しんでいるのだとし
たら、そんなのは些細なこと。

ああ、目を覚ましさえしなければ、その内に彼の声が聞こえるようになって、
涙の訳を聞くことも出来たかもしれないのに!

「……朝なんて、朝なんて来なければっ! これからだって、来なきゃいい
んだっ!!!」

だが、どれほど少年が切歯扼腕したところで、無情な暁の光は今朝も徐々
に、強さを増してゆく。

少年が、涙の向こうに見た哀しい夢。

現実にはず、らず、らざるがゆえに、誰にも咎められること無く、誰
の目も気にする必要は無かった──

幸せな、幻。

珠玉 9

2008年01月06日 | 珠玉
(今日も……逃げなかった。此処に、いてくれた)

毎夜、己の塒(ねぐら)と決めた宮に戻り、瀬那の姿が消えていないこと
を知って安堵すると同時に、ようやくその日一日の終わりを実感する。

「お帰りなさい」

慎ましやかな微笑と共に、小さな両手を軽く握り合わせ、※万福(ワンフ
ゥ)の礼を取って“夫”の自分を出迎える“妻”。

軽く屈められた両膝と落とした腰の動き、そして立襟に覆われてなお細
い首が、僅かに傾げられるのに合わせて、以前は自由奔放に飛び跳ね
ていた黒褐色の短い髪──戦に出るために自ら断ったのだとは、アイシ
ールド21であった彼自身ではなく、この自分が振り撒いた嘘──もまた、
もともとカケイの視線のかなり下方に在ったその位置を、更に低くした。

その髪の上から、下から、そして隙間からもキラキラと輝く、硝子や貴金
属で出来た無数の※串珠(チュアンジュー)、ふわふわとした羽毛、そし
て色鮮やかな色糸を縒り合わせて作った頭飾り──と、言う名の新たな
──が、シャラリと音を立てて揺れる。けれどもその軽やかな響きとは
裏腹にそれは、短くて不揃いな瀬那の髪を押さえ付けることを、決してや
めようとはしない。

まるで、贈り主の意図をそっくりそのまま、反映しているかのように。

「今日も一日、お疲れ様でした」

フイとあらぬ方向に顔を背けてしまったのは、その頭飾りの輝きの眩さ故
か、チクリと心を刺した罪悪感か、それとも現在の境遇に対し一言の嘆き
も、怨みも口にせぬ彼に対して感じた、言い知れない甘やかな感情の故
か……。

「ただいま、セナ……君」

ようやっと呼べるようになった“妻”の名前。初めの内は非常に苦労した。
「おい」だの「あのよ」だのと、およそ配偶者に向けて呼びかける言葉で
はなかった。

だが、それは向こうとて同じこと。

履き慣れぬ重い花盆底、挨拶時の動作に必要な平衡感覚を取る難しさ。
自分を出迎えようとする度にグラリとよろけ、戸口の段差に躓き、己の懐
にしばしば倒れ込んできた彼の、心地良い重み。

「……」
「……カケイ、君?」

彼の本心は一体、どこにあるのだろう?
巨深族の常識で考えてみても、彼自身と彼の祖国とを力ずくで奪った
この自分を、彼が、愛することはおろか、本心からの誠意を以って接し
ているとも思えない。

(たとえ……たとえ、今ではどんだけ俺がセナ君のこと、大切に想うように
なってるにしても)

カケイは知らなかった。
別に知りたいと思ったことも無かった。
だから知ろうとしなかった。
そして心の準備の無いままに囚われた。

“恋”という、理屈で説明出来ない、快く柔らかな感情に。
                      ・
                      ・
                      ・
「今日は……何をして過ごしてたんだ?」
「いつもと同じです。侍女の皆とお喋りしたり、おやつ食べたり、まもり姉
ちゃんにお習字見てもらったり……」

一緒に御飯食べながら話しましょうと、差し伸べられた両手。細い骨が薄
く浮いた甲は手甲で覆われ、掌は重ねられているか、或いは伏せられて
いることの多くなったその細く小さな手指に散らばる剣胼胝や、無数の小
さな傷痕を見ることが出来る“男”は、今やこの自分だけなのだと、屈折し
た小さな幸福感に一時満たされると同時に、何も刷いていないにも拘らず、
日に日に蒼白さを増してゆく瀬那の顔色を目にしてカケイは、彼に外出の
自由を許さない、己の狭量を恥じた。

不安、なのだ。
どれだけ“枷”を付けておいても、それらをものともせず、彼はいつか、自分
の手の届かない所へ、光のように走り去って行ってしまうのではないかと。

それほど目立たないとは言え、目に付かないとも言い難い瀬那の喉元の
小さな突起は、彼こそが自分と巨深族に幾度も苦杯を喫させた“アイシー
ルド21”なのだという事実を、カケイに嫌でも思い起こさせるので、巨深族
の“女”の衣の立襟で、きっちりと覆い隠させていた。

その着付けも、瀬那自身の自主性を、鳥の翼をもいで飛翔の自由を奪うが
如くに殺ぎ落とし、どこへも行く気力が出なくなるようにと、口が堅く信用の
置ける巨深族出身の侍女たちに任せた。

もっともその中に、婚儀の数日後、突然やってきたかと思うと、正門から堂
々と「開けなさい!」と、巨深の猛者たちを一喝し、もう一人の小柄な少女
と共にまったく臆すること無く、且つ勝手知ったると言わんばかりに城内を
ズンズンと足早に進み、あっという間にカケイを始め、巨深族指導層の人々
が住まう、かつての後宮区域まで辿り着くと、“彼”についての第六感だけ
が異常発達でもしているのか、半刻も経たない内に可愛い幼馴染の居場
所を突き止めた、「マモリ」(と、いう名前に、カケイには聞こえた)なる娘を
入れておいたのは、カケイの瀬那に対するせめてもの気遣い(の、つもり)
だった。

「あんた、一体何なんだ!? 突然来たかと思ったら……」
「それはこっちのセリフよ! 頼みもしないのに勝手に戦を仕掛けてきて!
国中を滅茶苦茶にされただけでも許せないのに、しかもその上よくも、よく
もよくも瀬那まで……!!!」
「瀬那ー! どこー!?
「あれ、まもり姉ちゃん、鈴音!?」
「瀬那!」
「やー、瀬那ぁぁぁ!!!」
「……?」


すったもんだの挙句、瀬那のとりなしにより、二人の闖入者たちは瀬那付き
侍女として認められた。

「あの、カケイ君、まもり姉ちゃんと鈴音のことは、僕に任せてもらえません
か……?」


泥門の残党から送られてきた間諜だろうという事は、明白過ぎるほど明白
ではあったが、“妻”の秘密を守れる女手は正直、多ければ多いほど有難
いという実情、そして何より──自分を見上げてくる瀬那の、結婚後初めて
目にする、本心からの懇願の表情と、自分とミズマチに説得を試みたあの
日のそれにも似た、真摯な口調に心突き動かされてカケイは、瀬那の言葉
を容れた。

初夜の翌朝から始まって毎日、何らかの決意を秘めた凛とした顔で窓の
外を見つめていた少年。細く、また薄いその背中と、未だ稚さの抜け切ら
ぬ、だが微かに愁いを帯びた横顔を目にする度、憐れみにも似て遣る瀬
無く、しかし不思議に柔らかな思いをそぞろ感じて、この自分が──屈強
なる眷族を従えた現世の海王よと、あまねく島々は言うまでもなく、今や
王城、西部、神龍寺の三大国に於いてさえ知らぬ者はいないとまでに驍
名を馳せている、このカケイが──、密やかな溜息さえついていたことを
思えば、その溜息の小さな元凶がずっと抱いていたのであろう、見知った
者に傍にいてほしいというささやかな願いくらいは、叶えてやっても良いと
──いや、叶えてやりたいと思ったのだ。

娘二人には監視を付け、いざとなれば文字通り“切って捨て”れば良いの
だから、と。

「……いいだろう」
「あ、有難う……!」

                      ・
                      ・
                      ・
瀬那が二人に何を言ったのかについては、当事者たちを除いては、誰も
知る者はいなかった。が、瀬那から説得を受けた後のまもりと鈴音は意
外にも、厳重な監視の目にも文句を口にせず、また他者の不審を招くよ
うな言動は厳として慎み、彼女らにとっての“諸悪の根源”であるカケイ
に対しても、冷ややかな眼差しこそ消えなかったが、とにかく、喧嘩腰の
態度で接してくることだけは無くなった。

“マモリ”と“スズナ”は巨深族の他の者たちとも上手に付き合い、中でも
不思議なことに、彼女ら二人はとりわけ、同性たちから好意と尊敬を勝ち
得ていた。

まもりなどはその多方面に渡る有能さにより現在、城全体の女官長のよ
うな立場にまで出世(?)している。やはり瀬那の幼馴染だと言う鈴音も
また、その人好きのする明るい性格や、どこから仕入れてくるのか、城の
内外を問わぬ愉快で、しかし罪の無い噂話や、買い物に得する情報を沢
山知っていることから、女たちから引っ張りだこの存在となっている。

カケイ自身もまた、彼女ら二人のお陰で、巨深の民が泥門の人々から、
仲良くとまではゆかずとも、過剰且つ過激な排斥に遭うことも無く、日々
の暮らしに必要な物資・情報を入手することが出来るようになったことに
ついては、ホッとすると同時に、感謝にも似た気持ちが湧きかけていた。

これまでの戦と違い、戦勝後の略奪を欲しいままにすることは、カケイを
中心とした一族の上層部から、「背いた者は極刑に処する」と固く禁じら
れており、本拠の島々に凱旋帰国することもしばし叶わず、慣れぬ異国
の土地での生活に四苦八苦して、終戦後の方がより大きな心身の消耗
を余儀無くされていた、多少粗野ではあるが、純朴な侵略者たちにとって、
このようにまもりと鈴音はすぐ、無くてはならない存在となっていった。

そして、その彼女ら二人を自分たちに紹介してくれたのは、“マモリ”と
“スズナ”を通じて泥門城下の住民たちに話を通してくれたのは誰なの
──と、頭を働かせれば自ずと、如何にかつての宿敵とは言えその
並外れた武勇、それに相反して小柄で儚げな容姿と控えめな、恩着せ
がましさの欠片も無い態度と謙虚な物腰のおかげもあって、名を“セナ”
と言う、カケイの新妻に対する猜疑の目は次第に和らいでゆき、ついに
はカケイの人望を更に強化するまでに到ったのである。

「なあセナ君、……とか~~って、泥門には何かいいの無ぇか?」
「ああ、それなら……」


時には瀬那自身が、カケイ以外の巨深の有力者たちから、巨深の支配
に要らざる口出しをと謗られぬ範囲で、カケイに助言や、人材紹介をする
こともあった。

特に、脚が少々不自由ではあるが、抜群の腕前を持つ鍛冶屋の存在は、
今後の巨深軍の武器増産にとって、大きな強みになると思えた。

また、巨深の将来を担う子どもたちに、武技のみならず学問も身に付けさ
せて、一族の今後更なる発展に寄与させたいと考える親たちにとっても、
また巨深の指導者層にとっても、現在行方知れずの皇太子が考え出した
と言われる泥門王国の義務教育制度は、正に願ったり叶ったりであった。
飛び抜けて優秀な学力を示した子どもたちについては巨深族の子、泥門
の子であるに関係無く、瀬那が「皇太子様を除けば泥門で一番、頭のいい
人なんです。それに先生向きの優しい人柄ですし……」と、カケイに推薦し
た、広い額が特徴的な元・宮廷書記官が、より高度な教育を施すことにな
った。

巨深族が海神の使いと崇め奉る馬、それも主を失った良馬が数多く存在し
ていたことは、巨深族の戦士たちを狂喜させた。陸戦の割合が増えてゆく
と予想される今後に備える意味からも、馬術、引いては騎馬戦法を学びた
いと考える者は多く、彼らは泥門城の馬場で、やはりカケイから相談を受け
た瀬那の推薦により、鈴音が引っ張ってきた、右頬に十字傷の有る強面の
男の教えを受けることになった。

最初はムスッとして、いかにも不貞腐れた風の彼だったが、助走を付けて
飛び跳ねてきた鈴音に頭を勢い良く叩かれ(はたかれ)、彼女から無言で
ある方角を指し示されると、一瞬、何か、呑み下し難いものを無理に嚥下
するような表情をし、次の瞬間、突如としてキビキビとした積極的な指導を
開始した。

鈴音が示した方向に在ったのは泥門王国全盛時代の後宮区域にして、現
在の巨深族の、実質上の内廷。鈴音に釣られてそちらに視線を投げた時、
常に揺れ動いていて完全なる静止というものは決して有り得ない馬上から、
どのような距離に在る物事でも、その細部まで鮮明に映すことが可能な彼
の視界にどうやら、彼を物分かり良くさせる“何か”、若しくは“誰か”が、飛
び込んできたらしかった。

以来、男の教え方は非常に論理明快で分かりやすいものとなり、その評判
を聞き付けたカケイが、興味本位で馬場に足を運んでみれば、成程確かに、
彼が目の当たりにした光景は、この十字傷の男はかつて相当の教育、のみ
ならず正規の軍事教練をも受けたことがあるに違い無いと、カケイの切れ長
の双眸を瞠目、そして刮目させるに十分なものだった(もっとも、その時に男
から向けられた、刺すような眼差しもまた、気にならなかったと言えば嘘にな
るが)。

廃墟の中に新たな家を建てたいと望む泥門の民と共に、旧支配層の家々
を接収出来る程の地位にはない巨深族の人々は、見上げる程の巨体で
はあるが、大層人の良い大男を中心とした、力自慢や、高所作業に向い
た猿のような身の軽さ、或いはその過去は曲芸団の芸人だったのかと誰
しもに思わせる柔軟な肢体(と、ノリ)が自慢の、それこそ曲芸団か雑技団
のような人間たちが住む、下町の一角へ列を成した。美術・造形学に関し
て鋭い感性を持つ眼鏡の男と、大工の心得も有る件の腕利き鍛冶屋の連
携指導により、なかなかの家が出来上がると専らの評判となっていたので
ある。場所が人通りの多い下町であったことから、そこはいつしか、工務請
負だけでなく、情報屋・口入れ屋としての機能をも合わせ持つようになって
いった。

これら一連の出来事と時を同じくして、「アイシールド21が女だったなんて、
嘘だ!」という、巨深族内部だけでなく、泥門城下からよく聞こえてきた疑
惑の声も、徐々に下火となっていった。

実際、美少女かどうかはさておくにしても、瀬那の濃い琥珀色の双眸にジ
ッと見つめられて平静さを保っていられるものがいたとすれば──籠の鳥、
或いは深海魚にも似た彼の現況を考えれば、所詮これは、仮定に過ぎな
いが──それは、命無き無機質の存在であったに違い無かった。

男も女も子どもも、動物たちさえもが我知らぬ内、引き寄せられてしまうのだ
──カケイの奥方の瞳、その奥深くに秘められた優しさと、強さと、たった一
滴ではあるが大粒の哀しみ、そしてそれらが渾然一体となって醸し出す、不
可思議な艶に。
                       ・
                       ・
                       ・
ギュ

「……」
「あの、カケイ、君……お腹、空いてなかった? お風呂の用意をしてお
いた方が良かったですか?」

無言で自分の両手を強く握ったまま、それらを凝視している“夫”たる人。
自分の気の利かぬ対応が彼の機嫌を損ねてしまったのかと、瀬那の表
情が怯えを孕んだ。

「! す、すまねぇ……違うんだ、その……」
「?」
「な、何でもない! 飯食おうぜ!」
「はい?」

差し出された両手が瀬那の本心であったならば、どんなに嬉しいだろう?
だが、願望と現実を一緒くたにしてはならない。

(いつか裏切られたと勝手に思い込んで、辛くなるだけだ……)

言い聞かせようとしても、もう一人の自分は現実を正視することを嫌がった。
どうせ“夢”なら、その“夢”から目醒めたくはない、と。
                       ・
                       ・
                       ・
(カケイ君を幸せにすること、それが結局は皆のためになる)

彼の幸福のために、出来ることはすべてしよう。

(僕が彼にあげられるもの、してあげられること、そのすべてを、カケイ君に
……)

たった一つ、既にある人にあげてしまった、“心”を除いては。

(だけど、だけど……)

瀬那は朧げながらも知っていた。
それは本来、たった一人の相手に抱くべきものだとも知っていた。
けれど新たに知ってしまった。
そして瀬那の理性は徐々に、けれど着実に、あってはならないことを、どう
しても認めざるを得ない情況に追い込まれてきていた。

この、恐ろしいまでに相手に惹き付けられる不可思議な感情もまた、“愛”
なのだろうか?

「は……っ……」

光源は月明かりだけしか無い閨の中、暗い故に本来の健全な色よりも
仄白く浮かび上がった細い二本の腕。その最先端、長きに渡った戦場
生活のせいで、ギザギザに欠けてしまった十枚の桜貝が、広い背中に
幾筋もの傷を付けてゆくが、当の負傷者はどうやら、まったくと言って良
い程、痛痒を感じていないようであった。

むしろ加害者の方こそ、押し寄せてくる激情と快楽の大波に、いつ丸呑
みにされても不思議でない状態にあったが、こちらはこちらで、その危機
から逃げようとするのではなく、逆に自分の方からも立ち向かってゆくこ
とで、何とか溺死を防いでいた。

「カケ……イ、く……ん……」

目的が明確である以上、快楽に忠実になることに対し、瀬那は嫌悪感や
羞恥心、罪の意識を抱く必要は無い筈だった。加えて肉の悦びは、一時
的とは言え、瀬那の脳内を真っ白に──何も思い煩う必要が無いように
してくれる。

それなのに。

(ずっと……忘れていられたら、いいのに……何も、かも)

ふとした瞬間には再び、例の懊悩が、瀬那のうっすらと上気した頬をスル
リと撫で上げたかと思うと、荒々しく頻繁に上下する、薄く平坦な胸の辺り
に絡み付いてくるのだ。

或いは瀬那は、生真面目に思い悩むことこそ、しなければ良かったのかも
しれない。運命の渦潮は望む者を導き、欲しない者を引き摺るのだから。

ましてや彼の懊悩は、「運命」の一言で括られるだけでなく、瀬那自身も
相応の覚悟を決めた上での選択により、もたらされたものである。

だが、その懊悩をなかなかに克服出来ぬことこそまた、瀬那がセナであり、
そしてやはり瀬那たる所以でもあった。
                       ・
                       ・
                       ・
密着してくる薄い少年の身体。そよ風のように軽く、如何様にも変化して、
深く、深く、どこまでも自分を受け容れてくれるそれが己に与えてくれる悦
楽は、過去にカケイが戯れで、或いは動物的本能による原始的欲望とそ
れに伴う熱を発散させるためだけに抱いた女たちから得たものとは、桁違
いのものだった。

(やべぇ……溶けちまいそうだ……)

自己抑制が日に日に効かなくなってきていることを、彼は既に自覚していた。

「ふ……っ!」

最初は、(潜在的にその気[け]があったということなのだろうか)と、自己嫌
悪に悶々としていたが、では瀬那以外の男を見て劣情を抱くのかと自問自答
すれば、答えは腹の底から込み上げてくる嘔吐感だけだった。

恋情の欠片を肯定し始めた最初の頃は、瀬那の勇気と才智に惹かれた
のかと思っていた。だが日々を共に過ごす内、普段の彼は決して、剃刀
のように犀利な人間ではないということが、徐々に分かってきた。

力の戦場と頭脳駆引きの戦場を離れた、普段の彼はむしろ──これこそ
が本来の姿であったようだが──、愚鈍とまではゆかないにしても、少々
抜けているくらいである。しかし、そのせいで醒めた気持ちになったかと言
えば、そのようなことは決して無く、むしろそれ故に“可愛い”とさえ思うよ
うになったのだから、恋に囚われた人間の感情というものは分からぬもの。

(ずっと傍に……一緒にいたい、離れたくない)

我ながら陳腐な願いを抱くようになったものだと、自分でも苦笑を禁じ得な
かった。

また、それほど賢くない代わりと言っては何だが、それ故にこそ、瀬那が
全身全霊で自分の一挙一動を追い、自分の意に沿おうとしてくれている
のがよく分かり、尚且つ嬉しくもあった。下手に才走っていたり、打算的で
あったりする女たちよりも、余程誠実な少年。なればこそ幼子のように甘
やかし、その願いをすべて叶え、喜ばせてやりたいと思うようになったカケ
イだった。

「セナ君……次、どうしてほしい?」

いつもは鋭利に過ぎて近寄りがたさを感じさせる、深い蒼眸に、思いもかけ
ぬ、海蛍のような優しい光が灯る。冷徹そのものであった低い声音にもいつ
しか、柔らかさが入り混じるようになっていた。

何よりもその、日に日に激しさを増す一方の情熱と共に滴り落ちてくる汗で
艶(えん)に濡れた、熱く逞しい肉体に翻弄されていた最中に見た蜃気楼。

(ああ、やっぱり……!)

垣間見た己の心の裏側に、改めて慄然とする。

(僕は……進さんも、カケイ君も、二人とも……)

何も知らなかった無垢の身体に刻み込まれた快楽の爪痕は、負傷者本人
の予想を超えて、遥かに重く、甘く、膿んでいるようだった。

心がその疼きに痺れて、引き摺られてしまったほどに。

そして極限の状態に置かれなければその存在を意識出来ない己の心、
即ち目には見えない“魂”なる不確かな存在と違い、今、この一瞬一瞬
をも着実に生きているのだということを、左胸に在る臓器の小さくとも確
かな鼓動によって常時、ハッキリと己に知らせてくる“身体”は、疑いの
余地一片だに無く、“瀬那”という一人の人間がこの世に存在するに当
たって、絶対に無視出来ぬ“存在”であった。

心だけではこの世に存在出来ず、身体だけでもまた自己の存在を確立
出来ないが故の凄絶な苦痛に、瀬那はもがき苦しんだ。

「や……嫌……! 苦しい、助けて!」
「セナ君?」
「怖い……」

快楽が過ぎて、一時的な錯乱状態に陥ったのだろうかと、悪夢にうなさ
れている子どものような表情の瀬那を見て、カケイは自分の激情を反省
した。

「ごめんな……今日はもう、セナ君の嫌がることはしねぇから……」

最初の日みたく強引なことも、誓って二度としない、だからもう泣かない
でくれと、小さな背を撫でさする。

(……あったかい……)

カケイの大きくて温かな掌の感触に、広く逞しい胸板の力強さに、瀬那は
堪らず縋り付き、その存在にもっと包まれたいと願って、名を呼んだ。

「カケイ君、カケイ君、カケイ君……!!!」

思えば蛭魔が姿を消し、進と会えなくなってからというものずっと、己に対
し、甘えと涙と立ち止まることを禁じてきた日々だった。

(もう、離れられない……この、温かさから……)

ピンと張り詰めていた何かが、瀬那の内部でプツリと切れ──そして彼の
意識は、深海の穏やかで優しい闇の中へと沈んでいった。

珠玉 8

2007年07月15日 | 珠玉
瀬那は決して、蛭魔のように智謀をめぐらすことに長けている訳では無い。
その脳の働きはせいぜい十人並みだ。それでも、大切な人たちの顔が脳
裏に浮かぶと、その臆病な心が激しく鼓舞された。あの人たちにまで暗い
黄泉路を辿らせてはならない、と。そしてその中には当然、東の隣国の一
騎士の顔もあった。

昔、蛭魔が、野原の草の上に胡坐をかきながら、自分を背もたれ代わりに
して、政治に関する機密書類をペラペラと捲りながら呟いていた時、耳にし
た、当時の瀬那にはさっぱり意味の分からなかった蛭魔の、深遠に過ぎる
思考に彩られた、数々の独り言。仲間たちの生命と国の命運がかかった、
現在のこの危機に瀕して初めて、瀬那の中で、それらの耳学問の精華(の
ごく一部)が、鮮やかに花開いた。もっとも、そのことこそが、後々まで瀬那
を苦しめる主要な原因の一つになろうとは、この時はまだ、誰一人として知
る由も無かった。当の瀬那本人も含めて、である。

(あと少し、ほんの少しでいいんだ……今この瞬間にも、一秒でも長く時間
を稼いでおけば、まもり姉ちゃんやモン太たちは国外に脱出出来る……普
通の人たちはともかく、デビルバッツ部隊の皆は、絶対後で何か、理由こじ
つけられて、酷い目に遭わされるに決まってるもん。それに、この巨深の人
たちはいずれ必ず、西部や王城にも攻め込むんだろうけど、それに対しても
皆がそれぞれの国に行って西部と王城の同盟締結を提唱すれば、巨深族
を挟み撃ちに出来る……)

辛いことではあったが、今となってはもう、泥門王国自体は敗戦を受け入
れるしかなかった。繰り返しになるが、これ以上の長期戦は、兵力面から
言っても補給面から言っても、既に限界を通り越しているのである。

対する巨深はと言えば、“海”という、支配下にある国々すべてに繋がって
いる上に、大陸の三大国が傍観の姿勢を崩さぬ以上は誰にも断つことの
出来ない、広大な補給路を持っている。形勢不利と見た場合でも、一旦海
上なり己の勢力圏内なりに退いて、態勢を立て直せば良いだけのこと。子
分をどれほど増やしても、軍隊にだけは決して異民族を容れようとしなかっ
たため、大軍こそ擁していなかったが、彼ら巨深兵は精鋭揃いであり、しか
も、その兵力の少なさは、そのまま逆に、小回りがきき、カケイを中心とした
上層部の指令が、末端の一兵卒に到るまで迅速に、間違い無く伝わるとい
う利点でもあった。そして何より、一族の結束が半端無く強い。

それに対し泥門は、一般民衆と、貴族並びに一部富裕層との間で、物事
に対する意識の落差が以前から埋め難かったことに加えて、今回の巨深
族襲来に際しては、同じ義勇軍に身を置く者たち同士の間にさえ、しばし
ば意見の食い違いが生じた。純然たる指導者を欠いたまま戦いを始めて
しまった時点で、そもそも無理があったのだが、それでも初期の頃には何
とか上手くやっていたのだ。

しかし、巨深族との戦いが徐々に泥沼化してゆき、また、泥門王国の“高
貴なる愛国者たち”による物資買占め、そしてそれに続く売り惜しみも手伝
って、生活必需品や軍需品の欠乏、ひいては泥門王国の“上下間”に於け
る断絶が一段と顕著になるにつれ、アイシールド21の活躍を軸に、ようやく
真のまとまりを見せ始めたかのように思えた義勇軍は、諸々の焦燥に駆ら
れ、改めて、“寄せ集めの軍隊”という馬脚を露してしまった。そこへ件(くだ
ん)の愛国者たちの裏切りである。一溜まりも無かった。

蛭魔の所在も杳として摑めず、財政はすっからかん、指揮系統はもう、滅茶
苦茶である。そして隣の二大国から返ってくるのは相変わらず、冷ややかな
沈黙のみ。カケイの暗殺に失敗してしまった以上、泥門を完全なる滅亡から
救い、仲間たちを無事逃がすためには、最早、自分の首を取引に使うしかな
いと、瀬那は覚悟を決めたのだった。

「お前から自主的に首を差し出すというのは……確かに、悪くないな……」
「ええ、それに……」

深呼吸をして心を落ち着けると、瀬那は、これまでの己の見解に加え、以下
のように説明を始めた。
                       ・
                       ・
                       ・
長期的な視野から見て、また実際の戦場に立った者として、忌憚の無いとこ
ろを述べれば、泥門にとってこれ以上の抵抗は、百害あって一利なしである。
巨深は要するに、泥門を“支配”したいのであろう、ならばそうすれば良い。命
あっての物種。平和の享受も復讐も、生きていればこそ、可能となるのであり、
死んでしまえばそれで一巻の終わりである。よって現在、戦闘の続行が既に
絶望的である以上、泥門の民は、一時的に巨深族に膝を屈してでも、同胞の
命が無駄に散らされるのを防ぐことこそ、先決とすべきなのではないだろうか。

それに巨深とてまさか、人間の働き無くして、田畑から豊かな実りを得られる
とは考えていない筈。抵抗を続ける泥門の民を皆殺しにし、他の島々の人々
を強制移住させたところで、彼らがここの土地に馴染むまでには、しばしの時
間がかかるであろう。農民の友人に聞いた話だが、土地というのはその地質
を知り尽くし、その時々に応じて、そこに何が一番必要とされているのかをよく
心得ている、地元の人間に慈しませるのが、最も効率的なのだそうな。しかも
今年は戦いに明け暮れていたせいで、泥門各地の農村は荒れ放題。一度荒
れてしまった土地を復興させるには、荒れていた時間の数倍の時間を必要と
するという。来年以降の収穫がおぼつかないようでは、軍需品、とりわけ食糧
の徴発が出来ず、泥門は大国たる王城・西部攻略の足場となり得ないが、そ
れでも構わないのか? 現在でさえ心身共にボロボロであるこの国に、この上
飢饉までもたらされようものなら、今度は生き残った国民総出で、玉砕覚悟の
武力抵抗が起きるは必定。忘れないでほしい、泥門の怒りの種火はまだ、完
全に消えた訳ではないということを。

しかし、巨深の最高指導者の名に於いて、自分の先程の懇願を必ず実行に
移してくれるというなら、当座の平穏は保てよう。その後に関しては、成功す
るも失敗するも、そちらのやり方次第である。ただし、一つだけ警告しておく。
発布された公告に虚偽が発生すれば──アイシールド21の処刑後に、何ら
かの理由をこじつけて、やはり粛清の嵐を呼び起こそうとするならば──、巨
深族の支配は、ただでさえ少ない正当性を更に失い、加えて泥門の民の不
信の念を、ますます煽ることとなるだろう。たとえ秘密裏にこの自分を闇へと
葬ったところで、無駄である。己に最も近しかった仲間たちは必ずや、真実を
嗅ぎ付けよう。そのような万一の場合を想定してわざわざ、彼らが皆、寝静ま
るのを待って潜伏場所をこっそり抜け出してくる時、「泥門城へ、巨深族の中
で一番“力”がある人を、暗殺に行ってきます」という、簡潔な置き手紙をして
きたのだから。

つまり、この自分・アイシールド21の提案を飲まない限り、巨深は、“価値ある
豊かな泥門”を手にすることが出来ないということである。
                      ・
                      ・
                      ・
(う~……こんなに頭使いながら喋ったの初めてだから、つ、疲れたぁ……
蛭魔さんがよく、口は幾ら使ってもタダだって言ってたけど、こんな疲れるん
なら大赤字だよ……にしてもあの人、こんなこと殆ど毎日やってたんだから
やっぱ凄い……蛭魔さんさえいてくれたらな……あの人が旅に出ないでず
っとこの国にいてくれたなら、国王陛下がお亡くなりになった後の政局混乱
なんて起こらなかっただろうし、巨深族との戦いだって、泥門が勝ってすぐに
終わってた筈なんだ……蛭魔さん蛭魔さん蛭魔さん、どこにいるんですか?
お願いですから早く帰ってきて下さいよ……蛭魔さんならどうするだろうって、
昔のこと必死に思い出して真似してみて、とりあえずさっきの説明までは何
とかなったけど、もうこれ以上は無理……)

吊り上がった切れ長の金目が印象的な、“地獄のプリンス”の毒舌を、今日
ほど懐かしく思い、切実に求めたことは無かった。一か八かの大博打に、た
った独りで臨まねばならない、この心細さ。昔のように、蛭魔の傍らに立ち、
駆引きの傍観者に徹していられたのなら、どんなに良かったことだろう!

それまでの落ち着いた態度はどこへやら、ブルブルと震える両手で、卓の上
に置かれた水差しの中身を茶碗に移し、瀬那が喉を湿しながら、相手の反応
をビクビクと窺う一方、対戦者たちの方はというと──

「「……」」

カケイの表情には驚愕の翳りが差し、ミズマチでさえ──知的な事柄とは
あまり縁の無い男だが、物事の本質を即座に見抜くその野生的勘の鋭さ
は、ある種の賢さと言えるだろう──緊張の面持ちを浮かべていた。アイ
シールド21が英雄と讃えられる所以は、その伝説的強さに限らないという
ことか。しかし──

「なかなかに興味深い意見を聞かせてもらった。が、こちらにはこちらの考
えが既にあるんでな」
「え……?」
「ミズマチ、こいつの世話を頼む」
「了~解、まっかせてーん☆★」

目配せだけでカケイとミズマチの間には即、計画が決められた。とりあえず
は休めと、ミズマチに再度、寝台へ押し戻されながらも、瀬那はあらん限り
の声を振り絞って問うという形で、カケイに追いすがった。一体、何をするつ
もりかと。

「これ以上、剣を赤く染めずとも、あんたが──アイシールド21が、俺たち巨
深の仲間になれば、すべて円く収まる」
「なっ……!」
                      ・
                      ・
                      ・
そして翌日、泥門城下に立てられた高札の内容、及び、地方と諸国を稲妻
のように駆け巡った情報に、驚かなかった者は一人として存在しなかった。
その内容を要約して曰く、

“か弱き女子の身でありながら、その柳の髪を短く断ち、兜でその細面を隠
し、手に銀の刃を煌めかせ、戦場に於いて獅子奮迅の活躍を見せたアイシ
ールド21なる侠女、単独で我ら巨深族の許へ罷り越し、己の首級と引替え
に救民を願い出んとす。その勇気、並びにかの者の絶代なる武技に我々は
敬意を表し、巨深族長コバンザメと軍総司令カケイの名に於いてここに、同
女の嘆願は聞き入れられ、今後汝ら泥門の民、我ら巨深族と志を共にする
限り、その生命と財産の安全は、間違い無く保障されるものとす。
泥門国王、乃至は皇太子の承認無く、泥門王国朝廷その独断によりて、国
璽の印無き降伏文書を提出、これによりて汝ら民衆義勇軍、多大なる屈辱
を被りしものなれど、汝ら自身は恥じるべきことこれ只の一つとして無く、我々
巨深族は等しく皆、汝らの勇戦に敬意を示すものなり。
なお、アイシールド21は後日、巨深軍総司令カケイと婚姻を結び、我らが同
胞と相成る予定、これ有り。”

アイシールド21の正体と真実を知る仲間たちの顔は、それを知らぬ人々とは
比べ物にならないほどの驚愕と、蒼白の色に染まった。

「「「「「「「「「「そんな……!!!!!!!!!!」」」」」」」」」」
                     ・
                     ・
                     ・
東の隣国一の騎士と呼ばれる男も、また──その知らせを耳にした時、
丁度、斬馬刀の手入れをしていた彼は、思わず刃の部分を握り締めた。

泥門が敗北したという知らせを聞いた時は、まだ平静が保てた。だが今度は、
今度の知らせは──

思い詰めれば思い詰めるほど、刃を握る力は強くなっていった。心の奥に
眠らせていた、ありとあらゆる激情が、突如として一斉に目を覚まし、行き
場を求め、けれどそれをどこにも見つけられず、勢い余って皮膚を、赤く鉄
臭い体液の奔流に乗って突き破り、その噴出が激しくなれば激しくなるほ
ど、よく研がれた鋭い刃は、ますます深く、進の皮膚の内側へと食い込ん
でゆく。知らせを伝えに来てくれた親友がその傍らで悲鳴を上げたが、進
は彼の存在などもう、すっかり忘れ去っていた。

(小早川瀬那が、あの“少年”が、巨深族の男の“妻”になるだと……?
一体どういう……いや、俺はこの目で真実を確認し、彼の口からきちん
とした説明を聞くまでは、決して信じない……信じたくない、信じるものか、
信じてなるものか! たとえそれが“事実”であり“真実”であったとして
も、俺は、この進清十郎は、断じて認めん!!!)

この時の進にとってみれば、肉体の一部損傷など、些細なことであった。
かの少年とその祖国の窮状に対し、己の属する騎士団の規律と自らの
自律の下、固く耳を塞ぎ、自分の本心をも見て見ぬ振りをしてきたことに
対する──自分の選択は、客観的に見ても主観的に見ても間違っては
いなかったと、頭では理解し過ぎるほどに理解していたのだが──やり
場の無い怒りや、どうにも止められない自責の念といった心の傷は、肉
体が受けたそれよりも遥かに重傷で、もっと大きな苦痛を伴った。

何にも増して、己のこの苦痛を更に上回る痛みと苦しみが、彼があの小さ
な体と、それよりもずっと大きな優しさと勇気を兼ね備えた、白玉の如き心
を苛んでいるのではないかと思うと──

「……っ!」

居ても立っても居られなかった。
                      ・
                      ・
                      ・
“彼女”は、介添の目を盗んで素肌にこっそりと、手ずから結んだ白い佩玉
の無機質を、そっくり吸収したかのように、ひんやりと滑らかで、そして生気
の感じられない風情をしていた。全体的に小作りで、繊細華奢なその体付
きとも相俟って、精巧に作られた人形だと言われたら、多くの者がそれを真
に受けただろう。何とまあ、最近のカラクリ人形は、涙まで流せるようになっ
たのかと、驚きながらも。
                      
花嫁衣裳の赤は“彼女”に、吉慶などではなく、戦場で流し、流された血を、
嫌でも思い出させた。布地に織り出された、泥門王国の聖獣・蝙蝠が──
ビエンフゥ、福に変わるとはよくも言ったもの。自分の目には赤でなく、己の
心のそのまた深淵、そこに広がる闇より深い、罪の色をして見える翼手類。
その仔は母の乳を飲んで育つ、四つ足の獣でありながら、両の前肢に長く
伸びた五本と五本、計十本の指、それぞれとそれぞれの間に広がる飛膜を
使い、鳥のように空を飛ぶ。そのことから、所変われば品変わり、東の隣国
では、情勢に応じていとも簡単に変節する、裏切り者の代名詞でもある──
甲高い嗤い声を上げながら、軽やかに舞っている。忌わしい、血の海を。

そして、花嫁の宝冠・鳳冠(フォングアン)に惜しみ無くあしらわれ、また顎
の先端まで届く立襟で、未だ隆起の目立たぬ喉仏を隠された細い首から、
平坦に近い胸を通り、薄い腹までを飾る二連の長い首飾りの形も取り、そ
の上、赤地に色とりどりの糸で美しく刺繍がされた柔らかな布鞋・花鞋(ホ
アーシエー)ではなく、布製部分には小粒のものを幾つも縫い付けて吉祥
の図案を成し、ただでさえ厚い鞋底の裏には更に、白蝶貝を使った螺鈿細
工の施された、木製の高い台座まで据え付けられた、履き慣れぬ者にとっ
ては走ることはおろか、歩くのもやっとの花盆底(ホアーポンディー)にまで
見られる、まさしく花嫁の頭の天辺から足の爪先までを、赤と共に彩る、乳
白色の輝きも──これすべて皆、鮫人(こうじん)の涙の結晶である──
どれほど煌びやかであろうと、所詮は豪華な拘束具に他ならなかった。

自分の心身を雁字搦めにしている、鮮血の呪縛と真珠のくびき。自分一人
だけなら、簡単に逃げられる。けれど、それは即ち、清楚な光輝を放つ無数
の珠(たま)が──罪の穢れ無き、無辜の魂(たま)が、鮮血の色をした晴
れ着に含まれている以上の、“赤”で染められることを意味する。

(それだけは駄目だ、絶対に!)

仕上げに鳳冠の上から被せられた蓋頭紅(ガイトウホン)で、可憐な囚われ
人は、完全に視界を遮られた。“彼女”は最早、夫となる男の手を取らぬ限り、
どこへも行くことは出来ない。

(“僕たち”は負けた。巨深族の支配を受ける。でも、奴隷になった訳じゃない。
……この大きな人は、巨深の中で一番“力”があるし、誰からのものであって
も、優れた意見には素直に耳を傾けてくれる。少なくとも、半分は僕の提案を
受け入れてくれた。蛭魔さんが戻ってきてくれるか、この国を僕たち泥門人の
手に取り戻す方法を思い付くまでは、どんなことがあっても……どんなことをし
てでも、この人の心を、僕に繋ぎ止めておかなくちゃいけない……)

だが、どれほど強く決意を新たにしても、滂沱として流れ出てくる紅涙だけ
は如何にしても、止める術を、瀬那は持たなかった。滑らかな頬を伝い落ち、
服地を染み透ったそれは、白い佩玉までをも僅かに濡らした。

(進さん、他人から強制されたものではあるけど、それでも僕は、この道を
行くことにしました。そして、そう決めたことで初めて、貴方に対して抱いて
いる“想い”は、友情とも、走りの好敵手に対するものとも違うものなんだっ
て、自覚しました。ただ単に哀しいとか怖いとかで流れてるんじゃないって
自分でも分かってるこの涙が、その根拠です。けど、僕の恋の始まりは同
時にまた、そのおしまいでもあったみたいです。……でもたとえこの先、僕
と貴方の進む道が、二度と交差しなかったとしても、この想いが消えること
だけは、決して無いでしょう。唇を重ねるどころか、貴方に抱き締めてもらっ
たことすら無い、そもそも僕の一方的な片恋なんですけど……それでも、一
度はあの世に足を踏み入れそうになったあの瞬間まで一途に、進さん、貴
方を想い続けたことは、ちっぽけなこの僕が、出せる限りの大声で、足が他
の人たちよりちょっと速いってくらいのことなんかよりも、ずっとずっと、世界
中に向かって誇れるものだと、自分では思ってます。気付くのが遅くて、貴
方に伝えられなかったけど、だからこそこの想いは、瑕[きず]付くことも、穢
れることも無く、貴方が僕にくれたあの佩玉みたいに、綺麗なままでいられ
たんです。この想いこそ、僕の、これから生きてゆく上での原動力。さあ、笑
顔を作らなきゃ……)

過去、片手で数えられるほどしか見たことの無い、進の穏やかな笑顔を脳
裏に思い浮かべ、服の上から佩玉を結んだ辺りを素早くなぞり、自分を勇気
付ける。程無くして瀬那は、目的達成の第一段階に突入出来た。
                       ・
                       ・
                       ・
「哀しいんだろ? 何で笑う? おかしな奴だ」

涙で縞模様を描いた顔に、健気な笑みを小さく浮かべた瀬那を見つめなが
ら、カケイは、これまで生きてきた人生の中で、誰に対しても抱いたことの
無い、優しい気持ちが自分の中に湧き起こってくることに、大層戸惑ってい
た。

「変なのはお互い様ですよ、まったく、敵方の男をお嫁さんにするだなんて
……」

小首を傾げ、悪意は無いけれど、揶揄するような表情を閃かせ──己の意
志と選択に基づいて作り出された、もう、泣き人形のそれではない──、や
り返してきた瀬那の片頬の涙の筋を、カケイは長い指で拭ってみようとした。
すると、その指先を瀬那は、ギュッと摑み(小さな握り拳の中から、ニュッと、
カケイの長い指の先端部分と根元がはみ出ているのは、何とも滑稽な眺め
ではあったが)、そのまま強く自分の頬に押し当てた。

ドクン

また、だった。彼に手当てをしてもらった時のように、またもや左胸の鼓動が、
常よりも速く、強くなる。

アイシールド21との結婚など、泥門王国を巨深族にとって支配しやすくする
ための、単なる方便に過ぎない筈だった。自分と同じ“男”に対して欲情を
抱く趣味など、俺は持ち合わせていない──自分で自分に何度もそう言い
聞かせてきた筈だ。

(この“アイシールド21”の正体を知って、前よりももっとこいつのことばっか
考えるようになったのだって、こんな、ガキみたいに小さな奴だったってこと
が意外だったのと、倒し甲斐のある強敵に出会った時の、あの快い興奮、
しかもその中でも最高最大のやつを、どうせなら出来るだけ長くこの楽しみ
たいからだった筈だ。そりゃ……まあ、腕が立つって以外にも、結構面白い
こと色々言うし、喋ってる時の声聞いてると何か気持ち良くなってくるし、あ
と、あいつの目、何かこう、凄く惹きつけられるっていうか……って、何考え
てんだ、俺は)

挙式の後は、適当な場所に幽閉し、頃合を見はからって殺してしまうつもり
だった。

なのにどうして、この少年の唇が、こんなにも蠱惑的に見えるのだろう?

相手の装飾品をむしり取り、赤い晴れ着を乱暴に破る己の手の性急な動き
は、まるで、見知らぬ他人のそれのように感じられた。けれど向こうから差し
伸ばされて、掌の大きさも五指の長さも違い過ぎる手と手が絡み合わさった
時に感じられたものは、紛れも無い歓喜、そして快楽だった。
                      ・
                      ・
                      ・
こうして、需要と供給は一致した。だが、“真実”ではなく“現実”の上に成り
立つ均衡というのは、往々にして、僅かな刺激で容易く崩れるものである。

珠玉 7

2007年07月15日 | 珠玉
「なあカケイカケイ~! 俺、今すっげー気分ワリーよ。またあんな奴ら来た
ら俺、ホントマジ頭おかしくなっちまうかも~!」
「お前の頭はこれ以上おかしくなりようが無いくらい、もう十分に吹っ飛んで
ると思ってたんだがな……まあいい。それならしばらく、休養に専念してろ。
この城のどこでも、好きな部屋を使え。次はいよいよ西部か王城との戦、完
璧な準備を整えるまでにはしばらく時間が必要だからな……オオヒラ、オオ
ニシ、他の奴らにも適当に部屋を選んで、次の指示が出るまでよく休んでお
くように伝えてきてくれるか?」 
「「ハイッ、喜んで~!!」」

物凄い勢いで駆け出してゆく二人を見送り、「俺ここにするわ~」と適当な
部屋を選んだミズマチとも別れ、カケイは広い城内を隈無く探索し続けた。
主だった奸物どもは先程その殆どを斬り捨てさせたつもりだが、まだ城内
に運の良い馬鹿が潜んでいないとも限らない。

(狸爺なんかじゃなくて、アイシールド21でも隠れてねぇかな……)

これまでと同様に伝書鳩を放ち、巨深族の本拠である細長く狭い列島(と、
呼べる程の数ではないのだが、まがりなりにも小さな島々が連なっている
ので)と、これまで獲得してきた新領土の、戦略上・軍政上の要所要所に、
押さえとして置いてきた同胞たちに勝利を知らせ、また、新たな人的・物的
資源の補給を乞うた。これまでに手中に収めてきた島々と比べれば、大陸
の中では小国とはいえ、泥門はそれなりに大きな──“国”である。自分た
ち巨深族の威令が国土の隅々にまで行き渡る、従順な占領地且つ今後の
対王城、乃至は西部への侵攻作戦に於ける補給基地として、きちんと機能
するようにするまでは、しばしの時間を要するであろう。自分もしばらくの間
はこの城に腰を据え、武器の代わりに筆を手に取っての執務室籠りを覚悟
している。

次に攻めるのは王城か西部か、どちらにしても勝つためには時間をたっぷり
とかけて周到な作戦を練り、万全の態勢を期しておかなければならない。兵
卒たちに、無益な殺戮や婦女子への暴行は厳禁した上で、泥門城を取り巻
く貴族たちの壮麗な屋敷群に於いて、三日間に限定した略奪を許したのも、
布石の一つだった。無駄に広く、不必要なまでに豪奢なそれらの建物は、そ
のまま彼らの宿舎となる予定でもある。

国民の大半が農民である大陸や、海上に無数に点在する島々の内地に於
いて農業に従事する人々──その多くは先祖代々の農耕民族である──
には迷惑千万、決して理解出来ない(したくもない)理(ことわり)だが、巨深
族にとって略奪とは、農業・狩猟・漁業などと同じく、日々の糧を得るための、
立派な“労働”の一種だった。それも、強い抵抗に遭う確率が高く、一歩間違
えれば落命するのは自分たちという、極めて危険な。

そもそも、今回の略奪は客観的、或いは泥門の側から見ても、非難される
ようなものではないということを、カケイは既に知っていた。略奪の対象とな
った旧勢力の資産の殆どは、まっとうな手段で得たものよりも、そうでない
ものの方が圧倒的に多いのだと、彼らの下で働いていた中・下級官吏たち
の口より直接、耳にしていたからである。
                      ・
                      ・
                      ・
巨深族の泥門城入城後に捕虜とされた彼らは、最上層部の人間たちが虫
ケラのように殺されてゆくのを目の当たりにすると、王国の心臓部たる泥門
城をあっさり放棄して即、逃げ出した、門閥出身の上司たちとは対照的に、
へっぴり腰なのは否めなかったにしても、文房四宝以上に重いものは持った
ことの無さそうなひょろひょろとした両腕に、持ち慣れない武器をしっかと握り
締め、巨深のつわものたちに必死の抵抗を試みた者たちだった。

泥門攻略の最大の壁であった義勇軍を敗走させた後は、無血開城を目指
していた巨深族も、剣を持って決死の覚悟で向かってこられれば、軽くいな
そうにも上手くゆかず、再び、多少の血が流れざるを得なかった。それでも
何とか苦労して、勇気ある抵抗者たちを捕縛すると、カケイは彼らを謁見の
間に集め、朗々たる声で告げた。

「確かに、今後この国を支配するのは俺たち巨深の者だ。遊んで暮らして
いたくせに暴利を貪っていた能無しどもの行く末は、さっきお前たちも見て
の通りだ。だが、命をかけて己の責任と職務を最後まで全うしようとしたお
前たちに関しては、無慈悲な扱いをするつもりは毛頭無い。以後、我々の
ために尽くしてくれるというのであれば厚遇するし、職を辞する者に対して
も、無理に引き止めたりはしない。さしあたっての生活に十分な金子、また
は物資を用意しよう。三日間の猶予を与えるから、よく考えてみてほしい」

これを聞いて、捕らえられた者たちの心中には驚きと共に、複雑な思いが
渦巻いた。我々の上に君臨していた者たちすべてを掻き集めたところで、
今この目の前に屹立する巨深族の美丈夫一人の、数分の一の価値にも
ならないだろう、と。

なるほど、確かに彼ら巨深族は侵略者であり、彼らのせいで多くの血が流
れたというのは、疑いようの無い事実だ。だが彼らの、相当に荒っぽくはあ
るが、同時にまた公平で、信義を重んずる清新な気風は、自分たちの旧主
たちには、まったくと言ってよいほど見られないものだった。
                      ・
                      ・
                      ・
(下の奴らの“収獲”、一定の分だけは軍備強化とかで必要だから上納させ
るとしても、半分以上はあいつらに褒賞として分配してやれるな……ほんの
少し民生に回しとけば、泥門の奴らももっとおとなしくなるだろ。軍営も簡単
に手に入れられたし、経過はともかく結果だけ見りゃ、やっぱ今回の遠征も
成功だな……)

カケイの、精力的で疲れを知らぬ、怜悧な頭脳は、高速回転を続けていた。

とりあえず、一族の中でも上の方にいる重要人物たちは、泥門城内にある、
多くの御殿に分けて住まわせる──泥門城は“城”と一口に言っても、実際
には広大な敷地内に、国王が国事行為や、謁見式などを執り行うための正
殿を中心として、各政庁及び諸機関、また、国王とその后妃、子女たちを始
めとする王族たちの住まい、即ち宮御殿、加えて使用人たちの宿舎や、よく
手入れされた庭園などが幾つも点在する上に人工の瀑布、湖、小川まで擁
する、事実上の一つの大きな街だった──。そして下っ端の者たちは、堅固
で長い城壁を挟み、これまた泥門城の周囲を満遍無く取り巻くように点在する、
かつての貴族たちの屋敷に、大隊か中隊ごとに放り込む。

住処を追われた者たちとて命さえあれば、本人たちの才覚と努力次第で
これからまた、幾らでも裕福になれよう。彼らの家長たちはその犯した罪
に相応しく、見せしめの意味も込めて、処刑されなければならなかったが、
その係累たちにまで咎を科すのは、時間と労力の無駄というもの。よって
彼らの未来は、彼ら自身の手に委ねることにする。自分には、もっと他に
なすべきことが、山ほどあるのだ。

地方ならともかく、城下に空き地は少なく、またそれらを正統の所有者たち
から強制的に取り上げてまで、巨深族のための新たな建物を建てさせるの
は時間と建材の無駄使いであり、庶民の家々を接収しようとすることと同じ
く、要らぬ反発を余計に招く愚行である。ただし、彼らと同じ無位無官でも、
朝廷の御用商人たちなど、貴族や高官たちと結託して不正投機を行ってい
たような一部富裕層は、上流階級同様、今まで散々良い思いをしてきたの
だし、地方に別荘を所有している者が殆どだから、各々の家から強制立退
きを命じても差し支え無いだろう。奴らの場合、文無しになって路頭に迷うく
らいで丁度、人生の差引きがとんとんになる。

しかし、一般の民衆との衝突はやはり避けたかった。確かに、今後彼らは
自分たち巨深族の支配下に置かれる訳だが、だからと言って虐政を強いる
つもりはまったく無い。その存在だけでも貴重な労働力となり得る上、斥候
たちの報告にあった、農村・漁村に於いてさえ驚異的な高さを誇る識字率
は、皇太子の提案に今は亡き先王が賛同して、潤沢な援助金が下賜され
たことで市井に数多く建てられた、無料で学べる学舎(しかも質素な献立な
がら給食付き)によるものらしく、腕っ節はともかく頭脳労働はからきし駄目
なうちの若い奴ら(特にミズマチとかオオヒラとかオオニシとか……)が、泥
門の民から学ぶことは多いだろう。

(もっとも、寛大に扱ってやれんのは、俺たちに楯突かない限りは、って条
件付きだけどな……)

この辺りは微妙なところだが、疲れ切った民衆には、しばらくの間は武力
による抵抗は不可能だろう。貴族などの富裕層にしても、その中心となり
得そうな人間たちの殆どは最早、この国を去ったか、若しくはこの世を去っ
ている。残された者たちの大部分は、かつての既得権益を失ったことを嘆
くばかりで、その怨恨を何としてでも晴らそうとする気力を持つ、積極的且
つ実行力のある人間は、皆無に等しいと思われる(そのような者がいたの
なら、現在のようなことにはなっていなかった筈だ)。加えて奴らには最早、
手駒も、新たなそれを雇う金も無い。

この際だから、巨深族の者たちは皆、支配層にするとして、それ以外の民
族はすべて、巨深連合の民草として平等に遇するようにし、己の有用性を
積極的に売り込む者たちについては、役に立つと分かった場合には、どの
ような民族・階級の出身であっても、たっぷりと優遇してやることとしよう。

(先王は貴族たちに毒殺されたってことにしておこう。死人に口無しだ。
で、ある時真相を知って、その卑劣さに憤慨した俺たち巨深が仇を討っ
て……と、よし、支配の正当性、半分くらいまで確立。適当な奴に金握
らせて情報源に仕立てておかないとな。あと先王の国葬、国庫の金足
りなくて出来なかったって話だから、寄生虫どもの財産で盛大にやって
やろう。暗君って訳じゃなかったから、個人的にも少し、追悼しておきた
い気持ち有るしな)

それに、恐らくさっきの説得で、少なくとも、三分の一くらいの官吏たち
は残ってくれる筈である。何しろ今は、泥門王国そのものが、半死人の
ようなものなのだ。これまで筆で口を糊してきた彼らが、そうそう似たよ
うな次の仕事を見つけられる訳は無いだろうし、あの細腕では、肉体労
働者として役に立つとはとても思えない。

自分たちを卑下するつもりは無いが、巨深族に文人が少ないということ
は目下、大きな問題となっている。領土が広がれば広がるほど、其所
此所に合わせて様々な施策を考え出してゆかなければならず、そのよ
うな複雑な作業はハッキリ言って、その殆どが武人である巨深族には、
向いていないのである。だからこそ、泥門王国の有能で気骨ある官吏
たちには、ぜひとも自分たちの傘下に入ってほしかった。そうなれば巨
深連合の外征と内政は綺麗に分業され、物事がすべて円滑に進むよう
になれば、巨深族の野望はまた大きく一歩、実現に向けて近付くことと
なる。

(しかし民衆は……それも最前線で戦ってたような奴らは、牙を抜くのに
相当てこずるだろうな……奴らをおとなしくさせるには、やっぱりアイシー
ルド21を……)

ゴン!

ひたすら考え事に熱中していたカケイは、行き止まりの壁に気付かなかっ
た。勢い良く額をぶつけ、蹲った彼の目の前に、火花と星々がチカチカと瞬
く。

「……っっっ………!!!」
「あの、大丈夫ですか……?」

オドオドと少し怯えた様子ではあったが、頭上から聞こえてくる心配そ
うな声。

(子ども……?)

まだ声変わりのしていない、少年の声だった。逃げ遅れた城の下働きでも、
隠れていたのだろうか? 少し痛みの治まったカケイが、ゆっくりと上を見上
げると、そこにあったのは──

“あの時”、自分が捕らえ損ねた小さな小さな小鳥の、琥珀色の双眸。
カケイが、何とかしてもう一度間近で、そして今度こそはこの自分だけ
を映したものを見たいと、切実に願ったあの、愁いに曇りながらも穢れ
てはいない、清幽で優しい瞳だった。
                      ・
                      ・
                      ・
「お前……」

そっと手を伸ばそうとすると、弾かれたように彼は後ずさった。すると、カ
シャーンと何か、金属の落ちる冷たい音が、床に木霊した。

短剣、だった。あの日の戦場で、己の鎧を切り裂いた、アイシールド21の
凶器。カケイは思わず息を呑む。

「お前っっ……!」

少年は咄嗟に短剣に飛びつくと、目にも留まらぬ速さでそれを拾い上げ、
カケイの懐に飛び込んだ。圧倒的な体格の差。少年の細腕は、すぐにカ
ケイの屈強な手で捻り上げられる筈であり、事実、カケイもそうするつもり
だった。しかし、本能的に動こうとしたカケイの手は、寸でのところでその
動きを急停止させた。急停止させざるを得なかった。彼の左胸には既に、
アイシールド21の短剣の鋭利な切っ先が、軽く触れていたのだ。

「アイシールド……21……」
「お願いです、どうか……どうか、この国から、泥門から、出ていって下さ
い……」

戦場で対峙した時の、無言の勇猛果敢さは露ほども感じられない、哀願
の痛々しい響きに、カケイは現在進行形で殺されかけていることも忘れ、
何とも形容し難い罪悪感に苛まれた。

「大陸を除いた国々の既に半分を、貴方たちは手にしたと聞いてます。もう、
十分じゃないですか」
「……いいや、まだだ。まだ、足りない」

それでも小さく息を吸い込むと、冷淡な声を絞り出して(多少の努力が必
要だったが)、小さな暗殺者の懇願を拒絶するとカケイは、剣胼胝で皮の
厚くなった大きな掌で、グッと短剣を握り締めた。

「ひっ……!」

相手は明らかに動揺した。カケイは顔色一つ変えず、血塗れの手でもって
グググ……と、凶器を少年の手から抜き取り、そして己の背後に放り投げ
た。

「あ、貴方、手が……あ、あ、あぁぁぁぁぁっ!!!」

少年の瞳に、今回は前回のように不明瞭なものではない、ハッキリとした
恐怖と哀しみの嵐が巻き起こった。戦場に於いて敵味方関係無く、己の
目の前で息絶えていった者たちの、血と汗と泥で汚れ切った無念の表情
の数々が、彼の脳裏を走馬灯のように駆け巡る。

「お、おい、このくらいの傷、大したことねえよ……お前の方こそ、大丈夫
なのか?」

宿敵に「大丈夫か?」など、間が抜けているとしか言いようが無いが、それ
でもカケイは、この小さな暗殺者を気遣わずにはいられなかった。

落ち着いて眺めれば彼は、やはりどう考えても、せいぜい12歳前後の子
どもにしか見えなかった(もっともこれは、発育の速度が速く、長身の多い
巨深族の基準に照らし合わせての判断だったが)。

(子どもには確かに刺激の強すぎる光景だよな……って、こいつアイシー
ルド21だぞ、俺? こいつにどんだけうちの仲間がやられてきたか……)

首を振り振り、改めて宿敵・アイシールド21と見なそうとするも、顔を真っ
青にしたその少年の、小さな──あまりにも小さな、自分のこの片手だけ
でスッポリと押し包めそうな、そして自分が僅かに力を入れただけで粉々
に砕け散ってしまいそうな、如何にも脆そうな両の掌に、己の、無骨な上
に無残な傷が刻まれた手を取り上げられると、カケイの胸の鼓動は、訳も
無く速まった。

「し、止血……止血しなくちゃ……包帯、ああもう僕の服の切れ端でいい
や、後でしっかり消毒してもらうとして……」
「おいお前、俺のこと殺しに来たんじゃ……」

ねえのか、と、言い終わらぬ内にもう、カケイの手はアイシールド21の粗
末な服地でグルグル巻きにされていた。

「これ、で、よ、し……」

ホッと安心すると同時に、瀬那は至近距離で接してしまった傷口の生々
しさと、むせ返るような血腥ささに、今更ながらこみ上げてくる嘔吐感で、
思わずフラリとよろめいた。

後ろ向きに倒れてゆく最中、背中に、進のように力強い腕を感じていた
瀬那の、グルグルと回る視界に最後に映ったのは、蒼い、蒼い──
                      ・
                      ・
                      ・
「ンハッ♪ 気がついたぁ?」

眼前一杯に広がる、浅黒く精悍だが、とても人懐っこそうな顔。先程から
やけにくすぐったいと感じていたのはどうやら、この男の髪のせいらしい。
日に焼けてかなり傷んではいるものの、動く度にサラサラと快い音を立て
る金髪は、かつて蛭魔の遠乗りに、己の脚をもってお供した都度、目にし
た、黄金色に眩しく輝く麦畑や水田の、秋の豊かな実りを思い出させた。

ほんわかとした心で瀬那は無意識に、見知らぬ相手に対し、ニッコリと微
笑んだ。その笑みの無邪気な愛くるしさにつられ、ミズマチも二カッと明る
く笑い返す。

「ここは……」

見知らぬ金髪の大男に支えてもらいながら、ゆっくりと体を起こした瀬那は、
見覚えのある周囲の風景に、ハタと自分の置かれた状況を思い出した。

ここは泥門城内の客室の一つ。そしてこの男の容貌も、思い出した、戦場
で何度か目にした記憶がある──

「!」

慌てて逃げ出そうとするも、自分の体をガッチリと抱え込んでいる逞しい腕
の力を痛いほどに感じ、瀬那の顔は再び青ざめた。

「い、嫌……放し……」
「ダ~メvv」

金髪の大男は瀬那を抱き締めた腕に更に力を加えると、大きな犬がじゃ
れつくように、瀬那のツンツンと逆立った黒褐色の髪に頬擦りした。実際、
その時のミズマチの気持ちは、飼い主に愛嬌を振り撒く飼い犬のそれと、
何ら違わなかった。アイシールド21の正体、武装を解いたその本来の姿
の、あまりの稚さに驚いたことと、カケイから聞いた話──敵ながら天晴
れな勇気──に感心したこと、何より、泥門はとにもかくにも自分たちの
制圧下に入ったという安心感と精神的余裕が、彼のアイシールド21に対
する敵意を、大分に和らげたのである。

しかし、そんなことは瀬那には分からない。彼に分かっていたのは唯一つ、
自分は今、“あの時”のように、屈強な肉体の檻に閉じ込められており、そ
の頑丈な格子はいつでも自分を絞め殺すことが可能なのだということだけ
だった。

ガチャリ……ギィィ~……

突然、部屋の重厚な扉が開いた。右手に水差し、左手に茶碗を持った、
これまた立派な体躯に、紺碧の髪を持った男が客室内に入ってくる。よ
く見れば、つい先程まで対峙していた巨深族の戦士だった。

「ミズマチ、放してやれ……怯えてんじゃねえか」
「だってすっげぇ可愛いんだも~ん」

ミズマチと呼ばれた金髪の方は不満そうに唇をすぼめたが、仲間の男の
更に険しくなった眼光に、しぶしぶながらも自分を解放してくれた。

「水は飲めるか? 何なら気鎮めの薬湯を用意させてもいいが……」
「どうして……」
「「ん?」」
「どうして、僕を殺さなかったんですか? それとも、すぐには殺さないで、
見せしめのために、城下の広場で惨殺……する、つもり、ですか……?」

恐る恐る、下から見上げるようにして瀬那は、二人の巨深族の巨漢に問
うた。

「……初めはそのつもりだったんだが……」
「や、やっぱり……」

瀬那の体が目に見えてビクビクし始める。

「おいカケイ~、お前の方こそこの子のこと超ビビらせてんじゃんかよ~」

ミズマチは、ブゥブゥとあからさまにカケイを非難した。そして瀬那の頭を
優しく撫でながら、「大丈夫でちゅからね~」と、幼児語で語りかけてくる。
いつもなら即、ミズマチの頭上に鉄拳制裁を喰らわせて、黙らせるカケイ
も、今日はさすが、ばつの悪そうな顔をしていた。

「常識的に考えれば、“アイシールド21”は問答無用で処刑したいし、しな
ければならない。あんたに受けた被害は俺たちが今まで戦ってきた中で、
一番酷いもんだったからな。各地に潜んでるあんたのお仲間たちの闘志
を完全に殺ぐ必要もあるし。けど、激情のままにあんたを殺したりしたら、
売国奴どもの裏切りで苦杯を飲まされた上に、この城を落とされたことで
ようやっと意気消沈してくれたこの国全体が、義憤に駆られて再度、暴発
する可能性が高い。それに何より……」

カケイは心底困ったといった感じで、言い淀んだ。

「ハイハイ、恥ずかしがり屋のカケイちゃんの代わりに俺が言ってあげまぁ
す♪ あんね、幾らちっちゃいっつったって、まさかあのアイシールド21が、
お前みてぇな子どもだとはまさか俺ら、全然思ってなかったのねん。んだか
らさ、殺したりしたら何か、後味がめちゃめちゃ悪くなりそうじゃん?」
「まあ……そんなところだ」

困惑したような表情は相変わらずだったが、二人の言葉にジッと聞き入っ
ていた瀬那は、不意に口を開いて、ポツポツと語り始めた。

「まず一つ訂正させてもらいますけど、僕、もう子どもじゃありません。こう
見えてももう、16です……」
「「は? 嘘だろ?」」
「……まあ、信じる信じないはお任せしますけど。それで、本題ですけど、
僕としては、僕の首を差し出すことで、今生きている泥門の人たちを全員
──前線で戦った人たちや協力者の人たちも、全部ひっくるめてですよ?
彼らを全員、絶対に殺さない、傷つけたり罰したりしないって、約束しても
らえるのなら──貴方たちの中で一番偉い人の名前で保証して、高札を
立ててくれますか? そう確約してもらえるのなら、僕は、黙って殺されて
差し上げます。……ホントは、凄く、怖い、けど……あ、あの、出来れば一
息で楽に死ねる方法でお願いしたいんですけど……駄目ですか? ……
って、ああああお願いばっかりでごめんなさいぃぃぃ……!」

殴られるのではないかと咄嗟に頭を両手で覆い、縮こまった瀬那ではあっ
たが、その脳内では今、恐らくは生まれて初めてはたらかせたのであろう、
打算が、恐ろしいほどの勢いで回転を始めていた。

珠玉 6

2007年07月15日 | 珠玉
「進、進、聞いたか!? 泥門、降伏したって……!!!」
「……知っている」

いつもと変わらぬ静かな表情、そして落ち着いた低い声音。今や名実共に、
ホワイトナイツ随一の騎士にして、王城最強を謳われる身となった進清十郎
ではあったが、当の本人はといえば、「自分は未だそのような栄誉に相応し
い人間ではない」と、頑なに事実を否定し続けていた。

そして実力に裏打ちされた自身の名声に驕ることなく、彼はその日もホワイ
トナイツの鍛錬場に一人残り──本日の全体演習は既に終了、また騎士団
員の各自の特質に合わせて課せられる、個人鍛練の時間帯も疾うに過ぎた
この時刻、役目のある者たちを除いては、大部分の騎士たちは皆、大抵、自
由時間を過ごしているのだが──、黙々と愛用の斬馬刀で素振りをしていた。

両手で一振り、片手で一振り、鋭い一閃が繰り返される度、ヴォォン!と凄ま
じい豪風が起こる。その音はまるで、多大な雑念を必死で振り払おうとする人
間が、腹の底から出す、苦痛の唸り声のようにも聞こえた。

「おっまえ、心配じゃないのかよ!? 瀬那君もいるんだよ!?」

桜庭春人は、温和な性格の彼にしては珍しく、声を荒げた。自分たちホワイト
ナイツとの顔見知りも含まれる、隣国の良き友人たちが現在置かれている危
機的状況に対して、落ち着きを通り越し、冷淡とすら言えるこの進の反応は一
体、どうしたことか。冷徹ではあっても、冷酷無情な男ではなかった筈なのに。

(どうしたってんだよ、いつもあんなに瀬那君のこと気にかけてたじゃん)

紆余曲折を経て、ようやく本当の親友になれたと思っていたのに、そう思って
いたのは自分だけだったのか。親友の中に未だ残されていた未知の領域が、
桜庭には手酷い裏切りに感じられた。友ならば、互いの内心のすべてを相手
に曝け出すべきだなどというのは、単なる理想主義であり、そして今、それを
進に対して求めるのは自分の傲慢に過ぎないと分かってはいるのだが、それ
でも目の前の寡黙な“親友”に対し、桜庭はこれまで彼と一緒に過ごしてきた
中で、初めての失望を感じていた。

確かに、騎士見習いの頃より育まれてきた友情はしかし時として、危うい橋
を渡りかけたこともあった。主に桜庭が一方的に、進のその圧倒的なまでの
強さ──精神的なものも含めた、本当の意味に於いてのそれ──に対して、
羨望や嫉妬が複雑に混ざり合った微妙な感情を向け続けた結果だったのだ
が、最終的にはそれを向上心、克己心といったものに昇華した彼は、自分を
成長させる起爆剤となってくれた進を、今では、以前にも増して、かけがえの
無い友と見なすようになっていた。

進の方はといえば、桜庭に対して特にこれといった蟠りを抱いたことは一度
も無く、二人の仲がぎごちなくなった時でさえ、進の態度は、それまでと何ら
変わるところは無かった。それどころかむしろ、己を理解してくれる数少ない
貴重な友人たちの中にあっては、隣国泥門のある俊足の少年を別とすれば
──彼に対する感情は、“友情”と呼ぶにはどこか、違和感を覚えるものだっ
──、進は桜庭を、他より一等抜きん出た所に位置付けていたくらいであ
る。人付合いの苦手な自分が、先述の少年とどうにか交流を深められるよう
になったのは、桜庭の助言に負う所が多く、脚が速いという共通点だけでは
どうにもならなかっただろうと、今でも感謝しているくらいである。

多少、神経の細い所はあったが、“国一番の美男子”として数多の女性(にょ
しょう)に持て囃されていた頃から、決して驕り高ぶること無く、それどころか、
己がホワイトナイツに入団出来たのは自身の努力に非ず、容貌による名声ゆ
えかと、絶えず気に病んでいた彼(顔の造作なんぞ、戦いの場では何の意味
も持たぬであろうし、第一そんなものを入団条件にしていたのなら、俺は矛盾
した存在であり、そもそも、ホワイトナイツの勇名の長きに渡る存続が難しくな
っていたと思うのだが)。

だが、その懊悩も、何がきっかけとなったのかは知らないが、ある時を境に
吹っ切れたようで、それからの桜庭はひたむきに騎士としての修行に励んで、
メキメキと頭角を現すようになり、その実力は努力にどんどん正比例していっ
た(俺も、もっともっと精進しなければ)。しかしだからといって、彼のその人当
たりの良さが失われることはなく、良識家なのも相変わらずであった。

長きに渡り苦楽を共にしてきたホワイトナイツの仲間として、また、世事に疎く、
細かい物事を大の苦手とする進の、常識指南役兼歯止め役として、桜庭春人
が進清十郎の人生に欠かせぬ人物であるとは、進自身も含めて、誰しもが認
めるところであった。しかし──

「まったく……今度という今度こそは、お前って人間が本当に分からなくなっ
たよ!」

生来の優しげな雰囲気も、常日頃の朗らかな笑顔──特に小さき者たちに
向けられていることが多い──も、今の桜庭からはその片鱗すら見出すこと
は出来なかった。

「……お前は王城ホワイトナイツの騎士なのか、それとも泥門の民なのか?
政事(まつりごと)は我々武人がとやかく口を出すべきものではない、まして
──

ましてや、己が属する国のことでなければ、尚更だ。

淡々としていながらも、最後の方で微かに感じ取れた苦渋と痛切の響きに、
ようやく桜庭も落ち着きを取り戻す。

──ごめん、キツイ言い方して悪かったよ」
「気にしていない」

そうして二人の間に沈黙が流れる。周囲の物音の大部分は桜庭の意識から
自動的に遮断され、彼には進の荒い呼吸と素振りの音だけが、やけに大きく
聞こえた。

(……俺、馬鹿? そりゃ確かに進は時々、石像か何かと勘違いしたくなるよ
うな朴念仁だけど──“あの子”に向けられてたあいつの視線は、いつだって、
あれ以上は絶対に無いだろうってくらい、優しくて、愛おしげで、人間味に溢れ
たものだったのに。進の内面は俺なんかよりもずっとずっと、グチャグチャに混
乱してるんだ。王城の騎士としての誇りと立場、そして、瀬那君への想いの間
[はざま]で……)

“Glory on the kingdom!”

国を統べる国王は確かに存在するが、ホワイトナイツの騎士たちが忠誠を誓う
のは、王城国という“国家”と、その国民に対してのみである。国土と民、双方
の繁栄と幸福を死守するという義務を負う彼らは、決して私情に流されてはな
らない。何よりもまず、その責務を全うすることが求められるのだ。一度入団す
れば死ぬまで脱退は認められず、所帯を持つことも許されないのは、彼らの責
任の重大さを象徴する一端であった。
                       ・
                       ・
                       ・
民衆を中心として構成された義勇軍の、予想外の善戦により、一時は巨深
族の侵攻を撃退出来るかと思われた泥門王国。その戦いの行方は、既に
巨深の猛攻の前に屈して、彼らの支配を受け入れた国々に於いても、いず
れ自国が同様の道を辿るのも時間の問題かと、戦々恐々としていた残り少
ない国々に於いても(何しろ、自分たちの住む島々を取り囲む“海”を、一番
よく知っているのは彼ら、巨深族なのだから!)、厳重な鎖国体制によって、
情報の伝わってこない神龍寺を除いては、大国の西部と王城ですら、興味
津々に噂されていた。だが、噂の的であった泥門の、国家的規模且つ民衆
水準での奮戦はしかし、最終的には報われることなく──その決着は、双
方の勇猛果敢な戦士たちの命を賭した戦いの勝敗に非ず、人の心の闇より
生まれ出でた謀略によって、つけられたのだった。

(友好を求める巨深使節団に対し、私利私欲を貪らんと、朝廷の許可無く刃
を向け、王国を揺るがせし叛徒どもに告ぐ! 即刻武器を捨て、潔く法の裁
きを受けるべし! 盟友たる巨深軍の諸君らはこれなる賊軍を討ち果せし後、
泥門城への御出でを願う!)


泥門王国の国旗と、降伏と同意義の白い休戦旗を左右に靡かせて、金ぴか
の衣装に身を包んだ、大層血色の良い、肥満気味の男が一人、突如として、
甲高く耳障りな叫び声を上げながら戦場を駆け抜けていった──つやつやと
した毛並みの上に見事な馬具を付けた、義勇軍の厩舎では絶対にお目にか
かれないような、元気の良い馬に跨って。

ヴワァァァ──!!!

もともと巨深軍が押していたこともあって、それを機に、彼らはなだれを打つか
のような勢いで泥門軍の掃討を開始した。予想外の出来事に総崩れとなって
しまった泥門義勇軍の約半数近くは、そうして討ち取られるか、或いは空隙を
ついて捕虜とされてしまい、英雄“アイシールド21”を始め、命からがら落ち延
びることの出来た者たちとて、その心身に負った傷の大きさ、深さ、そして量は、
計り知れないほどのものだった。
                        ・
                        ・
                        ・
「終わっちゃったね……」
「ああ、終わっちまった……」
「グス、グス……終わっちゃったぁぁぁ……」
「フゴォォォ……」
「「「ハァァァ……」」」
「アリエナィィィ……」

似たような慨嘆、哀号が各処から、途切れること無く細波のようになく聞こえ
てくる。初めの頃には怒涛のように叫ばれていた激しい憤怒も、やがては深
い疲労のせいもあり、徐々に消えていった。

命を賭して戦い、多大な犠牲を払い続けながら、愛する祖国と愛する者たち
を守ろうと奮戦した結果、“叛徒”、“賊軍”、“ならず者の集団”などと言う汚
名を着せられようとは! 

義勇軍の兵力も補給物資も既に底を突いており、何より彼らは、国の行く末
に対し、自分たちよりも遥かに重大な責任を負っていた筈の上つ方によって
“売られた”という屈辱、憤激、絶望のあまり、戦意はおろか、生きようとする
気力さえ失いかけていた。

重く沈みきった空気の中、嘆いても最早どうにもならぬことと分かってはいて
も、瀬那は思い返しては、後悔せずにいられなかった。

(あの時、もし僕が……あの大きな巨深の人を、討ち取れていたら……)

あの時、一度は確かに死を覚悟した瀬那だった。大鎌の代わりに剣を振り翳
した蒼い死神の、冬の海の色をした冷たい瞳が、最後の最後に放った光には
多少、不可解なものがあったが、死ねば何もかも意味を成さなくなると思考を
放棄し、せめて最期はと、白亜の騎士に再び想いを馳せたあの時──
                      ・
                      ・
                      ・
終戦と事実上の降伏を叫びながら、尚且つ抜け目無く新たな支配者たちに
媚を売る耳障りな声と、早馬の嘶き、そして蹄が地面を蹴りつける激しい音
はだがしかし、あの時の自分の“心”はさておき、この世を離れる寸前の状
況にあった肉体にとっては、確かに救いとなった。

突然の異常事態に、戦場に流れていた時間が等しく止まった一瞬から、刹
那の差ではあったが、いち早く意識を取り戻したのは瀬那だった。彼に覆い
かぶさっていた──見ようによっては瀬那を、この日の雨だけでなく、あらゆ
る意味で“冷たい”、過酷な現世から保護しているようにも見えたかもしれな
──、“死”の蒼き化身すら、一体全体、何が起きたのかと混乱したようで、
瀬那の小柄な身体を地面に縫い付けていたその屈強な力が一瞬、緩んだ。
瀬那にとっては、その一瞬だけで十分だった。

ガッッ!

「!?」

巨深の戦士たちが身に着ける鎧は、機動性を重視して作られた軽装備のも
のが殆どである。彼らは、自分たちの巨躯の頑強さに自信を持っているから
だ。しかし今日この日のカケイにとっては、それが逆に裏目に出てしまった。
瀬那は普段こそ、無駄に痛めてはならじと使わないが、光速の速さを持つ両
脚の筋力はその実、腕力の非力さを補って余りあるものなのである。膝蹴り
を食らった鳩尾の痛みに、カケイが顔を顰めた時にはもう既に、小鳥はカケイ
という名の鳥籠から飛び立っていた。

「待っ……」

戦士としての本能と経験から、あの速さには追いつけないと分かってはいた
が、カケイがそれでもなお、手を必死になって伸ばしたのは、相手の首級を
求めてのことではなく、先程の琥珀色の瞳の中に垣間見えた哀しみの理由
に、ひどく興味をそそられたからだった。

太古の動植物でも昆虫でもない、その内包物──瞳の奥にあった不鮮明な、
自分ではなかった人影。あれは一体、誰だったのだろう? 

アイシールド21の生殺与奪の権を己の手中に収めていたあの一時、奴の全
世界は当然、この自分一人だけであるべきだったのに。

実質上の、嫉妬だった。
                       ・
                       ・
                       ・
「さささ、巨深の皆々様は上座へ、上座へ……」
「すぐに戦勝を寿ぐ祝い酒をお持ち致します故……これ、女官ども、早う
せぬか!」
「いやいや、近頃国内を荒らし回っておった盗賊ども、何しろ人数が多過
ぎる上に、下賤の者どもが何を勘違いしおったか、“救国の軍隊”なんぞ
と抜かしよりましてな……」
「賊に協力する輩が後を絶たず、ほんに手を焼いておったのです」
「なれど、巨深の勇者さま方が……」
「こうして再び、平和をもたらして下さった」
「実に有難いことで御座いますなあ」
「丁度、我が国は先王崩御から間も無く、加えて暴れ者の皇太子はまた
もや流浪の旅路にあり……」
「あの皇太子が戻ってきたところで、国は再び乱れるだけじゃろうて」
「如何であろう、巨深族にこの国を治めてもらうというのは?」
「おお、それは良い!」
「妙案じゃ!」
「はて、一族を統べておられる御方はどなたか……」
「我ら忠君愛国の人士たち、粉骨砕身の覚悟でお仕え致しましょうぞ……」

権力と贅沢の腐臭にまみれた、阿諛追従の嵐。ようやく泥門城を手にした
カケイを始め、巨深族の面々ではあったが、彼らは自力で得た訳ではない
勝利の喜びなど、露ほども感じていなかった。むしろ攻略に苦労し、汗と血
と泥にまみれながらも、無限の可能性を秘めた未来を目指し、脇目も振らず
に邁進していた頃の方が、彼らにとっては遥かに充実して時間だっただろう。

高い身分と、それに相応しい待遇を与えられていたにもかかわらず、長きに
渡って地位に伴う責任を放棄し続けてきたばかりか、今度は自国民を敵方
の自分たちに売り渡してまで、甘い汁を吸い続けようとする、羞恥心の欠片
も無い“貴顕”たちの厚顔無恥な態度には、巨深の誰しもが吐き気を催して
いた。人の好いあのコバンザメですら両眉を急角度に吊り上げ、顔を顰めて
いる。彼の智略と武勇の程はさておき、一族の中心であるという自覚と、責
任感に関しては、コバンザメはそれなりにしっかりしたものを持っており、だか
らこそ一族の誰からも慕われているのだ。

(((((((気色悪い……)))))))

下卑た愛想笑いを浮かべ、揉み手をしながら、「何か役に立てることは無い
か(新たな地位と役得をくれ)」と、彼ら“だけ”が誇る由緒正しい血統とやら
いうもの以外には──それですら特に有用な使い道がある訳ではなかった
──、何の取り得も無いくせに、せわしなく自分たちを売り込んでくる売国・
棄民の恥知らずどもに対し、カケイは窓の外を見遣りながら、氷よりも冷たく、
だが内心には炎よりも熱い怒りを燃やしながら、「では早速一つ、頼みたい
ことがある」と言った。

「はは、何なりと……」
「目障りだ、滅えてくれ(きえてくれ)」

カケイの言葉が終わるか終わらぬかの内に、察しの良い巨深のつわものた
ちの、それぞれの得物が唸りを上げた。

珠玉 5

2006年09月07日 | 珠玉

いいか、仕留め損ねたら速攻で逃げろ。
やばいと感じたら即、退け。
深追いだけは絶対にすんじゃねえ。
そして――


いつも最後に、武蔵さんは何て言ってたっけ?

瀬那は戦場となった浜辺を疾風の如く疾走し、手にした短剣で次々と敵の急所を
貫き、或いは掻き切り、血飛沫を浴びながらも、頭の片隅でぼんやりと、国一番の
匠の言葉を反芻していた。

もうどれだけ殺したのか、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程で、体の感覚はとうの昔
に麻痺していた。それでも敵兵を目にすれば、本能的に体は動く。ましてや相手が、
自分の大切な者に手をかけようとしているのであれば、尚更。

「モン太っっ、危ない!」
瀬那の脚は既に限界だったが、親友の危機に際し、彼は瞬間、光速の世界に達した。

キン!
ザシュッ!!!


剣を振り上げたまま、砂の上にドウと倒れる巨深兵。

「モ、モン太……大丈夫?」
ゼイゼイと息を切らせながら友の安否を気遣う瀬那に対し、幼い頃からの気の置け
ない親友は顔色こそ蒼ざめたままだったが、ニカッと明るく笑って答えた。
「おう!助かったぜ瀬那、あんがとな!……ってオイ、お前の方こそ大丈夫なのかよ!?」

光速の世界に身を置いていられるのはごく短時間。もともとの疲労もあって膝が
笑っている瀬那に、モン太は慌てて手を貸す。
「アハ……そろそろ引き上げないとね……」
親友に心配をかけまいと、苦笑を浮かべる瀬那。だがその時――

「瀬那っっ!」
モン太が必死の形相で叫んだ。先程瀬那が倒した筈の巨深兵が、よろめきながら
も、悪鬼のような形相で、自分を死の淵に追いやろうとした憎き少年に対し、今まさ
に剣を振り下ろそうとしていたのである。振り返った瀬那が愕然と目を見開いたその
瞬間――

ドシュッ!!

大きく瞬きをし、再び砂上に倒れる敵兵。慌てて後ろに飛びのいた瀬那と、元の
位置から更に後ろへと後ずさったモン太は、男の背中に、一本の矢が深々と突き
刺さっているのを発見した。

「お前ら、ボケッとしてんじゃねえ!引き上げんぞ!!!」
矢の射手が、弓を手早く背中の矢筒に引っ掛け、スラリと腰に帯びた剣を抜き、
敵の敗残兵を蹴散らしながら、馬で駆け寄ってくる。
十文字一輝。泥門王国の中堅貴族・十文字家の一人息子である。

巨深との戦が始まるまでは、厳格な父親に似ぬ放蕩息子として、不名誉な噂
ばかり囁かれていた十文字だったが、もともとの頭の回転の速さと、途中で自
主退学したとはいえ、王立士官学校に学んだ経験は現在、瀬那の存在同様、
義勇軍にとって無くてはならないものとされている。

「あ~、また息が止まるかと思ったぜ!十文字、あんがとな!!」
「お互い様だ。それより瀬那は……」
気遣わしげに自分を見やる十文字に対し、心配をかけまいと瀬那は、兜から僅か
に覗く目元と口元に微かな笑みを浮かべた。
「ん……大丈夫。心配かけてごめんね?」
「ならいーんだけどよ……」
照れて仄かに赤くなった顔を見られないよう、そっぽを向きながら、十文字はその
右頬の特徴的な十字傷をポリポリと掻いた。

十文字と瀬那の初めての出会いは、お世辞にも友好的なものとは言えなかった。
あろうことか気弱そうな瀬那を彼は、悪友の黒木、戸叶らと共に恐喝しようとして
いたのである。そこへ「偶然」通りかかった皇太子殿下に、十文字ら三人は、悪名
高い“悪魔手帳”――噂によればそれには、国中の人間のありとあらゆる弱味が
書き込まれていると言う――を振りかざされ、敢え無く屈服させられたのである。

当初は屈辱に歯を噛み締め、隙あらば反抗しようと機会を窺っていた三人だったが、
傍若無人の裏に隠された蛭魔の深謀と、他の王侯貴族には見られない柔軟な思考
に徐々に気付かされ、渋々ながらも次第に彼の指示に従うようになっていった。

「十文字、今日はこれでおしまいなんだろ?ちょうどよかったぜ、これ以上は瀬那に
負担大きすぎるかんな。俺は自分で走ってくからよ、瀬那連れて先に戻っててくれ」
モン太が瀬那をグイと十文字の方へ押しやる。十文字は慌てて馬を降り、瀬那に
駆け寄った。自分より一回り以上も大きな体躯の十文字に支えられ、ホッと気が抜け
たのか瀬那は、縋りつくように彼の腕の中へ倒れこんだ。

「迷惑かけて……ごめ……」

呟きの最後はかすれて誰にも聞き取れなかった。十文字は瀬那を、細心の注意を
払って馬上に抱え上げると、続いて自分も静かに騎乗した。片手でしっかりと瀬那
を抱きかかえ、もう片方の手で手綱を引くと、速過ぎも遅過ぎもしない速度を馬に
命じる。

祖国の存亡も生家の行く末も、本心を言えば、どうでもよかった。皇太子の蛭魔に
対しても、それなりに尊敬の念は抱いているが、命を賭してまで忠誠を尽くそうとは
思っていない(大体、彼は現在、再びの諸国放浪中である)。黒木、戸叶の二人と
一緒なら自分も、各地を流離う生活をしてみようかとまで思っていた。

瀬那の柔らかな微笑みに、いつしか淡い想いを抱くようになるまでは。

「お前に戦場なんて、全然似合わねぇよ……」
腕に感じる瀬那の温もりと、今、彼が自分の腕の中で意識を失っている理由。
沈みゆく夕日の逆光は、十文字の哀歓の入り混じった複雑極まりない表情を巧み
に隠していた。
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「まーた無理しやがって、ったく……」
呆れたように呟きながら、武蔵は瀬那の武具の手入れを始める。彼の本職は大工
なのだが、生来の器用さ故か、木工以外の物作りやその設計・維持・修繕に関して
も天才的な手腕を示し、今では武具・馬具作りから鍛冶仕事までこなして、義勇軍
の中で大層重宝がられていた。

「そうよ、瀬那!あなたまた無理してきたでしょ?自分の身を第一にって、いつもあれ
だけ言ってるのに……ああ、またこんなに傷をこさえて!!!」
怒りと悲痛がない交ぜになった叫びを上げた若い女性はまもり。富裕な商家の一人
娘だが、弟のように可愛がっていた瀬那が義勇軍に志願したことを知って心配の余り、
自らも軍に身を置くことを決意した。女ながらもその高い事務処理能力をもって今や、
義勇軍の後方支援部隊は彼女無しでは成り立たないとまで言われている程の才色
兼備である。

「武蔵さん、まもり姉ちゃん……いつも心配かけてごめんなさい……」
おとなしくまもりに傷の手当をされている瀬那は、申し訳なさそうな笑みを浮かべ、
二人に謝罪した。それを見た彼らは思わず黙り込んでしまう。

武蔵もまもりも分かってはいるのだ。瀬那に、仲間を見殺しになど出来る筈が無い
と。それでも二人は願わずにはいられない。何を犠牲にしても、瀬那にだけは生き
残ってほしいと。そして今更ながら、前線では役に立てない自分たちを歯痒く思う
のだった。

まもりは女性であるから当然として、武蔵は以前、蛭魔の私兵隊に身を置いていた。
だがある時、不慮の事故で片足に怪我を負い、幸い歩行には支障無いと診断された
ものの、戦闘は出来ない体になってしまった。以来、彼は実家の家業に専念するよ
うになったのである。

その武蔵が、「必ず生きて帰ってこい」と、精魂込めて作った戦装束に身を包み、
やはり彼によって、小柄な瀬那に扱いやすく、尚且つ疾走の邪魔にならぬようにと
素晴らしく軽く、だが切れ味は抜群に仕上げられた短剣を握り締め、瀬那は今日も
戦場を駆け巡ってきた。

“アイシールド21”

頭部の保護のために兜を被って素顔を隠した瀬那の姿は、泥門に古より伝わる伝説
の英雄と重ねられ、かつての気弱な少年は今や、泥門の民すべての希望の星と目さ
れていた。だが現今に於けるその英雄の、人殺しに対する罪悪感による凄絶な苦しみ
を知るのは、ほんの一握りの人々だけである。
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「アイシールド21か……腑抜け貴族どもなんぞどうとでもなるが、奴を討ち取らねえ限り、
泥門の民衆は降伏しないだろうな……」
何より、これ以上の長期戦を続ければ、これまでに占領した国々に抑えが効かなくなっ
てくるかもしれない。柱谷や賊学といった補給基地が無くなってしまえば、泥門攻略は
夢のまた夢となってしまう。巨深一の智将は額に手を当てて深く溜め息をついた。

「だぁかぁらぁ~!俺が行くっつってんじゃん!!!俺、アイシールド21と戦ってみてえよ、
なあカケイ~!」
「駄目だ、いつも言ってんだろミズマチ。お前は切り札なんだ。そう簡単には出せない」
強すぎて、下手に出陣させると味方にまで被害出るしな……という呟きは、心の中に
収めておいたカケイだった。

こと軍事に関しては素人ばかりの、寄せ集めに過ぎない泥門の義勇軍に何故これほど
苦戦するかといえば、ある一人の戦士の活躍が、彼らを勇気付け、その士気をこれ以上
ないところにまで高め上げているからだ。
アイシールド21。
名前だけなら幼い頃、大人達が聞かせてくれた昔語りで自分も知っている。それどころ
か実は、密かに憧れていた時期もあったくらいだ。自分も、彼のような強い男になりたいと。

幼児期のたわいも無い夢を思い出し、人知れずそっと微苦笑すると、カケイは表情を
引き締めて、一族の長・コバンザメに向かって言い放った。
「次の戦、俺が出ます。よろしいですね?」

軍議に集った巨深の猛者たちがどよめく。コバンザメは一族の長と言えど、実際には
その穏和な気質と人当たりの良さから選ばれた、いわば象徴的存在。巨深の実質的
指導者はカケイだ。その彼が、自ら出陣するという。

「カケイ先生、すんませんっっっ!俺らが不甲斐ないばっかりにっっっっっ!ですが
もう一度機会を下さい!次こそは必ずやあのにっくきアイシールド21をこのオオヒラ
ヒロシがっ!何としても討ち取ってまいりますっっっっっ!!!」
「発言の度にいちいち怒鳴らなければ気が済まないのかい、君は?まったく……
だが、わざわざカケイ先生御自身が出陣されるというのは、確かに僕も実に勿体
無く且つ申し訳無いと思っていたところだ。カケイ先生、この熱血馬鹿だけでは
心許ありません。僕も行ってまいりますので、先生はやはり吉報をお待ち下さい」

円座から立ち上がり、拳を握り締め滝の如く涙を流しながら絶叫した男はオオヒラ
ヒロシ。やや気取った感じの物言いでオオヒラヒロシを嗜めた眼鏡の男はオオニシ
ヒロシ。巨深一族の中でも一、二を争う巨漢同士で、昔から色々なことで張り合っ
てばかりいる。だがその強さは双方とも折り紙付きである。カケイに狂信的なまで
の尊崇の念を抱いている点でも共通していた。しかし――

「俺はこのところ作戦の立案ばかりで実戦に役立ってねえし、その作戦も失敗続き
だ。オオヒラ、オオニシ、巨深の信条は?」
「「行動と結果こそすべて、です……」」
首を左右に振って二人のヒロシの申し出を拒絶したカケイ。二人のヒロシは揃って
項垂れた。

巨深一族は口先だけの輩を認めない。巨深の誰もがカケイに絶対的な信頼と尊敬
の念を寄せているのは、その卓抜した智略もさることながら、一兵卒と同じ立場で
戦場に立つことを厭わず、率先して血飛沫を浴びてきたことによる部分も大きい。

「ンハッ♪じゃあ俺カケイの援護ってことなら一緒に行ってもいいだろ?相手はあの
アイシールドだしよー、ほらカケイがいつも言ってるあの……そうそう、お供えする
なら瓜と梨?」
「備えあれば患えなし、だろ……」
呆れ顔のカケイだが、内心ミズマチの意見にも一理あると思った。コバンザメを見や
ると、彼もやはり、珍しく真剣な顔でコクコクと頷いていた(カケイの視線に気付くと
慌てて、いつもの、場をとりなすようなニコニコとした笑みに表情を取り繕ったが)。
「そ、そうそう、備えあれば患えなし、だ。カケイ、ミズマチ、オオヒラ、オオニシ四人
の“ポセイドン”が出るなら、次は間違いなく巨深が勝つね!俺もその案いつ言おう
かって迷ってたけど、ミズマチに先に言われるとは思わなかったな~アハハ……
巨深ポセイドン最強!キョイサー!!!」
「「「キョイサー!!!!!!!!!」」」

久々の出陣にミズマチは浮かれまくり、二人のヒロシは尊敬する「カケイ先生」と共
に戦場に立てるとあって、感激の余り泣き出す始末。周囲を見回してみれば他の
者たちも、巨深一族が崇め奉る偉大な海神の名を冠した最強の陣形を久し振りに
見られるとあって、いやが上にも興奮している。

(まあ、士気が高まるのは悪いことじゃねえしな……)
カケイも心を決め、よく通る声で宣言した。
「長の決定だ。次の戦、“ポセイドン”でいく!」
カケイの宣言に一族の者たちは皆、津波のような鬨の声を上げ、賛同の意を示した。
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決戦の日は雨気を含んだ花曇りだった。どんよりとした鉛色の空は、またもや人の
命を奪いにゆかねばならない時が来たと、ただでさえ沈んでいる瀬那の気分を更に
重くする。柔らかな真綿のような湿気は、例年のこの時期ならば、泥門の農地に恵み
の雨を約束してくれる有難いものだったが、この戦渦の最中には、水と一体になって
戦う巨深の軍を更に有利にするものでしかなく、瀬那はその湿気に、ゆっくりじわじわ
と首を絞められているような心地さえしていた。

(それでも……)

不安げに空を見つめながら、瀬那は拳を握り締める。

(それでも、蛭魔さんがいない今は、何とか僕たちで踏ん張らなくちゃ……泥門の人
たちのためだけじゃない、僕自身のためにも……)

ツッと、胸の辺りに指を這わせる。進がくれた佩玉。戦いの最中にあっても手放したく
ない、けれど血で穢すのは忍びないからと、今では細い銀の鎖を通して首から下げ、
鎧の下に隠して護符代わりにしている。

(進さん……)

王城は現在の泥門の危機に対し、傍観の姿勢を貫いている。非情ではあるが、それ
が政治というもの。仮に泥門に援軍を送ったところで、門閥貴族の牛耳る泥門から
王城が得られるものといえば、民からの心からの感謝の念だけだ。援助金や救援物
資を送ってもそれは同じこと。一部の人間に横領されるのが落ちである。下手をすれ
ば泥門と巨深の戦に気を取られている間に、隙を突かれて神龍寺に攻め込まれる
可能性だとてあるのだ。

そしてそれは西の西部にも同様のことが言える。故に東西の隣国からの支援は初め
から期待出来ぬと、外交にも携わる宮廷書記官・雪光から予め知らされていた泥門
の民は、それも仕方の無いことと、隣人たちをさして憎みはしなかった。

(この戦が終わったら、また会いに来てくれますよね?)

瀬那は王城の方角を向き、目を閉じて深く息を吸い込み、そして吐き出す。
目蓋の裏に浮かぶは、誰よりも強く気高い白亜の騎士。
耳に甦るはかの騎士が自分を呼ぶ、重厚で心地良い低音の響き。
再び目を見開いた時、瀬那の心に最早迷いは無かった。
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アイシールド21の活躍にもかかわらず、その日の泥門側の戦況は思わしくなかった。
アイシールドを始め、モン太、十文字、黒木、戸叶、皇太子蛭魔の側近中の側近・
栗田とその一番弟子を自任する小結、鈴音の兄・夏彦ら泥門義勇軍の主戦力が次々
に敵を屠っていっても、その倍以上の泥門兵が、巨深側のたった四人の戦士によって
冥途へと導かれてゆくのだ。

「どどどどうしよう、みんなぁ~!こ、このまんまじゃあ……」
その頼もしい巨体にもかかわらず、栗田はもう半泣きだ。小結は何やらフゴフゴと、
彼ら師弟の間でしか通じない言葉で懸命に師匠を宥めている。

「アハーハー☆この僕がいる限り何も心配することはありませんよ☆」
「「「この馬鹿が自信満々ってことは、今日は相当やべぇな……」」」
持ち前の柔軟性で本人曰く「華麗に」敵の攻撃を回避し(実は無駄な動きも相当
多いのだが)、その反動で攻撃に転じてそれなりの戦果を挙げている夏彦に対し、
十文字らハァハァ三兄弟――義兄弟と見なされての呼び名だが、本人たちには
甚だ不評である――は呆れたように突っ込みを入れる。いつもなら戦場の至る所
に分散し、各所で華々しい戦果を挙げる彼らが、このような会話を交わせるほどの
至近距離にまで、今日は巨深に追い詰められていた。

「どうするよ、瀬那!?」
「見たところ、あの目つきの鋭い黒髪……恐らくは奴が、今回の作戦の中心だな。
あいつだけでも何とか出来れば……」
モン太の問いと十文字の冷静な戦況分析に、一拍置くと、瀬那は勇気を振り絞って
言った。

「僕が、彼を、討ち取ってくる」

言うが早いか、周囲が止める間も無く、瀬那は光速の世界へと旅立っていった。
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「ンッハァ!なぁ~んだ、別に泥門大したことねえじゃん?やっぱ俺をもっと早く
出しとくべきだったんだよ~」
「言葉を慎みたまえ、ミズマチ君。今日の戦況が素晴らしいのはこれすべて皆、
カケイ先生のご指揮の賜物だ。自惚れも大概にしておくんだね」
「腹が立つが今回だけは俺もオオニシと同意見だ!カケイ先生の凄さにはこの
一番弟子オオヒラ、感服の至りでありますっっっ……!!!」

船の上と変わらぬやりとりを、緊張感の欠片も無く戦場で繰り広げる仲間たちに、
カケイは呆れつつも、自分を含めたこの四人の組み合わせはもしかすると、王城・
西部・神龍寺の三大国にも通用するのではないかと、微かな期待を抱き始めていた。
だがすべては、泥門を攻め落としてからの話である。

「おい、お前ら、そろそろいい加減に……」
カケイが注意の言葉をすべて言う必要は無かった。いつの間にかミズマチ、オオヒラ、
オオニシの三人はぴたりと口を閉ざし、緊張した眼差しをある方向に向けていた。
つられてカケイも目線を同じ方向に向ければ、彼方に渦巻く土煙。
「ンハッ、やっとお出ましぃ?」
面白がるような表情と軽い口調に反し、ミズマチの全身を恐ろしいまでにピリピリと
した空気が包む。オオヒラ、オオニシも臨戦態勢に入っていた。

「最初にも言ったように、基本的には俺とアイシールドの一騎打ちだ。お前らには
その間、周囲の雑魚の始末を頼む」

カケイの指示にオーケ~イ!と余裕たっぷりに答え、後方へと移動するミズマチ。
二人のヒロシもそれぞれの配置についたことを確認すると、カケイ自身も静かに身
構えた。
この一戦が、すべての勝敗を決する。
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負けられない!勝たなければ!

決意の程は双方とも同じだった。実力も種類こそ異なれ伯仲していた。

ザンッッッ!!!

まずは瀬那の短剣の一閃が、カケイの鎧を切り裂き、その鍛え抜かれた体に傷を
負わせた。しかし百戦錬磨のカケイにとってその傷は、致命傷とはなりえなかった。

「!」
地に倒れ伏さぬカケイを見て、渾身の一撃が失敗に終わったことを悟った瀬那は、
すぐに退却しようとした。しかしその反転を、カケイの周囲を取り囲むようにして他の
泥門兵を蹴散らしていたミズマチ、オオヒラ、オオニシ三人の即席“ハイ・ウェーブ”
――“ポセイドン”に次ぐ威力を持つ陣形で、本来はミズマチではなくカケイが加わる
ものである――は、許さなかった。

「つっかまっえたっ♪」
「カケイ先生考案の“ポセイドン”と“ハイ・ウェーブ”から逃れられると思うな!」
「今日こそ決着をつけさせてもらうよ」

バチィィィン!!!

人間の「高波」に叩き落とされて尻餅をついた瀬那を、そのままカケイが砂浜に
押し倒した。勢いで兜が、瀬那の頭部から転がり落ちる。
「これで終わりだ、アイシールド21!」

瀬那は覚悟を決め、心の中で進に謝罪した。

進さん――
ごめんなさい――
約束は僕の方が先に破っちゃうみたいです――

絶体絶命の窮地にもかかわらず、その視線はカケイの瞳を真っ直ぐに貫いて、
遥か遠くを見ていた。カケイは戸惑い、剣を握った手を一瞬、静止させる。相手が
想像していたのとはまったく違う、脆弱そうな少年だった驚きもさることながら……

その双眸の何と優しく清らかで、そして哀しいことだろう――

ザァァァ…

折しも降り出した雨が、戦いの興奮で過熱気味になっていたカケイの体を冷やして
ゆく。大柄な自分にのしかかられていることで、雨除けの下にいるのと同じ状態の
少年には、自分の髪や頬を伝う水滴が、ポツリポツリと規則的に落ちてゆくだけだ。

(殺さなければ、この子を……)
だがカケイは躊躇っていた。

死にたくない、死なせたくない。
自分ではない誰かのために、絶ちがたい生への執着。
彼らの代わりに空が泣く。

珠玉 4

2006年05月28日 | 珠玉
進と瀬那が初めて出会ったのは五年前に遡る。一年に一度行われる、泥門国王
の誕生祝い。その年も神龍寺を除いては、東西の隣国・王城と西部、及び南北の
海洋諸国家から、絢爛たる祝賀の使節団が泥門を訪れていた。

王城からの使節団には護衛として(実は大国の威容を誇示するためでもあったの
だが)、精鋭部隊・ホワイトナイツが必ず随行してくるのが慣例となっていた。
ホワイトナイツへの入団可能年齢は15歳からと定められていたが、進の突出した
才能と実力は特例を認められ、騎士見習いとしてその年から、護衛の一員に加わ
ることを許されていた。経験を積み重ねることでその力は更に確かなものとなり、
必ずや王城に多大な貢献をするであろうと、12歳の幼さにして進は、祖国の期待
を一身に背負っていたのである。その期待に背くことなく、彼の強さへの探求心は、
飽くことをまったく知らなかった。
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                        ・
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その年も、各国使節団のそれぞれに特色ある行列を一目見ようと、物見高い群集
が押し合いへし合いしていた中で、小さな体を何度も健気にジャンプさせていた瀬
那に、さすがに国の公式行事とあって帰国していた蛭魔が何気無い一言を放った。

「そんなにあいつら見てぇんなら、うちの城の謁見式来っか?」

進と瀬那の出会いを決めた、運命の一言だった。
                        ・
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本来なら拝謁の儀に列席することなど到底叶わぬ庶民の瀬那だったが、皇太子
という公の地位とは別に、「地獄のプリンス」という異名で、国内外問わず恐れら
れる蛭魔の、ほんの一言、二言によって、小柄で幼い顔立ちの少年は、あっと
いう間に皇太子付きの侍従の一人として、彼の傍近く控えていることになった。

王城と西部の使節団は毎年、泥門国王の誕生祝賀式典に於いて、交互に最初
の謁見を賜っており、その年は王城の番であった。王城の使節団は誰しもが威厳
を備え、立ち居振る舞いも作法に適う見事なものであったが、その中でもとりわけ
瀬那が目を引き付けられたのは、年の頃、自分より少し上といった黒髪の少年だ
った。

少年と呼ぶにはいささか貫禄があり過ぎないでもなかったが、周囲を堂々たる体
躯の騎士達に囲まれながら、まったく物怖じしていないその落ち着きぶりは、瀬那
に知らず知らずの内に、畏敬の念を起こさせていた。

あの人、誰なんだろう……?

瀬那の表情を目敏く読み取った蛭魔が小声で簡潔に説明する。
「ありゃ、ホワイトナイツの進清十郎だ。まだ騎士団に入団出来る年じゃねえが、
実際にはもう王城で、あいつと戦って敵う奴は一人もいねえって話だ」

進さん……か、すごいなぁ。
僕とそんなに年も離れてなさそうなのに……。
頭も良さそうだし……。

「ちなみにオメーより一つ上なだけ」
またもや瀬那の心を見透かして、ケケケと笑う蛭魔のセリフに、瀬那は更に驚き
を深め、改めて進を凝視した。幸いにして、進は好奇の目に晒されることに慣れ
ていた上、その日もやはり泥門の多くの者たちが、進に対し興味津々の態であっ
た為、彼が瀬那一人の視線に注意を向けることは無かった。
……ある瞬間までは。


「国王陛下、お覚悟!」

そのある瞬間というのは、突然、謁見の間の高い天井から、黒装束に身を包んだ
賊が、床へ飛び降りると同時に、同じその床を蹴って、泥門国王に切りかかろうと、
突進してきたのである。

しかし賊がその目的を果たせることはなかった。玉座まであともう少しという所
で、背後から物凄い勢いで走ってきた何者かに、強烈な一撃─槍のように感じ
られたそれは、実は人間の片腕だったのだが─を喰らわされたからである。

しかしその衝撃によって、国王の傍らに置かれていた泥門王国の象徴─玉製の
蝙蝠の置物が、置かれていた台の上から落ちて、今にも床と衝突しそうになった。
その瞬間、小さな影が旋風のように─いや、旋風そのものが置物の下に滑り込ん
で、その「玉砕」を防いだ。

国王の命を救った功労者は僅か12歳の見習い騎士であり、泥門の象徴を守った
のは、これまた僅か11歳の少年侍従だった。
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あっという間の出来事に、誰しもがただ驚くしか出来なかったその中で、ただ一人
落ち着き払っていたのは、皇太子の蛭魔だった。彼がつまらなそうにパチンと指を
鳴らし、その音が静まり返った謁見の間に響き渡るや否や、ザッと、手に手に武器
を構えた兵士たちが、突如として至る所から出現し、あれよあれよという間に幾人
かの泥門貴族たちの身柄を拘束した。

「国と王室に対し謀反を企てし者ども、即刻引っ立てよ」

常日頃の荒っぽい言動からは、想像も出来ないほどの静かな皇太子の声に、捕ら
えられた貴族たちは却って恐怖心を煽られ、身を震わせた。そして屈強な兵士たち
に悲鳴の届かぬ所まで引きずられていった彼らは、そこで自分たちの直感が正しか
ったことを、まさしく「痛」感させられることになったのである。

兵士たちは、以前から謀反の気配を察知していた蛭魔が予め城中に配置していた、
彼個人の私兵たちだった。
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賊がすべて捕らえられたことで騒ぎがひとまず収まると、顔色はさすがに未だ青ざ
めていたが、泥門国王も落ち着きを取り戻し、各国の使節団に非礼を詫びると共に、
二人の少年を労った。

「その方たちの見事な働き、幼いながら大したものよ。褒美を取らす、何ぞ望みが
あれば遠慮なく言うてみよ」

国王の鷹揚な申し出に、瀬那は「いえ、僕は何も……」と、オドオドとした態度で
遠慮をした。だが隣国の見習い騎士・進は、瀬那に一瞥を投げると、よく通る凛と
した声で国王に願った。

「陛下のかたじけなきお言葉に甘えましてこの進清十郎、こちらの侍従殿としば
し、お話をしてみとう御座います。皇太子殿下の御側付きを一時とはいえ拝借する
無礼、重々承知してはおりますが、この儀、お聞き入れ下さいましょうか」
「断る」

即答したのは進の願いを叶える立場にあった国王でもなく、当事者の瀬那でもなく、
皇太子・蛭魔だった。予め知っていたとはいえ先程までの騒動にも、謀反人たちに
無慈悲な宣告を下すに際しても、眉一つ動かさず終始一貫して冷徹な表情と態度
を崩さなかった蛭魔が、この時だけは怒気をあらわにしていた。

「何を訳の分からぬことを、幼子の我儘でもあるまいに。進清十郎とやら、構わぬ。
そこな侍従と御苑でも散策してくるがよい。年近き者同士、話も弾むことであろう」

言葉同様に鷹揚な笑いを示す父王をも、蛭魔は遠慮無く、鋭い眼差しで睨み付け、
更に何かを言おうとしたが、それよりも速く進が「有難う存じます、それでは」と、
瀬那の手を取って謁見の間から走り去って行った。瀬那ほどではなかったが、進
の俊足も大したもので、二人の姿はまるで煙のように広間から消え去った。

一拍おいてからの蛭魔の表情は、それはそれは恐ろしいものであったと以後、
城中に長く語り継がれてゆくことになる。
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「あの、進……さん?僕にお話って何でしょうか……?僕、早く蛭魔さ……皇太子
様のお側に戻らないと……」

それほど長身という訳ではなかったが、自分よりはずっと高い身長の進を恐る恐る
見上げ、瀬那はか細い声で彼に用件を尋ねた。進はしばらく黙りこくったままで
瀬那を見下ろしていたが、ふとしゃがみ込むと、王城の紋章が入った手袋を脱ぎ
捨てて、突然、瀬那のふくらはぎに触れてきた。当然のことながら、瀬那は飛び
上がらんばかりに驚いた。

「ななななななにするんですかぁ!?」
「……大したものだ」

瀬那の抗議に対して返されたのは、意味不明の称賛だった。

「は、はい???」
「あれほどの俊足、一朝一夕で得られるものではない。どのような鍛錬をしている
のか、ぜひ教えてほしいのだが」

先程までとは逆に、見上げてくる進の瞳には、いささかの戯れも存在せず、ただ
「強くなりたい」という、ひたすらに真摯な思いだけがあった。

瀬那はそこでようやく、彼が隣国で現在、最も騎士としての将来を嘱望されている
少年であったことを思い出した。

「いや、特にこれといって何かしてる訳じゃ……強いて言うなら昔からパ……」
パシられ続けてきてたんで、と言いかけて、慌てて瀬那は口を噤んだ。

こんな立派な人に言える訳無いよ!友達が教えてくれた俊足術使って、ずっと
他人の使いっ走りばかりしてきたから足速くなりましたなんて……。今は蛭魔
さん以外の人には無理言われること無いけど、それでもなぁ……

「パ……何だ?」
進が怪訝そうな表情で瀬那にその先を促した。

「パ、パ、パン!そう、パン!もう死んじゃったんですけど、腕の良かった知り
合いのお医者さんが、僕の体がもっと健康になるようにって、薬草入りの特別
なパンの作り方を教えてくれて……それと毎日走り込みをするようにって!
そしたらだんだん足が速くなって……」

咄嗟に思いついた出鱈目を、それ故に物凄い早口で瀬那はまくし立てた。

「ふむ……そのパンの作り方、俺にも教えて貰えないだろうか?」
「あ……すみません。肝心の薬草が……何でもそのお医者さんが昔、旅の
行商人からほんの少しだけ買ったものらしくて、僕の家と、あと二、三人に分け
たら、あっという間に無くなっちゃったそうなんです。お医者さんが死んじゃった
んで、もうその薬草の名前も分からなくて……」

よくもまあこんな嘘を次から次へとつけるものだと、瀬那は自分自身でもある
意味感心しながら、進の反応を窺った。進はしばらく腕組みをして考え込んで
いたが、諦めたように一つ溜息をつくと、立ち上がり、無理に引っ張ってきて
すまなかったと、己の性急な行動を詫びたのだった。

「いえ、僕の方こそお役に立てなくて……そうだ!進さん、何日間か泥門に
いるんですよね?ご迷惑でなければ、一緒に走り込みしませんか?っと、そう
いえばまだ名乗ってませんでしたね。僕、瀬那って言います」

何か……何か他に、この人の役に立てることは無いだろうか?
強制や命令ではなく、生まれて初めて自分から、誰かの為に何かをしたいと
思った瀬那は、自分の足の速さを何故か高く評価する蛭魔に命じられ、走り
込みをしているのだけは本当のことだったと思い出し、勇気を振り絞って、普段
の彼ならば決して言わないような、積極的な誘いの言葉を口にした。

「む……悪くないな」
進は心を動かされたようで、それからの数日間、彼ら二人は朝と夕の決まった
時刻に、城からほど近い川沿いを共に走った。

進が王城に帰る日の、最後の走り込みの後。進は瀬那に、
「いずれまた泥門を訪れるだろう。その時はまた一緒に走ってくれるか?」と
聞いてきた。

ほんの数日間ではあったけれど、まもりやモン太や鈴音たち友人らや、少々
乱暴ではあるが蛭魔の、「守るべき対象」としての優しさに満ちた接し方では
なく、時には厳しいことも口にする進の、自分を対等な者として扱ってくれる
態度に好感を抱き始めていた瀬那は嬉しそうに、本当に嬉しそうに、それまで
見せていたものとはまったく違う、卑屈さの欠片も無い初めての笑顔を浮かべ、
答えた。

「はい、喜んで」

それでは約束の証にと、進は腰に帯びていた佩玉を外し、瀬那に手渡した。
それほど大きくはなかったが、つややかな光沢を放つ白い玉は、一目で極上
の品と分かるもので、腰に結ぶ帯の部分は白絹だった。瀬那は吃驚して進に
それを返そうとしたが、進はもう一度、約束だと呟くと、瀬那の腰に佩玉を素早く
結び付け、走り去っていった。
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あの佩玉を強引に瀬那の腰に結び付けてきたのは、或いは彼のあの、花が
綻んだような笑顔と、どこかでいつも、繋がっていたいと思ったからだろうか?
ほんの数日間、一緒にいただけだというのに……。

王城へ帰る道すがら、進は自問自答を繰り返した。しかし、その時にはまだ、
どんなに考えてもその疑問に対する答えが見つかることは無かった。
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それから五年の間、進と瀬那の約束は毎年守られ続けた。進が王城からの
使節団に随行してくる度、彼らは時間を見つけては共に走った。互いに交わ
した言葉はさほど多くはなかったが、二人は共に過ごす時間の間に、それぞれ
生きてきた中で、一番の幸福感を感じていた。

しかし、一見穏やかそうに見えてその実、友情と呼ぶにはあまりにも濃厚な
その感情の正体に気付くには、彼ら二人の心の成長は、肉体の成長とは
裏腹に、あまり進んでいなかった。

悲劇が起こるのは、五年後。

珠玉 3

2006年04月13日 | 珠玉
巨深に併合された柱谷と賊学は、泥門から海を隔てて、北と南の最も近い
隣国だった。国の豊かさは泥門と比べればそれほどでもなかったが、軍事
力においてはかなりの定評があり、それぞれ泥門とは、友好国という程の
間柄ではなかったが、貿易などで一応の交流はあったし、軍事的には不可
侵条約を結んでいた。柱谷と賊学が存在するおかげで、泥門は海岸線の
警備や、水軍の増強にそれほど気を回さなくて済んでいたと言ってもよい。

しかしそれらの頼もしき二国家が、巨深の軍門に降ってしまった。となれば、
次に狙われるのは泥門である。巨深は南北それぞれの中小国家群に、
その中の雄とも言うべき柱谷と賊学を倒すことで、自分達の実力を見せ
つけて牽制し、泥門攻略に専念出来るようにしたのである。

泥門を足場にして、巨深の名を世界に轟かせたい─壮大な野望を胸に、
数年で民族を一つにまとめあげた若き実力者の名は“カケイ”。その名前
の音を大陸の文字に当て嵌め、「筧」の文字と畏怖の念をもって呼ばれる、
眼光鋭い美丈夫である。また彼の野望を実現化するにあたり、最大の強み
は“ミズマチケンゴ”という、筧に見出され、戦場に於いてその勇が止まる
ところを知らぬ、金色の髪の巨漢であった。大陸の文字では「水町健悟」
と表され、その戦いぶりと目立つ髪から黄金の獅子にも例えられていたが、
普段は大層人懐こく呑気な男であった。
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時の泥門国王は、決して暗君ではなかったが、穏やかな気性が災いしてか、
やや優柔不断のきらいがあった。それ故に時として、国内の勢力ある貴族
達のよいようにされてしまうこともあったが、彼にも最低限の譲れない一線
はあったことと、見聞を深める為、諸国を遊学中の皇太子・蛭魔が、時として
フラリと帰国しては、その才智を遺憾無く発揮し、それらの権臣達の企みを
粉砕していたので、完璧ではないにしても、これまでの泥門は一応の平和
と繁栄を維持してきたのである。だが、今回の巨深の侵略は、彼らにとって
は絶好のタイミングで、泥門という国にとっては最悪の時期に始まった。

即ち─皇太子不在時の国王崩御である。

国王という枷が無くなり、目の上の瘤である皇太子は遠い異国の地。王族
の中には、一時的にでも執政を務められるような器量を持つ者─ましてや
奸臣達の企みを抑え込める者は一人もいなかった。泥門はすぐさま大貴族
達の支配下に置かれてしまう。

新たな支配者達の頭の中を占めるのは、巨深が王都に迫るまで、或いは
皇太子が帰ってくるまで、可能な限りの搾取をして他国に亡命すること。
彼らに愛国心などというものは欠片もなく、あるのはただ薄汚い欲望だけ
だった。

泥門が小国というのは、大陸上繋がっている、他の三大国家に比べればと
いう話で、南北の海上に無数に存在する国々と比較すれば、結構な広さの
領土を持っていた。いくら巨深が力をつけてきたとは言え、所詮は海の民。
陸に上がってからもその勢いを維持することは難しかろうし、ましてや地の
利も無い。適当に軍隊を派遣しておけば、王都に居座る時間はまだまだ十
分にある……これが貴族達の読みであった。

確かに、ある意味でその読みは当たっていた。軍の大半を構成する庶民出身
の兵士達が、皇太子が帰ってくるまでは何としてもと、悲壮な決意の下、高い
士気をもって勇敢に戦っていたからである。瀬那も、そんな中の一人だった。

瀬那は本来、気弱と言ってもよいくらいの心優しい少年だ。幼い頃から他の
子ども達にいじめられては、幼馴染のまもり、鈴音、モン太に庇われていた。
争いを厭い、他者に対して手を上げたことすらない彼が、それでも今回の戦い
に身を投じる決意をしたのは、時には乱暴ともいえるやり方ではあったが、彼
なりの愛情表現で瀬那を可愛がってくれた皇太子への恩返し、そして……

一年に一度だけ、東の隣国・王城からやってくる使節団に随行してくる騎士、
進に、二度と会えなくなるかもしれぬという恐怖からであった。

珠玉 2

2006年04月10日 | 珠玉
泥門は小国ながらも豊かな国だった。ほどほどの耕地に恵まれ、また国内を流れる
大小幾つもの河川からは、常に一定量の砂金が産出し、国庫を安定させていた。
加えて東の大国・王城と、西の大国・西部の間に位置していたことから、二国間の
勢力均衡を保つという重要な役割を果たしており、両国にしばしば話し合いの場を
提供することで、双方から様々な優遇措置や保護を受けていたのである。それらの
恵まれた条件の下、泥門は東西の文化・物資が一堂に集まる商業国家としても
栄えていた。

その泥門の平和に最近、暗雲が垂れ込め始めてきていた。国に水資源と砂金、
交通の便といった恵みをもたらす河川は、そのどれもが皆、最終的には必ず、
北か南の海へと繋がっている。浅瀬から10海里程度までなら泥門の船も漁に
行くことが可能だったが、そこから先は蛮族として恐れられる海洋民族、巨深の
勢力範囲であった。

巨深は10にも満たぬ小さな島々を除いて、領土らしい領土は持たず、もっぱら船の
上を生活の場とする民族であった。彼らの生活手段は漁と、北海・南海に接して
いる国々からの略奪が主なものである。過酷な自然環境に暮らす彼ら、巨深の民に
とって略奪は、犯罪ではなく、農耕民族の収穫作業と同じように重要なものであった。
それ故に巨深の民─特に男性の間では高い戦闘能力と、造船術及び操船術が
大変に重視されており、言い換えればそれらが彼らにとっての、絶対の強さと正義で
あった。

しかし皮肉なことに、その価値観は個々人の自信を不必要なまでに過大化させ、
民族の団結を阻んでいた。彼らの行動は常にまとまりを欠いており、そのおかげ
で、海に接した国々は皆、いつもギリギリのところで巨深の侵略を食い止められて
いたのである。

しかし、その巨深が最近になって、今までとは比べものにならない程のまとまりを
もって勢力を増しつつあると、北の海、南の海にそれぞれ接する国家の間で、恐怖を
もって語られるようになったのが去年の春頃のこと。二人の若者を中心として、巨深
は急速に力をつけ始め、先日にはとうとう中規模国家である柱谷と賊学が、巨深の
攻撃に抗しきれず、併合されてしまったという。